編みぐるみ
小山雪哉
第1話
「……どうしたっていうの」
言いながら後部座席に腕を伸ばし、激しく揺さぶられているケージを解放する。
「今日はずっと唸っていたね」
どうして、と彼の頭を撫でる。舌を出してキョトンと不思議そうに主を眺めている彼は、しかし、弁明の言葉を発するはずもなかった。
市民公園の駐車場の一角では、毎月第一日曜日にフリーマーケットが開催されている。開放的な緑地と池が魅力の公園で、平日に訪れる人も多い。純粋に掘り出し物を求める客や、ふらりと喧騒に誘われて覗きにくる客はもちろん、ご近所同士の交流や、ハンドメイド仲間の情報交換の場としても賑わいを見せていた。
左右にはテントが立ち並び、売り手が熱心に人を呼び込んでいる。十二月という季節柄、クリスマスカラーの商品がそこ彼処に目立っていた。結衣子はそれを流し見ながら、小型とは言い難い彼を抱きかかえ、駐車場の奥へと進んでいく。
客の密集地帯を抜け、彼を地面に下ろしたとき、「おーい」と右手奥から響く元気な声に顔を上げた。最奥のテント前に、手編みの白いニット帽を被った笑顔がこちらを向いている。
「遅くなってごめんねー」
結衣子はそう返すと、駆け出した彼のリードに引っ張られ、彼女の元へ一直線に進んだ。
「今日は遅かったね」
「いつもは大丈夫なのに、何故か今日だけケージを嫌がっちゃって」
苦笑する結衣子に、彼女――佐和は屈託なく笑いながら彼の身体を撫でる。
「心配してたんだけど良かった。今日はまだまだ在庫があるから焦らなくても大丈夫よ」
質が悪いってことかもしれないけど、と佐和は自嘲して、勘定を求める客の方へ戻っていった。
結衣子は息を整えながら、マフラーを緩めて店内――と言っても簡素なテントだが――に足を踏み入れた。
L字に組み合わせた長机には、色とりどりの小物が籠やケースに分けられている。イヤリングやネックレスなどのジュエリー、マフラーやポーチなどの雑貨に加え、手芸に使う細々したスパンコールやビーズなども陳列されている。
「凄いなあ」
呟きながら、生き生きと接客する佐和をしみじみと眺める。
――私も久々に作ろうかな。
そもそも結衣子と佐和は、高校の手芸部仲間だった。手芸経験のない不器用な結衣子に、懇切丁寧に付き合って教えてくれた唯一の同級生が佐和だった。卒業後は大学が別々になり疎遠になっていたのだが、昨年ふと訪れたこのフリーマーケットで偶然再会を果たした。
佐和はハンドメイド一本を仕事にしていた。雑貨屋に商品を置いてもらったり、ネットで売ったりしているらしいが、フリーマーケットも始めたのだという。
一方結衣子の方は、大学卒業後に結婚し、一人息子が小学校に入った頃だった。子育てと仕事を辛うじて両立させてきたのが、ようやく時間的に余裕ができ始めたので、日曜の午前中は、犬の散歩と買い出しを兼ねた散策に出かけるようになったのだ。
佐和と再会したときはひどく驚いた。彼女とは、「一緒に雑貨屋を経営しよう」と約束した仲だったからだ。裏切ってしまったという悔悟の念が、卒業後も常に心の底にあったのだが、彼女は高校時代そのままに、親友との再会を喜んでくれた。
佐和の優しさは心から嬉しかったが、負い目が消えたわけではなかった。再会後に別の同級生から聞いた話では、佐和はかなり苦労したらしい。親元を離れ、アルバイトで食い繋ぎながらも、夢を諦めずに努力していた彼女は、一時、精神的に追い込まれて、危ない状況だったという。
佐和が高校時代に戯れに交わした約束を覚えているかは分からない。しかし、もし彼女と一緒の道を歩んでいたとしたら、そこまで苦しまずに済んだのかもしれないと結衣子は思ってしまう。――高慢で自惚れた想像だと分かってはいるが。
ひとり感傷に浸りながら雑貨を眺めていると、ふと泥の臭気が鼻をついた。池の方からだろうか、と顔を向けると、結衣子は初めて佐和のテントの向こうに、もう一つテントがあるのに気付いた。
――新しい店が出たのだろうか。
思いながら一度テントの外へ出る。確かに隣にはもう一つテントが併設されていた。すぐに気付かなかったのは、机がなく、ブルーシートの上に気持ちばかりの簾が敷いてあり、その上に商品が無造作に陳列されていたからだ。
「いらっしゃい」
背後から掛けられた声に、結衣子は「やっ」と前につんのめった。
「おや、驚かせましたかね」
穏やかに微笑しながらテント中央の座椅子に胡坐をかいたのは、痩せぎすの老年男性だった。皺の刻まれた頬、凍てつくような
彼の周囲には、これまた人相からは想像の付かない可愛らしい編みぐるみが積まれている。手芸好きに悪い人はいない――冗談で佐和が言っていた言葉を思い出しながら、結衣子は彼に近付いて腰を下ろした。
「これは動物……ですか?」
「動物、とも言えます。中国の妖物や神獣の類が多いですな」
「ご自分で編まれたんですか? いえ、あの、ここは個人で出店している方が多いので……」
「
そういうつもりでは、と耳を赤くする結衣子を見て、彼は楽しそうに笑う。
「意地が悪かったですね。確かにこんな爺が編みぐるみを売っていても、なかなか客が寄り付きませんで。……まあ昔は自分で編んでいたこともありましたが。これは委託されて売っているだけです。利益を求めていないので、爺が店番でも大丈夫なのです。そして爺の眼光に負けずにやって来る人間は、すべからく真に商品に興味を持ってくれている優良なお客様、というわけですな」
上手いこと使われているでしょう、と目尻に皺を寄せて笑う。
彼の穏やかな表情に安堵した結衣子は、しばらく彼――張さんと話をした。娘さんが編み物教室を開いていること、生徒の作品の一部を販売していること、ここの賑わいを聞いて、隣県からやってきたこと――。
「そちらの可愛らしい方のお名前は?」
ひと通り話を終え、張さんはそう尋ねてきた。
「虎吉といいます。柴犬なんですが、虎のように強くと願ってつけました。最初は単にトラにしようかと思ったんですが、主人が猫みたいだからと嫌がって――」
そこまで言って、結衣子は張さんが凄まじい眼光で虎吉を見つめているのに気付いた。反射的にリードを後ろへ引っ張って自分の身体で隠す。
「虎吉……いや、何にでも縁というものはありますね」彼は周囲の編みぐるみを漁りながら、ひとつの黄色い物体を手にする。「これは生徒が作ったトラですが、試作品だから処分してくれと言われていたものなんです。とはいえ出来もいいから残していたんですが。どうです、是非貰ってくれませんか」
「え、それは申し訳ないです。時間もかかっているだろうし」
結衣子が財布を出そうとすると、彼は手を出して止める。
「やや、遠慮なさらずに」
そう言われても、と悩む結衣子の目に、彼のすぐ右隣りの編みぐるみが目に入った。
「じゃあ……その茶色の動物を買わせていただきます。おまけとして、虎を頂くというのはどうでしょう?」
結衣子が指さした先には、茶色の胴体を持った編みぐるみがあった。先ほどの会話中から気になっていたのだが、何の動物か分からなかったので買うか迷っていたのだ。
張さんは茶色のそれを拾い上げる。露わになった全身に、結衣子はますますそれが何か分からなくなった。
「それは、四足歩行の動物ですよね。尻尾と角があって、……でも顔がないようですが」
「参ったな、未完成品が紛れ込んでいたとは。済みませんがこれは――」
「待ってください!」
訳も分からず結衣子はそう叫んだ。隣のテントにいた佐和を含めた数人が何事かと振り向く。結衣子は自分の声量に驚くとともに、唐突にそれを手にしたいという衝動が襲ったことが不思議で堪らなかった。
「声を張り上げてすみません……。買います。いくらですか?」
張さんは最後まで未完成品を売ることに抵抗していたが、結局結衣子はその得体の知れない編みぐるみを購入することに成功した。虎をタダで頂く代わりだから――そう自分に言い聞かせるが、茶色いのっぺらぼうの動物に惹かれたことを、もう一人の自分が訴えてくる。
「急用を思い出したの。また来月ね」
佐和に謝って市民公園を後にする。行きにあれだけ唸っていた虎吉が、帰りの車内ではひどく静かだったのが、結衣子の胸に薄ら寒い風を吹かせた。
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