β004 飛ぼうCMAβ
『初めまして。
指紋認証、網膜認証、声紋認証をクリアしてネココちゃんパーソナルフォンに応答すると、澄んだ若い女性の声が聞こえた。
会社でも知らない方だな。
「はい」
僕は、ちょっと警戒して、名前を伏せた。
『葛葉創様でいらっしゃいますか?』
肩すかしを食らった。
パーソナルフォンなのだから、本人が出るのが当然だろう。
名前は知られていて当たり前だ。
しかし、僕は綾織さんを知らないので、ひなも静かにするように口元に指を当てた。
「え、ええ」
無駄なことは話さないに限る。
『
初めて聞く名だ。
それにしたって、どうしてピンポイントで僕の所へ?
「本当に知りません。失礼してよろしいでしょうか」
『分かりました』
綾織さんは、パーソナルフォンを静かに切った。
言葉だけ聞いていたら冷たくなぞらえると思うが、声がクッションになってやわらかかった。
もう少し、親切にしても悪くはなかったかな。
「ひな、もういいよ。相手を間違えたみたいだよ」
キッチンから振り返ると、ひなは椅子に縛られたように固まっている。
「はー、どこかでポリスが聞いていたのかと思った」
ひなが、大きくため息をついて、ガラスのテーブルに顔をうずめてしまった。
小柄なひなでもテーブルを占める。
カフェはキッチンに置いたままだ。
猫舌だから、カフェが冷めてもいいか。
明日が会社とか関係なく、ここは独身用だから泊める訳にもいかないな。
何やら物騒だから送ってやりたいが。
「ひーな。僕がセトフードサービスのお土産をお夜食にいただくよ。僕はひなと美味しいものを食べに行きたいな。ディナーで、どうかな」
「わ! それってお外で? 予約なしでもお食事できるの?」
ひなは顔を上げて、少し元気になったようだ。
それなら、僕だって奮発するよ。
「いい所を知っているんだ。タクシーバスではなくて、リムジンにしますか」
「昔乗った二人乗りバイクがいいな」
僕が免許を取得したばかりの頃、ひなに綺麗な虹を見せに
嬉し涙まで流して感動するひなが可愛いとどれ程思ったか。
「はは。ひなは結構お茶目になったのか」
昨日のセトフードサービスの失職と父さんと母さんの件、忘れてくれたらいいな。
◇◇◇
レストランユッキーは、白を基調としたベーシックなデザインの中に空中庭園暦元年創業だとオーナーのユッキー=マッシーが譲らない伝統を感じる。
看板メニューは、一日ランチだ。
頼めば、フルコースメニューを出してくれるのだが、大抵は三つのランチから選ぶ。
「ええと、今日は、Aがメカジキのムニエルバターレモン白ワイン仕立て、Bが鶏もも肉とズッキーニの揚げびたし、Cが本日のミニパスタとエビとアスパラのクリームドリアか」
「創兄さん、迷うね!」
何だかとってもご機嫌なのですが。
先程は、個人情報を利用されたりして傷付いていたようだったけれども、美味しいものでお腹を満たすのも元気になる第一歩だ。
ひな、がんばれ。
いや、がんばらなくていいのだったな。
まだ、メニューを決めかねていると、パーソナルフォンがベルを鳴らした。
今度も『神聖なる大地の剣』だった。
もしかして、ネココちゃんの勘違いで設定されていたり、ベルの向こうが『マリッジ◎マリッジ』の上司だといけないので、三つの認証をさっとくぐって応答した。
「今度は、どちら様でしょうか?」
しまった。
今度とは、余計だったな。
『葛葉創くん、ワタシからあなたと空中散歩のお誘いよ』
「CMAβなのか!」
おもちゃの相手でも構わない。
『ワタシには一か零しかないの。早く決めて』
ツンツンした話し方が最高にいい。
僕には塩辛い対応のこのCMAβがたまらなかった。
「は、はい! 空中散歩ですね!」
僕の体は、ふわりと浮いた。
このまま行くと、空中庭園国の境界まで泳いでしまう。
境界はブラックホールのようになっていると聞く。
それでも、構わない。
CMAβには何も断れない。
僕の胸に風が吹くのを感じる。
今なら、飛べる!
「お客様、お止めください」
「創兄さん、そこはドームの壁だよ。レストランで壁抜けでもするの?」
体を張って引きとめるのはよせ。
「僕は、CMAβを追いたいだけだ」
僕は飛ぶんだ……。
雲をも掴んでみせる。
しかし、超人の如くジャンプをしても空を切るばかりだ。
おでこをレストランのテーブルにぶつけた。
「創兄さん? 具合が悪いのかしら。汗だくになっている」
ひなが、ハンカチで僕の顔を拭ってくれる。
これが白昼夢なのか?
「ひな、僕は飛びたかった」
「外に落ちれば、放射線を浴びますよ」
本当はドームを抜けたいと思っている方はいると思う。
しかし、その先のブラックホールは怖い。
「僕は何かしたのかな」
「背もたれに身を任せながらうたた寝をして、唸っていました。さあ! 一日ランチはどれにしようかな」
ひながA、僕はBにした。
二人っきりの兄妹なのに、中々こんな機会もない。
今夜は、ひなが嫌なことを忘れるだけではなくて、楽しい想い出を作って欲しい。
「うわ言で思い出したけれども、僕は先日病院に行ったんだ」
「どこか悪いの? 創兄さん」
二人で、一日ランチを楽しんでいる。
僕のは野菜が不足しがちなので、ズッキーニがありがたい。
ひなも養殖か人工のか分からないが、メカジキは珍しい食材だ。
このレストランユッキーが、隠れた名店なのもうなずける。
「会社の健康診断だよ」
僕とCMAβを繋ぐ唯一の鍵だ。
夢のアイドルに熱中しているなんて、ひなには話しにくいな。
「私もセトフードサービスで、行ったばかりよ」
「なんだって?」
脳に疑念を抱かれる健康診断をひなまでも?
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