第七章 ゆれる天秤が傾く先は白か青か

第七章 ゆれる天秤が傾く先は白か青か 1

 ゆるり、と少女は眼をあけた。大地の色を映す双眸は神域の入り口を静かに見据え、ただじっとその時を待っていた。


「わらわと血をおなじくする者が、山を荒らすか……」


 それはまるで、山神になりたくないと叫んでいた過去の自分の写し身のようだった。村のため、山のためだと大人たちから言い含められ、身寄りのない柚良に選択権はなかった。自分の役目をきちんと受け入れるまでは、この力を使って全てをめちゃめちゃにしてやろうか、という衝動に駆られたことも何度かある。だからこそ、柚良は余計葛良のことを他人事だとは思えなかった。


「やはり、市伊の妹はあやつの人質になってしまったんじゃな」

「……ええ、残念ながらそのようです。卑劣な手を使う」


 傍に控えた大鹿が憤慨するように蹄をかく。市伊は最後まで葛藤するだろう。柚良と、瑞季と。その天秤をどちらに傾けるか。最後は必ず瑞季を選ぶだろうが、そうなればきっと彼は二度と柚良の前には現れなくなる。贖罪しょくざいの意識にまみれてなおこの場所へ来ようとするほど、柚良と彼の繋がりは深くない。そのことを、何より柚良が一番理解している。そうならないためにも「市伊が葛良を神域に案内する」という事態はなんとしてでも避けねばならなかった。


「戦況はどうじゃ」

「紫金どのは各妖へ徹底抗戦の指令を。大天狗どのは妹君の奪還を。いまのところ、五分五分といった状況ですね」


 予想通りの状況に、柚良は大きくため息をついた。都から呼び寄せたという戦力は、思いのほか妖退治に特化した集団らしい。市伊は妹奪還と神域の侵略阻止のために峠へ向かうだろうが、道中は苦戦するに違いない。市伊も捕縛して痛めつけた方が、ことは上手く進む。戦いとはそう言うものだ。


 この戦いが終わった後も、市伊には変わらず会いに来て欲しい──そう願うのは、罪なのだろうか。はやく彼を柚良から解放した方が良いのだと言うことは、百も承知している。それでも、市伊と会えなくなると考えただけで、胸が苦しくなるのだ。もっと、あの低くて優しい声音で名前を呼んで欲しい。骨ばった大きな手で、たくさん触れて欲しい。その狂おしいほどの想いは日に日に柚良の中で膨らむばかりだった。


 だが皮肉なことに、柚良が会いたいと望めば望むほど、彼の幸せは壊れていく。結果的に、自分とは時間の流れが違う若者をこの戦いに巻き込み、あまつさえ家族に危険が及ぶ事態になってしまった。全ては柚良が招いたことだ。彼に会いたいと望まなければ、市伊は何も知らないまま、平和に村で暮らせたのに。


「……わらわはな、悲しむ市伊の顔は見たくない」

「そうですね。あの若者は、十分すぎるくらいこの山と柚良さまのために尽力してくれました」

「すまぬな、そなたたちには負担をかけてばかりじゃ」

「いいえ、それが私どもの務めですから」


 全てを理解した顔で、大鹿は頭を一つ下げた。初めはあんなに市伊が柚良に近づくことを嫌っていた彼も、市伊の献身ぶりを間近に見て、評価を改めたらしい。では私は彼の助太刀を。そう言って大は柚良の前を辞し、神域を出て行った。




 木々の間を暗器が飛ぶ。それを間一髪でかわし、市伊は身を低くして先へと進んだ。峠までの道はまだ遠く、邪魔は増えるばかりだった。


「倒しても倒してもきりがないな……」


 はじめは相手が動けなくなるまで戦っていたが、その数が片手を超えたあたりで逃げる戦法に切り替えた。相手をしても、無駄に時間と体力を食うだけである。そのうえ、向こうはどうやら市伊をとらえようとしているらしく、余計に戦うのが面倒な相手だった。


「はやく峠へ行かないといけないのに……!」


 もういっそ捕まってしまって運ばれたほうが早くいけるのだろうか、と疲労で鈍った頭で考え始めたとき。大きな白い体躯が市伊の視界を横切った。


「市伊! 私の陰に隠れろ!!」

「大どの……!」


 飛んできた数本の飛び道具を角で薙ぎ払い、大鹿は市伊を護るように前へと立ちふさがる。ぎぃん、と何もない空間で刃物が跳ね飛ばされたのを見て、大が簡易的な結界を張ってくれているのだと理解した。手短に謝意を述べ、言葉に甘えて鹿の体躯に身を寄せる。怪我はないかと聞かれてうなずくと、ここは任せて先へ進めと促された。鼻づらで指示された先は、細く続く獣道だった。


「この道は守護と隠蔽を強めている。きっと今までよりは楽にすすめるはずだ」

「恩に着る……! この借りは必ず──」

「この戦いが終わっても、お前が柚良さまの傍にいてくれることが我らにとって一番の恩返しだ。だから、早く行け」


 ふん、と鼻を鳴らして背中を向ける大鹿の言葉に、市伊は何も返すことが出来なかった。それほどに自分は信頼されているのだと言う嬉しさと。この戦いが終わったらもう柚良の傍にはいられないな、という思いを見透かされた気まずさと。二つの気持ちが入り交じって言葉が出てこないまま、市伊は促されるままに獣道へ飛び込んだ。


 その道を進めば、確かに追っ手はほとんど市伊を見つけて襲ってくる事はなかった。何度かうっかり道を外れて見つかりかけたことはあったが、獣道に戻って息をひそめれば、彼らは市伊を見つけられずにどこかへ消えて行く。おかげで体力をかなり温存したまま、峠の近くまで進むことが出来た。


 獣道に身を潜めたまま、市伊はそっと峠にある神域の入り口付近の様子を伺う。あまり騒がしくなっていないところを見ると、まだ彼らの一行は到着していないらしい。だが、胸の奥を焦がす痛みが一層強まったのを感じて、葛良と瑞季はこの近くに居ると確信した。


 ──焦るな。じっと機会を待て。


 そう自分に言い聞かせ、気配を殺してその時を待つ。機会は一度しかない。それを逃せば瑞季も奪還は失敗し、自分は柚良の神域への扉を開かねばならないだろう。


 ざざ、とかすかに茂みをかき分ける音がした。数人分の足音に混じり、女の声が聞こえる。間違いない、葛良の声だ。もう少し、近くに来てくれれば。じりっと道の端に身を寄せて、いつでも飛び出せるように準備していた市伊は、次の瞬間自分の耳を疑った。


香乃かのさん、ここはとても見晴らしが良いわね。お昼を食べるのにもってこいの場所なんじゃない?」


 ──なぜ、瑞季の声がする。あんなに平然と、自然に。彼女は無理矢理葛良に連れ去られたのではなかったのか。頭が混乱して、目の前の状況が上手く掴めない。香乃、と呼ばれている少女は少し風貌を変えてはいるが、紛れもなく葛良だった。


「瑞季さん、もう少し先に行こう。あっちの方が少し木陰になっていて良いよ」

「あらそう? じゃあそちらにしようかしら」


 ころころ笑って、瑞季が促された方へと歩いて行く。彼女が市伊に背を向けた途端、葛良は一瞬だけ市伊の方を振り返って見せ、にぃっと笑った。ああ、気付かれている。市伊が動揺したせいで、居場所がばれてしまったのだろう。はめられたのだと悟った頃にはすでに葛良と瑞季は手をとりあい、市伊の間合いから離れた木陰へと歩いて行ってしまったのだった。

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