第十八話 夜這い

 姫宮はため息をつきながら、結月の部屋に戻った。


 そんなに俺が結月の先に風呂に入らなかったのが面白くないのかな。


 結月が風呂から上がって、俺も風呂に入った。なんだろう。風呂場から三者三様の香りが漂ってくる。軽く目眩がした。


 体を洗って、湯船に浸かると、その香りがますます強くなって、俺の鼻を刺激した。


 いつも結月の後に風呂に入って、風呂場に残る微かな香りと比べて、今日の湯船には女性ホルモンがぎっしり詰まってる感じがする……これを気にする俺って変態なのだろうか……


 モヤモヤした気持ちで部屋に戻ると、俺はベッドの上で大の字になって、ゆっくり深呼吸をした。箱根の温泉とは比べ物にならないけど、普通のお風呂も十分に気持ちいい。


 このまま、俺はぐっすり眠った。





 ガタッ、ウィーンとドアが開いた音がした。


「母ちゃん、もう高校生だから、布団かけ直さなくていいよ……」


「いや、布団をかけるより剥がしに来たというべきかしら?」


「うん……?」


 俺は重たい瞼を無理やり開けると、暗い人影がいた。


 えっ? なに? 泥棒? いや、俺の部屋に金はないぞ?


 それともあれか? 痴女か? 俺っていつの間にか熟女に目を付けられていたのか。


 恐怖で頭がちゃんと回らない。眠気は一瞬で覚めた。


「お前にあげる金も操もないよ!」


 やばい、相手を刺激しなかったほうがよかったのかな。


 恐怖を紛らわすためについ威勢を張ってしまった。母ちゃん、俺は天国に行ってきます……


 諦めたように俺は項垂れた。


「好きにしてください! せめて一思いに楽にしてください!」


「ええ、好きにさせてもらうわ」


 あれ、聞き覚えのある声だ。


 侵入者はゆっくり俺に近づき、そして、両手を俺の顔に添えた。


 すごく暖かくて、気持ちいい……このまま殺されるのかな。


 そして、侵入者は手を下ろして、俺のパジャマのボタンを外し始めた。


 やはり痴女か、俺をおかしてから殺すつもりなんだろう。せめて、初めては好きな人としたかったな……


「いつきくんってこんなに素直だったかしら」


 あれ? 知ってる口調だぞ? 俺は顔を上げて侵入者の顔を確認した。


「姫宮!」


「しーっ、夜中だから、静かにしなさい」


「いや、なんでここにいるんだよ?」


「いつきくんとひとつになりたくて」


「ちょっと待って、お前はこれでいいのか? もっと自分の操を大切にしろよ」


「ええ、大切にしてきたわ。だから私が処女であることを今から確かめて?」


「そういう問題じゃない」


「給料貰ってるから、大丈夫よ」


「給料に見合う仕事じゃないよ」


 思わずつっこんでしまった。てか上手く話をそらされたな。雇っているとはいえ、これはまずい。


 俺の童貞を奪って、明日学校中に言いふらして、俺の狼狽える姿を見て冷ややかな笑みを浮かべるに違いない。


「待って!」


 俺が姫宮を押しのけようとしたら、誤って両手で姫宮の胸を掴んだ。えっ? ノーブラ……


「いつきくんってせっかちなのね、最初はキスくらいが普通じゃないかしら」


「お前に言われたくないよ! ていうかキスも今まで1度したことないでしょう」


「じゃ、今からしよう?」


 ふと、姫宮の唇が俺の唇に重なった感触がした。柔らかくて、暖かくて、そしていい匂いがした。心が蕩けそうだ。


「……」


 頭が真っ白になった。明日学校中の笑いものになってもいいや……


 にしても、俺のファーストキスがこんな形で奪われるとは思わなかった。それ以上に、悔しいという気持ちが一切ないことが驚きだった。


 姫宮はあくまで俺に雇われている彼女だよ? ほんとの彼女じゃないのに……なのになぜ、嫌とは思わなかったんだろう……なぜこんなにも心が満たされていくんだ。


 唇と唇が軽く触れ合う淡いキスに、俺はこれまで体験したことのないドキメキを感じた。


 改めて、姫宮は綺麗だなと思った。胸まで垂れている長い髪は暗闇の中でも微かに光り、いい香りを漂わせている。近くで顔を覗くと、透き通るような肌が少し赤くなった。


「姫宮ってまつげこんなにながいんだ……」


「そうよ、今までちゃんと見てなかったのかしら」


 今までは彼女の顔を注視することはできなかった。彼女にとって俺はただのおもちゃで雇い主でしかないから、もしずっと彼女を見つめていたら、俺は姫宮のことを本気で惚れてしまうかもしれない。そしたら飽きられて振られる時は立ち直れないくらい辛いだろう……


「その手はいつまで私の胸を掴んでいるつもりかしら?」


「あっ、ごめん」


 気づいたら、俺の手はずっと姫宮の胸を掴んだままだった。やばいよね明日の噂はもっと深刻な感じになるんじゃないかな。母ちゃん、前に建てた墓はまだ使えるかい……


 俺が慌てて手を離したら、姫宮は俺の左手を握って、自分の顔に添えた。なんだろう。初めて覚えたこの気持ちに名前を付けてあげることは出来なかった。


 結月と付き合っていたときはこんな気持ちになったことがない……なにもかも初めてだ。





 急にドアが勢いよく開かれた。


「姫宮さん! 抜け駆けは許せないよ!」


「あら、有栖さん、ぐっすり眠っていたんじゃないかしら」


「ちょうど、と、花摘みに行ったら声が聞こえてきたんだもん! ってなに言わせんだよ!」


 芽依は見事に自爆した。やはり女の子はトイレに行ったのを男の子に知られたくないものだよね。


「もう、戻って寝るよ!」


「はーい」


 姫宮が珍しく素直に返事した。


「いっきも、簡単に誘惑に負けるんじゃないよ!」


「はい……すみません」


 なぜ、俺が怒られているの?


 そういって、芽依は結月の部屋に戻った。姫宮も後ろに続いた。


「おやすみ〜 今日の10円は貰っといたわよ」


「えっ?」


 財布を見てみると、入っていたはずの10円玉が無くなっていた。明日渡すために用意しといたのに……いつの間に?


 侮れない女だよ……姫宮は。





 次の日、姫宮の顔は少し赤かった。

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