第二章 青空に映る森は美しく 3

「ただいまー。帰ったぞ、瑞季」

「お帰りなさい、兄さん! 今日は何を採ってきたの?」

「桔梗に甘草かんぞう、それにお咲さんから茴香ういきょう大黄だいおうをもらって来たぞ」

「本当? ちょうど茴香は切れそうなところだったの。お咲さんにもまたお礼を言っておくわ」


 帰るなりいつものようにぱたぱたと駆け寄って来た妹に、市伊は今日手に入れた薬草を渡してやった。お咲さんは村長の息子である榎木さんの妻で、薬草を育てるのに長けた人である。両親のいない自分たちのことを何かと気にかけてくれていて、採れた薬草をよく分けてくれるのだ。今日も通りがかった市伊を呼び止め、何種類かの薬草を手渡してから瑞希ちゃんによろしくねと言伝られた。


 どうやらちょうど俺が帰ってきたあたりで夕食が出来上がったらしく、薬草を手早く棚にしまった瑞季は程なくして食事を運んできた。一緒に運ばれてきた酒を一杯あおって、ようやく一息つく。けれど次の瞬間、何気なく問いかけられた瑞季の言葉に市伊は思わずむせ返りそうになった。


「ねぇ兄さん。最近山に入ったら必ずぼろぼろになって帰ってくるけど、いったい何してるの?」


 山に出かけた日の帰りは日没ぎりぎりで、その上疲労困憊して家へ帰ってくることが多い市伊に、瑞季がそう訊ねるのも無理はない。 そろそろ柚良と出逢って一ヶ月がたつが、三日か四日に一度、柚良の元を訪れるたびに山のあちらこちらを引っ張りまわされていた。柚良曰く、山中の妖怪や動物たちが俺に危害を加えないように、ということで市伊と彼らを引き合わせているらしい。だが、彼らがそういう意識を持って俺と接しているかははなはだ疑問だ。


 河童に引き合わされたときは、とっておきの場所に連れて行ってやるといわれて水に引きずり込まれたあげく溺れて死にかけたし、人間嫌いで有名な烏天狗に会ったときは眷属である烏を大量にけしかけられて恐ろしい目にあった。中には様々な妖術を使って楽しませてくれたむじなや、こちらの言っていることを繰り返しながらついてくるだけの無害な木霊こだまもいたが、 大多数の者たちはあまり人間を良く思ってはいないようだった。


 おかげで、市伊はいつもぼろぼろの体で山から帰ってくるはめになっていた。一度か二度くらいならそれもまだ何とかごまかせていたのだが、四度も五度もとなってくると、さすがに疑いの目を向けられるようになってくる。そろそろ何か言い訳しないといけないな、と思っていた矢先の問いかけだった。


「あー……実はだな、この前濃霧にまかれたとき、黄花黄耆きばなおうぎの群生地を見つけたんだ。お前、この前から手に入れるの苦労してただろ? だからもう一度見つけたいんだが、なかなか見つからなくてな……」


 黄花黄耆――標高の高いの草地や砂礫されき地に生え、止汗や強壮剤に使われる薬草である。大城山にはあまり生えておらず、この地域では他の薬草に比べて比較的高値で取引されている。だが使用頻度が高い部類の薬草なので、自分たちで手に入れられるに越したことはなかった。


「それは本当なの?」

「ああ。見つけたとき、確認のために少しだけ採ってきていたから間違いない。残念ながら根まで掘る余裕はなかったけどな」

「そうなの……でも、それを聞けただけでも嬉しいわ。あれを買わずにすむとなると、お薬の値段がぐっと下げられるから」


 市伊の言葉に瑞季の顔は明るくなったが、薬に使う部分の根までは採ってきていないと聞くと、あっという間に元の表情へと戻る。それでも取ってきていた葉を見せてやると、嬉しそうな笑顔を取り戻していた。いつもの自分なら、その笑顔を見るだけで幸せな気分になれる。けれど、今日はそんな気分になれそうもなく、ただ胸の奥がつきりと痛んだ。


(――柚良に会いに山へ入っていることは、誰にも知られてはいけない)


 柚良から直接そういわれたわけではなかった。だが、たとえ親しい者にも決して話すまい、と市伊は心に決めていた。万が一何かの形で市伊が山神と会える、なんて事が村人たちに知れたら、奇異な目で見られて村八分にされるか、 崇め奉られるかの二択になるにちがいない。それだけは、絶対に避けたかった。


 そのため瑞季にも嘘をついたのだが、黄花黄耆の葉を見て素直に嬉しそうな顔をしたのを見て、なんともいえない罪悪感にかられた。もちろん全て嘘なわけではない。初めて柚良に会ったときに黄花黄耆の群生地を見つけたことや、そのときにまた来ようと葉を採取してきたことは本当である。だが場所も知っているうえで薬に使える根をまだ採ってきていないのは、それを言い訳につかうためだった。


「最近疲れて帰ってきているのは、山の中をいろいろ探索していたからなのね?」

「そういうことだ。普段行くことの無い場所にも足を伸ばしているんだが、岩肌が多くて服が破れることがあってな。お前に余計な手間をかけさせてすまない」

「服の繕いのことなら心配しないで。兄さんはたくさん薬草を採ってきてくれるんだもの。それくらい、いくらでもするわ」

「そうしてくれるのは本当に助かるよ。ありがとう、瑞季」

「どういたしまして、市伊兄さん」


 座っているところから手を伸ばして頭をなでてやると、ふわりと瑞季が微笑む。たったひとりの肉親である妹と過ごす、和やかな時間。これが、市伊にとって何にも替えがたい至福の時間だった。


 先ほどまで浮かんでいた心配と疑いの色はすっかり消えたらしく、瑞季は上機嫌で食事を再開する。そんな彼女の横顔を眺めながら、もう一度市伊はすまないと心の中で詫びた。


(どうしても柚良さまは放っておけないんだ。お前に嘘をつくのは心苦しいが、どうか許してくれ……)


 そのうち折を見て、お詫びの意味も込めて黄花黄耆をたくさん採ってきてやろう。そうひそかに胸のうちで呟いて、市伊はかいがいしく酌をしてくれる瑞季の頭をもう一度なでてやったのだった。

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