第53話 ぼくは敵じゃないよ
クロヴィスの奇行が起こる数分前。
アリアは全身が氷水に浸かったような衝撃にぱちりと目を開けた。
「お、やっと目が覚めたな」
自分を見おろしている白髪の少年と目があう。アリアはソファに寝かされていた。部屋にはその少年と白いもこもこしたものしかいない。
「ウルウル?」
白いもこもこだと思ったのはオオカミのウルウルだった。頭に白い毛皮のワンピースを着た妖精が乗っかっているので、リーゼントみたいになっている。妖精は「きゅぴー、ぐるぐる」といびきをかいていた。
オオカミはアリアと目が合うと、ふいに視線をそらして壁際にいってしまった。そこでそっぽを向いている。なんだか素っ気ない態度だ。今日のウルウルは機嫌が悪いのか、他所のペットみたいでがっかりする。
アリアはからだを起こすと、ぶるりとからだを震わせた。まだ寒気がする。ぼんやりする脳に刺激を与えようと、ひたいを軽く叩く。と、そんな自分を面白そうに眺めている少年の視線に、アリアはハッとして、指をつきつけた。
「あ、あなた、あたしに何をしたのよ!」
そうだ。天井から降る花びらを見ていたら誰かの気配に気を取られた。その瞬間、こつんとひたいを叩かれて意識を失ったのだ。その犯人はこの少年だ。
アスバークは警戒心むき出しのアリアにやれやれと首を振った。
「まあ、そう怒るな。ここまで強い影響が出るとは思ってなかったのだ。きみは魔力に対して抵抗力がなさすぎる。危うく、眠ったままになるところだった」
さすがのぼくもあせったぞ、と白髪の少年は軽く笑い飛ばす。アリアはむっとして相手をにらみつけた。
「あなた、魔術師だったのね。前に」
「会ったな」アスバークが言葉尻を奪う。
「寄宿学校でだった。きみはクロヴィスに会いに来たとかいっていた。あれからすこしは大きくなったようだ」
ふむふむと何が面白いのか、白髪の少年はあごに手をやり、アリアをじろじろとながめ回してくる。
怒りの興奮ですこし熱くなったからだも、不気味な少年を相手にしていると、また冷たくなってくる。血液がごっそり抜かれたような、からだの芯から凍るような冷たさだ。
少年は大魔術師アスバークだというが、見た目は十一歳のアリアとそう変わらない年頃の少年だ。しかし妖精を出現させたり、花びらを降らせたりと、術の力は本物。アリアはこれまで魔術を見たことがなく、王都や王城に住むという魔術師に会ったこともないが、少年が偽物ではないとわかる。
だが本物の魔術師がなぜマルシャン邸に来たのか。その理由がわからない。
アリアの誕生日パーティーでショーをしてもらうため、クロヴィスが邸に招いたようだが、そのいきさつも不自然だった。それなのに両親や招待客たちは疑問を持たずに、手放しで彼を歓迎し喜んでいた。
しかしそれもつかの間、アリアはアスバークのせいで意識を失ったのだ。何か術をかけられたのだろうか。アリアは寒気がする以外に不調はかんじなかったが、それでも薄気味の悪さがつきまとう。
アリアは警戒しながらも、気を引き締めて相対した。
「あなた」と非難の声をあげかけ、相手が超大物であることを思い出し、「魔術師さまは、どうしてあたしに」とたずねた。
が、そのあとがつづかない。彼がもし本当にあの大魔術師アスバークなら、ますますこの状況が理解できなかった。
有力貴族とはいえ、伯爵令嬢にすぎない十一歳の子どもに、なぜ国王も信をおくジャルディネイラを代表する魔術師が興味を持つのか。自分に好奇の目を向けられているのは、その表情でわかるのだが、理由がまるでわからない。
以前会ったことがあるからといって、もうずいぶん前のことだし、あれは偶然居あわせただけ。でもあのときもアリアが誰であるか、彼はすぐにわかっていた……。
アリアの警戒心はむくむく膨れ上がり、からだのほうは委縮して丸くなっていく。アリアはどんどんとソファのはしに移動していくと、ひざを抱えて小さくなった。
そんなアリアに、アスバークはにやにやと笑いかけながら、ソファに腰かける。彼は腕を組むと、アリアを横目で見やり、「もっと早くに会うつもりだったが」と話を切り出した。
「きみのことは目覚めたときから興味を持っていた。なぜエラーが起こったのか気になってね。いままで調べていたんだが、これといった答えはまだ出ていない」
「あの」
「まあ、聞きたまえよ。ぼくは偉大な魔術師アスバークだ。こう見えても、きみよりうんと歳をとっている」
軽くウインクしてみせる彼に、アリアは「存じています」とぼそりと答える。
「そうかそうか」アスバークはすこし機嫌を良くしたようだ。むふっと単純バカな笑みをうかべてにやついている。
アリアは助けをもとめて壁際に目をやった。だがウルウルは我関せずと何もない空間にばかり見ていて、こちらを無視している。
「きみの記憶はさぐらせてもらった」とアスバーク。アリアは彼と向き合う。
「ほんの一瞬で終わらせるつもりだったんだ」と、彼は弁解する。
アスバークはアリアの素性をさぐろうと記憶に手を出した。予定ではほんの一瞬気が遠のく程度のつもりだったのに、アリアはそのまま気を失ってしまった。それはアスバークにとっても予想外だったのだ。
「さっきも説明したように、きみは魔力の影響を受けやすいらしい。ほとんど抵抗力がないようだね。まさか気絶するとは思わなかったよ。悪かった」
軽く肩をすくめるだけの謝罪っけゼロの態度に、アリアはくちびるを固く閉じた。記憶をさぐらせてもらった、とはどういう意味か。この少年のせいで意識が遠のいたのは間違いないようだが。
「パパとママは?」
気絶したのは、パーティーのさなかだった。部屋の外は静まり返っているので招待客は帰ったようだが、両親の姿がないことが気がかりだ。それにクロヴィスもどうしているのか気になる。
アリアが心配を見せると、アスバークは「すぐそこにいる」とドアを指さし、「だが、まずはぼくと話をしようじゃないか」と顔を近づけてくる。
アリアが眉間にしわをよせて身を引くと、アスバークは「まあ、怒るな」と朗らかに笑い、親しげに手を伸ばしてきた。それをこれでもかとちぢこまって避けると、彼はショックを受けたらしく、「ぼくを警戒しすぎやしないか」と口をとがらせる。
「あのね、丸島ありさ。ぼくはきみの敵じゃないよ」
「でも――、え?」
ひやりとする。いま、何といった?
「おやおや。そう青ざめるなよ。自分の名前を忘れたわけじゃあるまい? 丸島ありさ。べつの世界から来た者よ」
「何を」言い出すんだ。なぜ、どうして。記憶をさぐった?
混乱を見せるアリアに、アスバークはため息をつく。
「ぼくは魔術師だ。それも現世最強のね。ぼくより才能のある人間はこの世には存在しない」
アスバークは自画自賛して大きくうなずいている。
「いいかい、あまり長居できそうにないんだ。本当はいろいろときみから聞き出したいことは山ほどあるんだが、クロヴィスがやけにきみを心配していたからね。いまも部屋に怒鳴りこんで来やしないかと、ぼくはひやひやしているんだぞ」
茶目っけある仕草というのだろうか、目をくるりとさせるアスバークだが、アリアの気はゆるまない。からだがこわばり、呼吸が浅くなる。
自分のことが知られている。どっと冷たい汗がつたう。本当に? 丸島ありさ。丸島ありさは自分だ。そうだ、かつての自分だ。かつて? 前世の、いや、わたしは死んだのだろうか、そんな記憶はない。それよりもこの男は何を知った? 記憶をさぐる。丸島ありさの? わたしを知っているの? なぜ。魔術で?
「ああ、やめろやめろ。パニックになるな。そう難しいことじゃないだろう」
アスバークはパンパンと手を叩いた。
「ぼくはしばらくきみの様子を見ていた。警戒していたのさ。ぼくの実験を邪魔した奴の正体を知る必要があるからね」
だがアリアの様子をしばらく見ていても、彼女に怪しいところはなかった。それは使役している悪魔ウルウルからの報告でも同じだ。さらに今回本人の記憶をさぐったことで、はっきりしたこともある。
「丸島ありさ。きみは被害者だ。つまりぼくときみは同じ立場なのだ」
アリア・マルシャンのからだに居つく魂は魔力を持っていなかった。誰かの指示で実験の邪魔をしてきたようすもない。彼女は自身の身に起こったことを理解していなかった。
だから実験の邪魔をした奴と、彼女は関係ない。ともに被害者同士である。
だが、アスバークはいちおう彼女にけん制をかける。
「しかしきみがぼくに歯向かうというなら話はべつだ。敵になるというなら、ぼくは無力な相手だろうと、容赦しないわけだが?」
ずいと身を乗り出して眼前に迫ってくる相手に、アリアはふるふると首を振る。
「よし。なら、ぼくもきみと敵対するつもりはない。邪魔をしてくる奴にぼくは我慢ならない。でもそうでない子まで嫌ったりしないのだ。やさしいだろう?」
ふふん、と鼻を鳴らしているアスバークに、アリアはしばし間を置いてから、こくんとあわててうなずいた。逆らうとよくないのはわかる。クロヴィスとはまた別種の緊張感を煽ってくる相手だ。
アリアはとくとく激しく脈打つ鼓動をなるべく鎮めようと、ゆっくりゆっくり呼吸をして自分を落ちつかせた。この世界に来てからずっと謎だったことが解き開かされようとしている。だが理解が追いつかない。まずは緊張をほぐしたかった。
その間にアスバークは、自分が行った実験のこと、アリアの魂とはべつの人間を――つまりありさを――見つけたときの衝撃、自分の計画を邪魔している相手がいることへの不満をぶちまけた。
「あの、つまり」
しばらくして、アリアは恐る恐るたずねた。
「その、あなたは『時戻し』の術を使って過去に戻った、てことですか?」
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