第四章 西方より黒月は来る 3

「――あなた、いつも厄介ごとに巻き込まれてるわね」

「はい……えっと、すみません……」


 少しばかり非難するような視線を送られ、市伊は居心地が悪そうに目をそむけた。大城山の中でも一番安全で、かつ有意義な回答が得られそうな人選をしたつもりだったが、間違っていたのだろうか。自分の選択に、一気に不安が押し寄せる。だが紫金から返ってきた言葉は、市伊の想像していたものと少し違っていた。


「村を出てから、追手が一人。あなたの後ろにくっついていたわ」

「……すみません。一人はまいたのですが、もう一人には気づきませんでした」

「わたくしが気付いて狐火で惑わせなければ、すぐにここの事を知られてしまったでしょうね」

「……はい……」


 自分では、入念に追手がいないかどうか探ったつもりだった。だが、相手は一枚も二枚も上らしい。妖専門の集団というだけあって、潜伏と追尾に長けているようだ。彼女の言うとおり、もしも狐火で追跡を断ち切ってもらえなかったら、と考えるだけでも恐ろしい。もう、戦いは始まっているのだ。そのことを、はっきりと自覚させられた。


「とはいえ、まっすぐ柚良さまのもとへと向かわなかったことは、褒めて差し上げましょう。万が一神域を荒らされてしまっては、あの子の力が弱まってしまう。大城山の加護をも失うことになりかねないわ」

「……彼らは、“山に棲む狡猾で強力な妖を狩りにきた”と、言っていました」

「ふうん。それはいったい誰の事なのかしら」

「わかりません。それ以上のことを言いませんでした。具体的な妖の名を引き出すには、もう少し時間と信頼が必要かと」


 紫金は市伊の返答を聞きながら、すうっと目を細めた。馬鹿な子。自らの身を危険にさらしてまで、この山の妖と柚良を守るつもりなの。そう問われて、市伊は黙ってうなずいた。もう決めたのだと、覚悟を目に宿らせて。その様子に、紫金は笑みをこぼした。


「もう効果を知ってしまったでしょうから言いますけれど……わたくしの数珠があれば、大抵のことは可能になるでしょう。気が済むまでおやりなさいな」

「止めないのですか?」

「無駄でしょう。そういう顔をしているわ」


 てっきり止められると思っていたので、肩透かしを食らったように市伊は目を丸くした。そんな自分を、ふふ、と笑って紫金が覗き込む。まるでいたずらっ子を見守る母のような、柔らかなまなざしだった。それを見て、全部見透かされているのだと市伊は悟る。全部理解されたうえで、手のひらで転がされているのだ、と。


 かなわないなあ、と深くため息をつく市伊をしり目に、紫金が流れるように片手を伸ばす。懐の奥深くにしまいこんでいたご神体が紫金の手の上へ乗せられていたのをみて、市伊はようやくここへ来た本題を思い出した。このことで祠を訪れたはずなのに、すっかりおざなりになっていたことも、神狐はしっかり見抜いているようだった。


「また大層なものをこちらへ持ち込んだわね。温かくて懐かしい、佐久夜さくやの匂いだわ」

「水城神社のご神体です。現神主から、悪用されぬようにと託されました」

「あら、渡の秘蔵っ子ってあなただったの。また面倒な狸に目を付けられたこと」

「もう、慣れました……」


 がっくりと疲れ切って遠い目をする市伊を、紫金が生暖かい目で見返す。諦めなさい、とにっこり笑って言われたので、いよいよ色んなものから逃れられないのだということに深いため息をついた。自分はただ、柚良に時々会いに来るただの人間でいたかったのに。そう思ってみても、動き出した事態は止まらない。


 自分の生活を、ひいては大城山の平穏を脅かすのは、葛良の存在だ。彼女の明確な目的はまだ見えてこない。宮廷からやってきた月士。この村を救いに来たとうそぶく彼女の本当の目的を明かし、それを阻止しなければ、平穏は戻らない。それだけは、何となく感じるのだ。肌をピリピリとさす感覚は、彼女が神木村にやってきてからずっと、完全になくなることはない。


「これは、わたくしがあずかるわ。神域の奥深く……人間の手の届かないところへ、おいておきましょう」

「ありがとうございます」

「その代わりに、こちらをお持ちなさい。力は劣るけれど、佐久夜の代わりに結界の礎となってくれるでしょう」


 ご神体の代わりに手の上へ乗せられたのは、美しい緑の勾玉だった。清浄な気を放つ勾玉はご神体にこそ劣るものの、悪しきものを払う清浄な気をまとっている。紫金はこれを翡翠の勾玉だと説明をしてくれた。大城山から掘り出された翡翠を柚良の手で成形し、祈りを込めたものだという。柚良が認めたもの以外が悪意を持って触ると砕けて呪を跳ね返すようになっているから、気を付けてね。そういわれて、この勾玉が結界以外の役目も担っていることに気づかされた。


「ではこれを、明日じじに渡します」

「くれぐれも気を付けて。私が目を欺く術をかけたから、元の勾玉と変わらないものに見えるはずよ。あなたと渡の目以外にはね」

「重ね重ね感謝いたします、紫金さま」


 深々と頭を下げ、市伊は大事に受け取ったものを懐へと仕舞い込んだ。肌をピリピリとさす感覚が、少しだけ和らいだ気がする。自分にまとわりつく重苦しいものが、翡翠の清浄な気によって取り払われたような、そんな感覚。どこからともなく、ふわりと香る山梔子くちなしの匂いに、市伊は目元をゆるめた。柚良が好きな花の香り。緊張と警戒でこわばっていた体の力がすっと抜けていく。


「あまり気負わず、楽にやりなさいな」

「そんなことを言われても、無理ですよ。この山と、村の命運がかかっているんですから……」

「すべてを一人で背負うものではない、と言っているのよ。あなたができることなんて、限られているのだから」


 その言葉に、ぱっと市伊は顔を上げる。深い笑みをたたえる紫金の表情は、もっと人を頼りなさい、と告げていた。市伊が、一番苦手とするものだ。父母を失くしたあと、ただひたすら己の腕のみで妹と二人の生活を守ってきた市伊にとって、他人を信用し、頼ることは難しかった。気心の知れた村人であっても、決して奥底までは信用しなかった。誰だって、自分と家族を守ることが最優先だ。いくら表面上では優しくし、いつでも頼ってねと言っていても、自分とその家族が脅かされることがあれば。家族と市伊たちを天秤にかけることがあれば、その天秤がどちらに傾くかは明白だ。


 市伊もそれを薄情だとは思っていないし、仕方のないことだと思っている。だからこそ、信用しすぎてはいけない。過度な信用は、自分たちを脅かすこともある。ただその覚悟で生きてきた。その生き方を少しでも変えるのは、思っているよりも難しいことだ。けれど、それが必要だというのなら。


「一人で戦っているのではない、ということは覚えておきます」

「ええ、今はそれで十分よ。自分を犠牲にすることだけが、戦う方法ではないことを覚えておいて」


 自分をもっと大切にしてあげなさい。そう紫金に言われて、市伊は目を見張った。そんなことを言われたのは初めてだった。もっとあなたがしっかりしないと。母親を、妹を護ってあげないと。そう言われるばかりで、自分のことはいつだって後回しにしてきたのだ。今更自分を大切にしろなどと言われても、加減も方法もわからない。


 善処しますね。それだけの言葉をやっとの事で絞り出し、市伊は困ったように笑った。大切にしなければいけないものを増やすと、いざというときの判断に迷ってしまう。だからこそ人付き合いは最低限に絞り、嫁を娶ることもなく、妹ともにひっそりと生きてきたのに。


 柚良と出会って、世界が一気に広がって、大切にしたいものが増えた。彼女と出会ってまだあまりたっていないけれど、妹とどちらかを選べといわれると、瞬時に判断を下せない程の存在になってきているのは確かだった。


「……私たちの世界に足を踏み入れたことを、後悔している?」

「後悔は、していません。柚良さまに関わると決めたのは、俺自身ですから」

「ごめんなさいね。あなたばかりに、沢山のことを背負わせてしまって」

「それも、俺が決めたことです。大切なものを護るために」


 申し訳なさそうに目を伏せる紫金に向かってそうきっぱりと言い切り、そろそろおいとましますね、と市伊は頭を下げた。相手がどこで目を光らせているのかがわからない以上、あまりここに長居するのは良くない。紫金もそれをわかっているのだろう。何か動きがあったら知らせる、とだけ言い残し、姿を消した。


 紫金を見送ってからしばらく、市伊はその場にじっとたたずんでいた。懐の勾玉に手を当て、そのぬくもりを確認する。妹を、村を、そして柚良を護るための大切な一手だ。色んなものを護り切るために、もっと強くなりたい。そう思った。


「少しばかり、相談してみるか……」


 思い浮かべたのは、朱面に高下駄を打ち鳴らす彼らだ。神獣捉えの罠を打ち破るすべを教えてくれた山伏天狗達ならば、力になってくれるかもしれない。そう考えた市伊は、彼らを探すべく山の中へと入っていったのだった。

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