無神論
「あなたが神か」
それが文芸部の置物こと鶴見鶴子と数日ぶりに交わした言葉だった。
いつも通りの放課後、推理小説を読み飽きた俺が文芸部室で歴史小説を読んでいた時、不意に明日までに提出しなければならない課題の存在を思い出した俺がその場にいた鶴見鶴子に答えを写させてほしいと頼んだところ、快く(いつも通りの無表情だったが)鞄からノートを持ち出して寄越してくれた彼女に対して上記の台詞を述べた次第である。
余談だが成宮鳴海については既に課題を終わらせて教師に提出していた。変人のくせに真面目なのが癪だ。こういうときに使えない。
さっそく女神こと鶴見鶴子から拝領したノートに目を通していた時、その成宮鳴海が口を開いた。
「神といえば巽くん。巽くんは神を信じる?」
「信じない。存在が確定していないから。以上で議論は終わりだ。めでたしめでたし」
「やだなー、そんなに邪険にしないでよ。というか神の存在を信じていないのにさっき鶴見さんのことを『あなたが神か』なんて言ったの?」
「分かった、訂正するよ。神の実在はつい今しがた証明された。鶴見鶴子さんこそが現人神でありすべての生命の母だ。以上、めでたしめでたし」
「……」
それとなく鶴見鶴子に矛先を向けてみたが当の本人は安定の無視無関心を貫いている。耳一つ動かさずに俺が先週まで読んでいた推理小説に目を落としている。腹いせにその本に出てくる犯人が誰か暴露してやろうかと思ったがさすがに大人げない。
俺の言葉にレスポンスを返してくれるのは成宮鳴海だけだ。依然変わりなく。
「もう、鶴見さんは神様じゃなくて人間でしょ。……多分」
「珍しいね、成宮さんが曖昧な表現をするのって」
「私は基本的に神様を信じてるし、現人神っていう人の姿を借りた神様だって信じてるからね。鶴見さんに限らず巽くんが神かもしれないっていうならその可能性は否定しないよ」
「鶴見さんに誓ってもいいけど俺は神じゃないよ」
「うん、私も鶴見さんと巽くんに誓っていいけど神様じゃないよ」
「結論、やっぱり神様はいてもいなくてもどっちでもいい。めでたしめでたし」
「巽くんさ、この町にある学問の神様の石像のことは知ってる?」
強引に話を締めようとした俺の言葉を完全に無視して成宮鳴海が問いかけた。俺は嘆息しながら鶴見鶴子から受け取ったノートの表紙を閉じる。まぁ今日は鶴見鶴子のおかげで一つ災難を免れたわけだし、成宮鳴海の無為な会話に興じる程度の不幸に身を委ねればそれで運気の帳尻が合うだろう。
「いや知らないけど」
「この町にもう廃墟になった石材店があってね。歩道に面した建物の前には今でも当時店に置かれていたお地蔵様の石像が残ってるんだ。そのお地蔵様が学問の神様で、お地蔵様に学校のテストで使ったペンとか鉛筆をお供えすれば良い結果が出るっていう噂があるの」
「ふーん」
なんというか、ありきたりな都市伝説だな。
「ちなみに私も中学生の頃からよくそのお地蔵様にテストで使ったシャーペンとかお供えしてるよ。この高校の入試が終わった後に試験で使った鉛筆をお線香みたいに輪ゴムでまとめてそのお地蔵様の前で燃やして供養したりもしたし」
「成宮さん、よくそれで合格できたね。なんか罰当たりそうだけど。というかよく火事にならなかったね」
「でもそのおかげで昔から私テストで悪い点数取ったことないしね。だから私、神様ってやっぱり存在すると思うんだ」
「いやそれは単純にシンプルにストレートに成宮さんが頭が良いからだと思うけど」
「でも私の他にもおんなじような人いっぱいいるし。ウチの高校にも同じような人いるって聞いたよ。どっかのOBの先輩はあのお地蔵様にお供えしたら東大合格したらしいし」
「ふーん。まぁ、信じる者は救われるっていうしね」
「そう、まさにそれだよ巽くん」
成宮鳴海はビシッと俺の顔面を指さした。欧米じゃ大変失礼な行為だぞそれは。
「神を信じる人は救われる“かもしれない”。お地蔵様にテストで使ったシャーペンをお供えすればテストで良い点が取れる“かもしれない”。多分だけど神様っていうのはすべからく万人を救ってくれるような存在じゃないと思う。神様が存在するという前提で、神を信じる人すべてに福音を授けてくれるのならこの世はきっと不幸という概念が存在しない世界になってるだろうしね。結局のところ、生きていく上で拠り所となるものを求めて人は神様を信じるんだと思うよ。もしかしたら祈れば救ってくれる“かもしれない”ってね」
「その言い草だとまるで成宮さんは神様の存在を信じていない風に聞こえるけど」
「今言ったのはあくまで一般的な人たちはそうなんじゃないかなってだけの話。私は普通に神様の存在を信じてるよ。ついでに宇宙人とか幽霊とかネッシーとかそういう類のものも基本すべて信じてるよ」
「まぁ信じるのは個人の自由だけどね。俺が神を信じないのも俺の自由だ」
「だから神を信じない巽くんは実にストイックだと私は思うよ。要はどうしようもなく絶望的な場面でも巽くんは神に祈ったりしないってことでしょ?」
「そう言われて過去の自分の行動を思い起こすと神に祈ったことがあったようななかったような」
具体的な場面までは思い出せはしないが生まれてから何度かは天とか神とか運命の女神に祈ったことはある気がする。だって、普通そういうものじゃないか?
成宮鳴海は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「へぇ、巽くんは人前では普段神を信じないとか言っておいて、いざ追い詰められたら手のひらを返して神様に哀願するんだ。随分とムシのいい話だね。まるで都合のいい時だけ金をせびって女の身体を弄ぶ鬼畜の所業のようだね」
「人聞きの悪いこと言わないでくれない?」
「でも実際、神様って便利な存在だと思うよ。それこそ昔の人たちは地震とか竜巻とか雷とか自分達には理屈を理解できない天災を神様の怒りとか言って納得させていたんだから。そういう意味では神っていうのは不完全な人間の不都合を埋める代数みたいな存在なのかもしれない」
だとしたら、俺がこの文芸部で成宮鳴海と出会ってしまったという不都合も神のせいにしていいかもな。
そんな不謹慎なことが頭を過ったが口には出さない。口は災いの元。具体的には成宮鳴海との議論の白熱および関係性の悪化という災いだ。
「そう考えると、神様っていうのはある意味人間が創ったものとも言えるのかな」
「そう!私が言いたいのはそこなんだよ巽くん!」
適当に話を合わせると成宮鳴海が顔を突き出さんという勢いで食いついてきた。また何か地雷を踏んでしまったらしい。成宮鳴海の地雷撤去作業をできる人がいるならお金を払ってでも仕事を依頼したい。
「神と人間、どちらの存在が先にあったかって話。神様っていう存在がまずあって、私達の住む世界だとか動物や人間がこの世に生まれてきたのか、それとも世界や動物や人間が生まれてから、人間が神という存在を定義したのか。もし後者なら、ある種人間は神様よりも高位の存在っていうことになるんじゃないかなって私は思う」
「どうして?」
「神様っていうなんでもありのチートみたいな存在を創れるんだから人間はそれよりなんでもありの存在ってことにならない?兄より優れた弟など存在しないってどこかのジャギも言ってたし」
「その人弟にボロボロに負けた気がするけど。まぁ確かに技術力とか知能はともかく、人間の想像力は無限大に等しいだろうからね。“創造”じゃなくて“想像”だけど」
「巽くん、君って天才なの?」
「え?」
「【“想像”=“創造”】って考え方は私にはなかった。そうか、つまり人間の“想像”力は神という全能の存在を“創造”できるほどに全能であるってことか。巽くん、やっぱり私は神は実在すると思うよ。そしてそれはきっと人間が想像力で想像したものだ、きっと」
「あぁ、うん。そっか」
全く話についていけていないが成宮鳴海の中では何か納得できる結果に落ち着いたらしい。というか、どうしてこんな話になった。俺が鶴見鶴子のことを「あなたが神か」なんて言っちまったからか。これからは不用意に誰かのことを神とか言って褒め称えて拝み倒すのはやめよう。
そういえば。
「ねぇ、成宮さんがさっき言ってた学問の神様の石像ってさ」
「うん?」
「鶴見さんも使ってたりするの?」
唐突に話を振られた鶴見鶴子は、視線を落としていた江戸川乱歩の小説から徐に顔を上げた。
そして、短く一言。
「ううん」
「そっか。鶴見さんって勉強できるんだっけ?」
「……」
それ以上、鶴見鶴子から言葉は返ってこなかった。だが、彼女の学力のほどはその日の夜に彼女に借りた課題のノートを写すときに知ることになる。
後日談。
鶴見鶴子の手を借りて厄介な課題をクリアした翌日に抜き打ちの小テストが行われた。基準点を下回った生徒は漏れなく放課後補習。実に不条理だ。先人たちが天災を神様のせいにしたという成宮鳴海の話が嫌というほど理解できる。神様じゃなくて妖怪のせいにしてもいいが。
その日の放課後、小テストの合格祈願を兼ねて俺は件の石材店廃墟に参拝に訪れた。具体的な所在地を聞いたわけではないが、なんとなくあそこではないかという目星がついていた。なんとなくではあるがどこか確信がある。その確信の正体はすぐに発覚した。
「……そういうことだったのか」
石材店廃墟は、俺が昔通っていた小学校の通学路にあった。成宮鳴海に聞いた通り、歩道に面した廃墟前には一体の石像が手を合わせて直立しており、その足元には参拝者の学生のものと思しき筆記用具の類が文字通り山のように積まれている。
最初に成宮鳴海にこの石像の話を聞いた時、どことなく既視感を覚えてはいた。知り合いからそんな話をどこかで話半分に聞いていたのかもしれないとあの時は思っていたが、それは勘違いだったらしい。
というか、思い出したくなかったんだろうな。
「懐かしいな、今まで忘れてたわ」
山のように積まれた筆記用具をかき分けると、目当ての品はすぐに見つかった。
持ち手の部分がひしゃげた、少し年季の入った万年筆。元々高級感あふれる塗装が施されていたはずのそれは、長年の風雨にさらされて見る影もない。
これは、小学生の頃に俺の親が誕生日に贈ってくれたものだった。その当時俺が好きだった映画で万年筆を欲しがる男の子がいたとかで、なんとなく、万年筆というものに憧れがあったのを覚えている。
万年筆を買ってもらったことが嬉しくて、俺は小学校にもそれを持って行った。けれど、ものの数日でそれは終わりを迎えてしまう。教室の掃除中に机に置きっぱなしにしていた万年筆が床に落ちてしまって、それに気づかなかった掃除当番がうっかり万年筆を机の脚で踏みつけてしまった。当然万年筆はぺしゃんこになってしまって、俺は泣きながら家に帰った。せっかく貰ったプレゼントを壊してしまったことが申し訳なくて、怒られるのが怖くて。
その時にたまたまこのお地蔵さんの前を通りかかって、俺は神様に縋りたくなったんだと思う。何を思ったのかひしゃげた万年筆を地蔵の前にお供えして、どうか許してくださいなんて祈りを捧げたんだ。神様でもない、ただの石像に。
俺が万年筆をお供えしたときにはこんなにペンが散乱してるようなことはなかったはずだから、導き出される答えは一つ。
俺が、この石像を学問の神様にしてしまった。
多分、俺が供えた万年筆を見た他の誰かが、テストの願掛けだとか何とか言って神頼みをし始めたんだろう。
どうやら、成宮鳴海をはじめとする多くの学生が信仰する学問の神様は俺が創ってしまったらしい。神は人が創ったものだという成宮鳴海が提唱する説を、皮肉にも俺自身が証明してしまったことになる。
いや、違うな。確かにこの何の変哲もない石像は成宮鳴海たちにとって神かもしれないけれど。でも、俺にとってこの石像は神様じゃない。
「だって俺、あの後めちゃくちゃ親に怒られたし」
持ってきたシャープペンシルは結局石像には供えないまま、俺は帰路についた。そして翌日、めでたく俺は補習を言い渡されることになる。
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