終章 眠れる女神に永遠の約束を 2
大城山をあとにして市伊が向かった先は、水城神社だった。改めて「神主は継がない」と宣言したこと、葛良の命を市伊が救ったことから、融とのわだかまりはほぼなくなっている。渡は非常に残念そうな顔をしていたが、色々思う部分もあったらしく納得はしたようだった。
足元で砂利が軽やかな音を鳴らす。入り口に立つ猫目の青年に挨拶をしてから中に入ると、市伊は神社の奥にある修行場を目指して進んでいく。耳を澄ませば、流れ落ちる滝の音と共に声が聞こえてきた。
「まだ駄目だ! 術を解くな!」
「んなこと言われてもそんな長く維持できねぇよ……っ」
「本気で神主を継ぐ気なら、甘い考えは捨てろ!」
そっと様子をうかがうと、融は地に膝を着き、肩で大きく息をしていた。そのそばで厳しい声を飛ばすのは、かつて大天狗と呼ばれた男である。毛皮を腰に巻き、高下駄をはく姿はそのままだが、山伏天狗の象徴とも言える朱面ははずされている。
あの日――柚良と共に呪詛へ飲み込まれ、神獣としての格を失った時に朱面は砕けてしまったのだという。柚良の前の山神である桜の古木にも仕えた大天狗は、どちらにせよそろそろ潮時だったのだと笑って人里に降り、現在は普通の人間としての生活を送っていた。力のほとんどを失ったとはいっても普通の人間としての生を全うできるぐらいの寿命は十分にある。さらには現役神主の渡を凌ぐほどの霊力に加えて豊富な知識もあるので、毎日こうやって神社に来ては次期神主である融の修行の指導をしているのだった。
「市伊、来ていたのか」
「父さん。ちょっと神社の書庫に用事があってさ。じじは?」
「渡なら本殿で秋祭りの準備をしているぞ」
「わかった、ありがとう」
融も頑張れよ、と一声かけて市伊はその場を立ち去る。天狗たちのしごきは厳しいが、決して無理なことは言わないし、言うとおりにやれれば必ずそれだけの実力がつく。ほんの数ヵ月前に自分もうけた修行を思い出しながら、市伊は本殿へと向かった。
あと一週間後に迫った秋祭りのために、本殿では渡と共に数人の神職たちが準備に追われていた。神事に関わるのは水城神社の神主である渡と融、そしてこの村でも特に霊力の強い家系である
「じじ、ちょっといいか」
「おお、市伊。なんじゃ、めずらしいのう。手伝いに来てくれたのか?」
「ごめん、今日は別の用事があるんだ。神社の書庫にある書物を見せてくれないか」
「書庫の……まあ、本来なら神社に関わる者にしか見れんが、お前なら良いじゃろう。――
市伊の願いを聞き入れた渡は、一人の青年を呼ぶ。入り口で出迎えてくれた猫目の彼が書庫まで案内してくれるらしい。青年がつれていってくれた場所は、渡の私室があるところよりもまださらに奥へ進んだ場所だった。
『――
薄墨が印を結び扉へ触れると、重たい引戸がするりとひとりでに開く。つん、と埃っぽい匂いが満ちる書庫に足を踏み入れると、大量の書物が本棚に納められていた。神木村と神社の歴史関係の本はどこにあるか薄墨に問うと、一番奥の本棚を示される。そこだけ他の本棚とは違い、美しく手入れをされた丹塗の本棚に書物が納められていた。
「私は外に控えておりますので、何かあればお呼びください」
「ありがとう。用が終わればまた声をかける」
踵を返して出ていく青年にお礼を良い、市伊は丹塗の本棚へと近寄った。人と妖の混ざり者たちが集まってできたのが神木村であり、自分たちを庇護してくれた桜の古木を祀るために作ったのが水城神社である。その歴史がつづられている書物をひとつずつ手に取り、読み解いていく。読み書きは父母や渡に仕込まれていたため、幸いなことに書物の文字は苦労することなく読むことができた。
(最近よく見る夢……あれはいったい、誰だ……?)
戦いが終わり、柚良が眠りについてから何度も見る夢がある。自分の無力さを呪い、山神になる運命から柚良を解き放つことができなかったと悔いる声がひたすら響く夢。その声はいつも、来世も彼女の傍にいたいと自分に呪をかけるところで終わる。その声が誰のものなのかを知りたい。そのために市伊は神社の書庫へ来たのだ。
彼は夢で、柚良の許嫁だったのだと言っていた。自分は次期神主になる身だから、全てを捨てて彼女と一緒になることはできない、村を見捨てることはできない、と。柚良ではなく村を守ることを選んだ自分を許してほしい、と叫ぶ声は悲哀に満ちていた。
二冊目、三冊目と読み進めていく。神木村の歴史は常に侵攻と隣り合わせだった。ある時は朝廷から逆賊だと見なされて攻め込まれ、またある時は力を追い求める妖に狙われる。そんな歴史を繰り返して、神木村は桜の古木の庇護のもと、大城山のふもとにあり続けた。
桜の古木が朽ち果て、村を庇護するものがいなくなったという記述が出てきたのは六冊目の半ばだった。自分の知る神獣たちはこんなにも昔から大城山にいるのか、と改めて驚きつつ、柚良が山神として奉じられるまでの歴史をたどる。
「……あった、これだ」
彼女が山神になってから十年ほどしたころ。神主が代替わりしたという記述が見つかり、その部分の文章を見逃さないよう指でたどる。七代目神主を継いだのは、水城
桜が花咲くころに行われる
――来世の僕へ。
どうか、今度は。彼女がひとりぼっちで寂しくならないよう、そばにいてあげてほしい。彼女の全てを瞳に映せるように。彼女と言葉を交わせるように。僕の持てる力全てを、君に託す。
彼の叫びが、希う声が何度も耳の奥でこだまする。彼は市伊にすべての力を託してくれた。柚良を見ることができるのも、あの日彼女に出会うことができたのもきっと、明日葉が自分の魂に呪をかけて、強く願ったからだ。こんどこそ、彼女の傍にずっといられれるように、と。
それなのに、自分はいったいどれだけのことを柚良にしてあげられただろう。彼女を守りたいと願って、必死で弓を引いた。その結果彼女は一命をとりとめ、今もなお山神としての存在を保っている。だが、それは彼女にとって幸せなことなのだろうか。
『市伊――』
彼女が甘く名を呼ぶ声が蘇る。初めて会った時のこと。二度目に会いに行ったときの嬉しそうな顔。からかいすぎて泣かれた時のこと。怒った時の顔も、市伊を心配そうに見つめる顔も、すべて鮮明に覚えている。
柚良に会いに行くたびに、何もなかったかのように起き上がってまた笑いかけてくれるのではないかとつい期待してしまう。紫金には、市伊が生きている間には目覚めないだろうと、そうはっきりと言われているのに。それでもなお、淡い期待を抱いてしまう自分がいるのだ。
(もう一度……貴女に会いたい)
ほたり、と。一粒の涙が市伊の右手に落ちる。別れはあまりにも唐突だった。戦が終わった後もやるべきことがたくさんあったので、彼女ともう二度と言葉をかわせないのだという実感は全く湧いていない。眠る柚良の元を訪ねたのは、今日で三度目だ。まだ実感は湧かずとも、ぽっかりと胸に穴が開いたような寂寥感は少しずつ自覚しつつあった。
いつしか心の叫びは慟哭となり、書庫の空気を震わせる。こんなにもひとりの人のことを想うのは、初めてのことだった。もっとたくさんの言葉を贈っておけばよかった、と後悔してももう遅い。今更市伊がどんなにその想いを言葉にしても、柚良には届かない。その事実を改めて突き付けられて、胸が張り裂けそうに痛んだ。
(……どうしたらもう一度貴女に会えますか。柚良さま――)
その問いに答える者は誰もいるはずがなく。ただ、市伊の押し殺した嗚咽だけが書庫にむなしく響いていた。
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