第二章 青空に映る森は美しく
第二章 青空に映る森は美しく 1
あれから数日たった日のこと。市伊は約束を果たすために再び大城山を訪れた。
この前よりもまた数段色を濃くした森は、まばゆく輝く日の光を緑に染めている。昨日に降った雨の所為で、落ち葉が腐ってできた土は柔らかく湿っていた。清々しく澄みわたった空気はどこまでも晴れやかで、市伊は彼女との再会に少しばかり胸を躍らせつつ山道を進む。
……いや、進んだ、のだが。
「いったいここはどこなんだ……」
記憶を頼りにして上ってきた山道の先に、目指しているはずの峠はいつまでたっても現れなかった。一時間ほど歩き続けた末、突如として山のど真ん中でぷっつり途切れたその道に、市伊は脱力し困り果ててしまう。まさかこんなことになるとは想定していなかった。
物心ついたときから、まるで自分の庭のように走り回っていた山である。いくら大きく複雑な山道がいくつあっても、迷わない自信はあった。それに、結界に包まれたあの神域へ続く道が、柚良の力で隠されていることまでは考えに入れていたのだ。また来ると約束していたのだから、道が見えるようにしてくれているだろう。そう思っていた市伊の読みは、見事に外れたらしい。
「誰かに連れて行ってくれると頼めるわけでもないし……困った」
途方にくれてそうつぶやきながら、近くにあった倒木に腰を下ろす。山に生えている薬草を取ってくる、と瑞季に告げて出てきた手前、今から引き返して家に戻るわけにも行かない。
ちなみになぜ薬草なぞ、という理由は市伊と瑞季が二人で薬屋を営んでいるところにある。両親から受け継いだ家業で、調合は妹担当、市伊は狩りのついでに薬草を集めてくるのが役割だった。
さてどうしたもんだか、と考えながら、市伊はとりあえず腰を落ち着けて考えた。ここで大声を張り上げて名を呼べば、柚良は出てくるかもしれない。だが幼い姿をしていても、神様は神様である。こちらから呼びつけるのはあまりにも畏れ多い。大というあの大鹿に連れて行ってもらうことも考えたが、どうやってあの鹿を呼べばいいのかわからない。いろいろ考えてみても八方塞がりで、いい方法は思いつきそうになかった。
「……――の、市伊どの」
考えることに疲れ、空を見上げてぼうっとしていたところ、ふと耳に飛び込んできたのは足元で市伊を呼ぶ声だった。そんな低いところから一体なんだと視線を向けると、綺麗な茶色の毛並みをした大きな
「市伊は俺だが……?」
「私は柚良さまの使いのイタチにございます」
そう言って器用にお辞儀する鼬は、自分の名を
「柚良さまの……? それは失礼しました。道案内をしてもらえるのですか?」
「ええ、私がご案内させていただきます。それから、敬語を使ってくださらなくて結構ですよ。あなた様は柚良さまの大切な客人ゆえ、 丁重にもてなすようにと大よりうかがっていますから」
少しばかりいたずらっぽい口調でそう告げた佐井の言葉に、苦々しい表情をして柚良の元から去っていった大鹿を思い出す。その口ぶりを聞くに、この鼬もどういう経緯で市伊がこの山へ入ることを許可されたのかを知っているらしい。
「さあ、そろそろ行きましょうか。きっと柚良さまがお待ちかねでしょうから」
「案内感謝する」
森の中を軽快に駆けだした佐井に礼を言い、腰を上げる。思ったよりも速いその足取りにおいていかれないよう気を付けながら、市伊は柚良の待つ神域へと向かったのだった。
「市伊!! 本当にきてくれたんじゃなっ!」
見覚えのある峠に到着して、まず耳に飛び込んできたのは、喜びに満ち溢れた声だ。声のした方を振り向けば、獲物めがけて放たれた矢のように駆けてくる少女がいた。よくこんな動きにくそうな衣装で全力疾走して転ばないな、と変なところに感心しながら手を伸ばす。
どうにか受け止めることに成功し、安堵の息を吐く。ふと鼻孔をふわりとくすぐったのは、どこか覚えのある甘ったるい花の香りだ。体にまとった香りすらわかるほどの距離の近さを改めて意識して、鼓動が少し早くなる。神気は極力抑えているらしく、肌が触れ合うほどの近さでも、全く恐怖はない。だが、妹を扱うように馴れ馴れしくしていいのか。それとも一般の娘のように扱えばいいのか。考えあぐねて、抱き返すでも突き放すでもない態度をとってしまったことがお気に召さなかったらしい。市伊を見上げる笑顔はだんだんとふくれっ面に変わり、とうとう子供が拗ねたような表情になってしまった。
「市伊はわらわに会えたのが嬉しくないのか……?」
「いいえ。俺もまた会えて嬉しいですよ、柚良さま。案内を遣わしてくださって、ありがとうございました」
どこか泣き出しそうな表情をされて、市伊はあわてて首を振る。会いに来たのはこの少女に根負けしたからである。だがそうは言っても、会いたくなかったわけではなかった。
「そういえばよい香りがしますね。何の花ですか?」
とりあえず、話題を変えるために無難な話を振ってみる。市伊が自分に興味を持ったことが嬉しかったのだろう。柚良はすこしばかり期限を直し、問いかけに首をひねった。
「はな……? ああ、きっとセンプクじゃ。今朝たくさん花が咲いたと聞いて見に行っていたゆえ、匂いが移ったのであろう」
「センプク……ああ、
そうだ、山梔子の香りだった。遠くからでも咲いているのがわかるほどに、強く甘い匂いを持つ花だ。柚良の言葉にそのことを思い出し、ようやく疑問が解けた。
身にまとった香りを褒められたことがよほど嬉しかったらしい。みるみるうちに少女の表情は緩み、目元がほころぶ。まるで桜の花が次々と咲き零れるような、可憐な笑み。それはもう、今まで見たもののなによりも破壊力があった。
(……可愛い……)
目の前にいるのは、何百歳の神様である。だがそんなことはきれいさっぱり頭から吹っ飛んでしまうほどの美しさと可愛さがあった。思わず反射的に、腕の中にいる少女をぎゅっと抱きしめてしまうくらいには。
(さすがにそれを口に出して言えるほど、俺も恐れ知らずじゃないけどな……)
そんな事を思いながら、市伊は一緒にここまで来たもう一匹の存在を思い出す。よき道案内役であった佐井は驚きつつも、苦笑を隠しきれない様子でたたずんでいた。どうやら、去る機会をすっかり逃したらしい。一言彼に詫びを入れ、柚良を腕の中から解放すると、律儀な大鼬は挨拶もそこそこに去っていった。
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