第四十六話 暴走

 結月が帰ったあと、姫宮から電話がかかってきた。


 携帯の振動がずっと枕に伝わってくるが、俺は動こうとしなかった。もはや、姫宮の電話に出る気すら起きない。


 携帯が長く鳴り続けていた。そして、オルゴールのように静かになっていく。


 驚いた。罪悪感すら感じなかった。俺の今の好きな人、大好きな人からの電話を無視しても、なにも感じなかった。


 そうか……俺は絶望してしまったんだ。自分の傷がもう癒えることがないと知って絶望してしまったんだ。


 携帯が鳴り止んで、俺はそれを手に取る。そして、芽依へと電話を掛けた。


『いっき……?』


 芽依はすごく不思議そうだった。窓を叩けばすぐに会話ができる距離なのに、俺がわざわざ電話を掛けたのだから。


「芽依……」


『どうしたの? いっき。電話なんてかけて』


「ちょっと今の顔見せられないから」


『なにかあったの?』


 そう聞かれて、俺はうまく答えられなかった。どうして姫宮の電話を無視したのに、芽依にかけたのだろう。自問自答しても分からない。いや、分かっているけど、認めたくないのだ。俺は姫宮を心から信じていないからだ……


 今思えば、俺の直感が正しかったのかもしれない。「日給10円で俺の彼女にならないか」みたいなセリフで俺の彼女になったこと自体がおかしい。きっと何か企んでいる。俺をおもちゃにして、退屈な高校生活をしのぐつもりなのだろう。


 そんな姫宮を好きになってしまった。どうしようもないバカだった。結月からの傷を少し忘れていたら、また懲りもせず、人を好きになってしまった。


 考えてもみろ。相手は「魔王」だ。結月と比べられないほど傷つけられるかもしれない。いや、そうに決まっている。


 だから、姫宮に結月のことは話せない。話したら、きっと我が意を得たりと本性を現して、俺をどん底に叩き落して、今までかけた時間に合った喜びを手にするだろう。


 被害妄想? いや、今の俺は慎重に生きなければいけない。もうこれ以上傷つくことはできないのだ。これ以上傷ついたら、俺は壊れるどころか、生きることすらできなくなるだろう。


 だから、すべての最悪の事態を想定しなければならない。今考えれば、昔から人間は危機意識を持っていたから、生存競争に勝って、今日まで生き延びたのだ。だから、俺は間違っていない。間違ってるはずがない。


「少し、気分転換がしたい」


『えっ?』


「明日また一緒に俺と学校をさぼらないか?」


『なんで?』


「芽依と久しぶりに水族館に行きたいから」


『やったー! 学校さぼる!』


 ごめん、芽依、君を巻き込んじゃって……でも、今の俺の心の拠り所は君しかいないんだ。


「そんなにうれしいのか?」


『うん! いっきとのデートだもん! そして、いっきを惚れさせるチャンスでもあるし!』


 その言葉が俺の罪悪感を掻き立てる。俺は姫宮が好きなのに、姫宮を信じられていない。結月が好きだったが、結月の言葉で絶望してしまった。今の俺が芽依を好きになったとしても、ほんとに芽依を幸せにできる自信がない。


 いや、これは建前に過ぎない。ほんとは芽依が俺を幸せにできるなんて信じていないんだ。芽依だけじゃない。もう誰も俺を幸せにできないのだろう。


 これは中学校のときの状況とは似て非なるものだ。中学校のときは、俺は裏切られ、振られ、とてつもなくつらかった。もう女の子を好きになれないと思っていた。人を信じられなくなった。


 今もとてつもなくつらい。けれど、過程と理由が根本的に違う。俺は謝られ、真実を知ることができた。それゆえに自分の傷がもう癒えないと絶望した。


「芽依はつらいときに何をしているの?」


 ふと俺は芽依に聞いた。多分、こう聞く人のほとんどは答えなんか期待していないのだろう。ただ自分がつらいということを相手に知ってほしくて、助けてほしいと思ってるだけだろう。


『私はいつもつらいときにいっきとのことを考えてるよ』


「考えてなにするの?」


 なにげなく聞いただけなのに、芽依の声が急に艶めかしくなった。


『えっと、その、お、秘密だよ!』


 発育がいいせいか、芽依は俺の予想から離れたところに行ってしまった。母ちゃん、純粋だった芽依はどこに行ったのか教えて? 連れ戻すから……


『言っとくけど、いっきだけだからな』


 なにが俺だけなのか分からないが、いや、分かりたくないけど、薄々気づいてるが、その言葉はうれしかった。芽依は思春期の女の子だなと改めて認識させられた。


「ああ、ほどほどにな……」


『うっ、そんなにしてないもん! もともとほどほどにしてるもん! いっきが心配するほどじゃないもん!』


 俺は何も言ってないけど、芽依は勝手に自爆した。もし俺が鈍感だったら、芽依は恥ずかしい目にあわずに済んだのかもしれないね。


「そういうことにしとくよ」


『くっ、いっき、私のこと全然信じてないじゃん! やだ! じゃ、私の部屋に監視カメラつけていいから、確かめてよ!』


 そういう趣味はないよ……なにを確かめるの? 回数? ってことは見られてもするつもりなの? 芽依のイメージの中にある天然の隣に変態という単語が足されていきそうで怖い……


「芽依?」


『うん?』


「ありがとうね、色んな意味で元気づけてくれて」


 そうだ。これはきっと天然な芽依が俺を元気づけるための冗談だ。俺の知ってる芽依は、そんなことするはずがない。


『元気になった?』


「ああ、色々とな」


『それどういう意味?』


「芽依が知らなくていいことだよ」


『ううっ……知りたい。まあいいか! 明日は可愛い服着ていくね!』


「ありがとう、楽しみにしてるよ」


 あとはおやすみくらいの挨拶を交わして、俺は携帯を切った。


 自分の中のなにかが変わった気がする。もはや、俺は人の気持ちなんて考えられなくなった。大切にしていた学業もどうでもよくなった。姫宮のこともやめようと思い始めた。


 俺はすべての貯金を財布に入れていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る