第三章 紫紺の闇に浮かぶ星は揺れて 2

「……ってて、相変わらず天狗のは暴力的な風だなー……」


 身体のあちこちに走る痛みに、初めて彼らと対面したときのことを思い出しながら、市伊は辺りをきょろきょろ見回した。天狗たちが場所を間違えていなければ、ここら辺に罠があるはずだった。


 そのとき、か細い声が耳に飛び込んだ。


「だれか助けて……! 痛いよう、怖いよう……!!」


 声のするほうを目指して走っていくと、草むらの中で白いものが動くのが見えた。日の光を浴びてちらちらと輝くのは、間違いなく獣の被毛だ。近づいてみると、鉄の罠にがっちりと足を取られた子狐がそこにいた。少しばかり青みがかった白銀の毛皮は、罠に食いつかれている部分が血で染まっている。おそらく、逃げようと必死で暴れたのだろう。


「お前か、紫金のせがれってやつは?」

「そうだけど……あなた、人間なのになんで僕の言葉が分かるの……?」


 まずは怖がらせないように、ゆっくりと声をかけてみる。人が近寄ってきたのを見て怯え泣き叫ぶのをやめていた子狐は、市伊の言葉にひどく警戒した様子で面を上げた。


「ちょっとばかり、特別な力を持っているらしくてな。最近、柚良さまが見つけた人間の話、お前の母さんあたりから聞いたことないか?」

「神域に足を踏み入れた、怖いもの知らずの人間……?」

「そんな風に伝わってるのか……俺は市伊という。この森のものがお前を助けられない代わりに、お前を助けに来た」


 白い被毛の間から覗く蒼銀そうぎんの双眸を見据えて、市伊はしっかりと言葉を紡ぐ。自分はお前の味方で、決して害を加えるものではないのだ、と。


「助けてくれるの……? あなたは人間なのに……?』

「確かに俺は罠を仕掛けた者と同じ人間だが、柚良様や、この森の神獣たち――特に大や佐井には何度か世話になっている。 それに、人間だからこそ助けてやれるんだ。だから俺を……信じてくれないか?」


 痛みと恐怖も相まって警戒を解こうとしない子狐にも分かるよう、ひとつひとつゆっくりと話していく。出来るだけ声音は穏やかに、相手を威嚇しないよう柔らかくして、姿勢を低く同じ目線に揃えてやる。そうしてやっと、子狐は警戒を解いたようだった。


「柚良さまや大、佐井たちが信用してこの森に招いた人なら、信じられる。あなたは僕らと言葉を交わす力を持っているから……きっと大丈夫。僕、あなたを信じるよ」

「ありがとう。じゃあ、罠をはずしてやるからな。少し痛むかもしれんが、大人しくしていてくれ」


 すっかり大人しくなった子狐をいい子だと褒めてやりながら、市伊はそっと右前足の罠に手をかける。この程度の罠なら、あまり時間も掛からずにはずすことが出来るだろう。そう思って罠に手を伸ばしたのだが、触れた途端ばちっという音と共に火花が散った。


「……っ?!」


 指先に走った鋭い痛みに、思わず手を引っ込める。驚いた顔をして覗き込む子狐と一緒に手を見ると、罠に触れた指先には三叉の小さな裂傷が出来ていた。


「なんだ、これ。普通の罠じゃないのか……?」


 指先に出来た傷と罠を見比べて、市伊は呆然と呟いた。罠の歯の部分に触ってしまったならともかく、ちょっと触っただけでこんな風になるのはおかしい。何か、特別な力が働いているのだろうか。 そう思った市伊は他の罠も確かめて見るべく、恐る恐る手を伸ばして確認していく。左前足、右後ろ足、左後ろ足――全て確認したころには、両手に合計四つの裂傷ができていた。


「それ以上触るのをやめろ、小童。普通の罠じゃない。特別な術式が掛かっている」

「お前たち……この罠のことを知っているのか?」


 突然振ってきた声に顔を上げると、いつの間にか追いついてきたらしい天狗たちが見下ろしていた。彼らなら、このわけのわからない罠について知っているかもしれない。小さな希望を胸にともして、彼らに問いかける。すると、思ってもみない答えが返ってきた。


「お前にすら傷を負わせる、強い術式だ」

「子狐とて神獣の端くれ。だが力が完全に封じられている。これは神獣捕らえの罠にちがいない」

「市伊よ。印を結べ、言霊ことだまを紡げ。そうすれば術は解けるぞ」

「神獣捕らえの罠……? 印を結んで言霊を紡げって言われてもな……」


 一人、また一人と地面に降り立ち、天狗たちは口を揃えて突拍子もないことを言う。想像の範疇はんちゅうを超えたことを言う彼らに、あきれて反論すら出来なかった。ただの人間である市伊に、どうしろというのだろうか。たかが柚良や天狗たちを見ることが出来る程度の能力で「特別で力の強い術式」とやらを打破できるはずがない。けれどそう主張しても、天狗たちのいうことは変わらなかった。


「我らをならって指を組め。お前の力があればできる』」

「はようせい。時間がなくなるぞ。もうじきお前の仲間がここにさしかかる」


 早く、早くと急きたてる声に、仕方なく市伊は腹をくくって彼らの言うとおりにすることにした。すっと目の前に進み出た一人の天狗が両手の指を組んで見せ、この通りにやれとばかりに組んだ両手を突き出す。複雑な組み方に四苦八苦しながら何とかその通りに組み終えて天狗たちに見せると、それでいいとばかりに大きく頷かれた。


「指、組んだぞ。次はどうすればいい」

「ならば、この通りに言葉を言え。いいか、一度しか言わんぞ」


 問いかけにすっと身を寄せた天狗は、耳元でぼそぼそと言葉を零す。どうにかそれを聞き取り、了解の意を込めて頷いてみせると、天狗は大きく三歩下がって木の上へと飛び上がった。もう、どうにでもなれ。誰もが息を詰めて見守る中、市伊は天狗に聞いた言葉を間違えないよう、大きく息を吸い込んでから口を開く。


とうだんしゃかい。我、禁呪きんじゅの鎖を断ち切り、戒めを解き放たん――』


 言霊を紡ぎ、指で模した手刀を子狐に向かって振り下ろすと、突如ぶわりと身体の内を言葉に表せない力が駆け巡った。力はやがて指を通って外へ放たれ、罠にかけられていたらしい術式とまともにぶつかる。先ほどよりも眩しい閃光が走り、力が渦を巻く。あまりの眩しさに目を開けていられず、市伊はぎゅっと目を閉じた。


 やがて金属を思いっきり金槌で打ったように澄み切った音が響き、全てが唐突に収まった。不思議な感覚がなくなったのを感じて、市伊はおそるおそる目を開ける。目の前にはばらばらに崩れた罠と、罠から開放されたらしい子狐が呆然と立っていた。


「僕……罠から抜け出せたの……?」

「ああ、そのようだな……俺も、驚きだが」


 身体に力が入らず、へなへなと地面にしゃがみこんだ市伊を見つめて、子狐は目をぱちくりさせる。それから我に返ったように、駆け寄ってきて頭を下げた。


「本当に、助かりました……!! 市伊さん、ありがとう!!」

「どういたしまして。もう、罠にはかかるなよ」

「はい、気をつけます!!」


 喜びの色を目に浮かべて何度も市伊に向かって頷いた子狐は、自由になれた嬉しさからか、一際高く声を上げて鳴きながら走り出した。澄み切った声が森中に響き、木々の間を白い体躯が駆け抜けていく。


「なんか……森の中を白銀の星が流れていくみたいだ」


 森を駆け巡る子狐の姿を見た市伊が思わず呟くと、上からいくつか笑い声が降ってきた。いったい何がおかしいんだといわんばかりに見上げると、さきほどの言葉へ答えるように天狗たちのさざめきが飛び交った。


「どうやらお前は本質を見抜く力も持っているらしいな!」

「紫金のせがれの名前、何だと思う?」

銀星ぎんせい、って名前がついとるんだ」

「さすが柚良さまが見込んだだけのことはある」

「さっきの解呪といい、見直したぞ、小僧!」


 わらわらと集まってきた山伏天狗たちが口々に市伊をほめそやす。なんだか過大評価されている気もするが、ここはおとなしく受け取っておこう。いい加減頭を働かせるのにも疲れた市伊は、そう納得することにした。


(――銀星、か。いい名前だな)


 流れるように翔けていく子狐の姿を思い出しながら、心の中でそう呟く。助けられてよかった。そう思えるほど、銀星が森を駆け巡る姿は美しかった。そうしてしばらく感慨に浸っていた市伊は遠くから聞こえてきた村の仲間たちの声に気付き、あわてて天狗たちと共に姿を隠したのだった。

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