結城佳蓮の「資産」形成

マーチン

第1話

 ジリリリ・・・!

 目覚まし時計がうるさい。もう朝か。今日もまた一日が始まっちゃったな。もう少し布団でヌクヌクしていたいけど、そろそろ起きないと早く会社に行かないと遅れちゃう。

 私、日向陽菜ひなたはるなは疲れの取り切れない身体にムチを打ち、布団から這い出してカーテンを開け朝日を浴びた。雲一つない秋の青空が広がっている。こんな日は会社をさぼってどこか遠くに行きたくなるけど、そうも行かないのが社畜しゃちくの辛いところ。さて、顔を洗って、軽く朝ごはんを済ませて、お仕事お仕事。

 大学を出て社会人になり3年目にもなるけど、未だに出勤するときの服装に悩んでしまう。山奥の製薬工場に併設された研究所に自家用車で出勤して、直ぐに工場指定の作業着に着替えるから特に誰に見られる訳でもないけれど、私のような女子モドキでも多少は気を使いたいところ。


「はぁ……」


 姿見に映った自分の姿を見ると自然とため息がこぼれる。身長は140センチ台半ばで小学校の卒業アルバムからほとんど変わらない顔、自分で言うのも何だけど腕や足はほっそりとしてお腹も引き締まってるというのに、胸ばかりがやたら自己主張激しい。身体は小柄なのに乳房だけこう不気味に大きいと、下着はセミオーダー品で選択肢はほとんどないし布面積が大きくて可愛さも足りない。服もピッチリした体のラインが出るものだと恥ずかしいし、ゆったりとした服だと太って見えて気に食わない。悩んだ末に目の粗いニットを選び、肩までの黒髪をヘアゴムで二つ結びにまとめ、準備は整った。

 製薬系の研究職の私は実験サンプルへの化学物質混入やクリーンルームの汚染を避けるために化粧はできない。顔はすっぴんで眉を整える程度だ。このときばかりは化粧映えしない子ども顔で良かったなんて思う。再び姿見を覗くと中学生が背伸びして社会人のお姉ちゃんの服を借りたみたいになってるけど、こればっかりは仕方ないね。帰りが遅くなっても警察のご厄介にならないと良いな。


 車に乗って研究所に向かっている間、私は自然と昔のことを思い出していた。政府が"投資教育の促進"というお題目の下、満10歳から株とか先物とかFXとか、一般的な証券会社で取引できるものは何でもできてしまう。まるでフィクションのようだ。実態としては政府の思惑は外れてあまり普及していないみたいだけど。

 あれは小学6年生に上がったくらいの頃だったかな。従姉の結花ゆか姉さんが投資をしている姿がすごくかっこよく見えて、少しでも近づきたくて、私も投資と相場の世界に足を踏み入れたのは。最初の2年くらいはミニ株や投資信託をまったりやりながら勉強してたけど、それじゃいつまで経っても結花姉さんには追い付けないことを悟って、それで、短期的な相場が支配するマネーゲームに手を出して一発追い越してやろうとしたんだよな。

 それで私は大失敗をした。失ったお金は働いて貯金も増えてきた今となっては大した額ではないかもしれないけど、当時の私を打ちのめすには十分だった。それから私は投資からもマネーゲームからも足を洗うことにして、逃げるように結花姉さんが選ばないであろう道を歩んで、そしたらいつの間にかこんな山奥に来ちゃってた。

 あの頃のみんな、どうしてるかな。結花姉さんはちゃっかり結婚をして、子育てしながらファイナンシャルプランナーとして記事を連載をしてるって聞いたな。そしてその編集が中学の友達なのは何の因果かな。二人からそれぞれ話を聞けて面白い。

 昔の苦い思い出に浸っていると、いつの間にか研究所にたどり着いていた。何でだろ。朝から変なこと思い出しちゃったな。さて、気を引き締めなきゃ。


 今日は工場側との会議だ。ようやく研究していた薬に完成の目途が立ってきたため、それを工場で生産するに向けてどうするかの話し合いだ。工場の人と言っても製薬の場合はほとんど自動化されているから、煙草臭い工員然とした人たちではなく清潔感ある人たちなのは救いだ。私は研究所での薬の作り方について一通り説明をしたところ、生産技術のおじさんが両手を顔の前で組み、口を開いた。


日向ひなたさん、それ、今のウチのラインだとできないよ。新しく設備を揃えなきゃだし、その反応速度と生産規模だと工場も広げなきゃならない。その辺りどう考えてるの?」


 私は上司からの命令で薬を作っただけだから、作り方ならいくらでも答えられるけど、大量生産への見通しのような質問に答えるのは難しい。それは私よりも私の上司が答えるべきことだ。そして多分このおじさんはそれを分かった上で聞いているんだろう。顔の前で組まれた手に結婚指輪が光ってる。こんな意地悪な質問をする人でも結婚しているのか。家ではどうしているのかな。やっぱり亭主関白なのかな、それとも尻に敷かれているのかな。

 こんなどうでも良いことを考えながら並行して質問への回答を考えていた私は、一応上司の方を一瞥いちべつしてみた。案の定、気持ち良さそうに寝ている。こいつは寝ているか話を聞かず内職してるかばかりだな。その癖、この仕事の成果は自分のもの、責任は私のものなんでしょ?生産技術のおじさんからの質問は真っ当だから答えにくくても歓迎なのだが、この上司の態度には本当にイライラさせられる。

 私は深呼吸して気持ちを落ち着け、意を決して答えた。


「今の工場でもこの設備とこの設備は遊休ですし、この工程は能力が余ってるこの設備で他製品と共用することを勘案すると、新規設備も工場の増設も不要の見込みです」


 事前の調査だとこれで生産できる見込みのはず。だけど、おじさんは大きなため息をつき、頭を抱えている。何か変なこと言ったかな?


「共用、ねぇ。日向さん、ウチの経営方針は分かってるよね?新たな付加価値を生み出してお客さんに多く支払ってもらうのか、コストリーダーシップを取って同じものをより安く提供するのか、どっちに軸足を置いてるんだっけ?」


 一体何の話だ。でも、これについては就活の時にちゃんと調べたつもりだ。あの頃は昔、株にも手を出して企業研究の真似事をしていたことが活きてたな。


「コストリーダーシップですね。なるべく安く生産することで利益を増大させる戦略です」


 私が得意気に答えると、おじさんは口ひげを触りながら私を睨みつけてきた。


「その通り。で、この工場はどうやって低コストを目指している?」

「この工場の場合は、大量生産による規模の経済よりも、生産設備の共用による範囲の経済に軸足を置いていますね。設備投資を抑えて多数の製品を作ることで低コストを目指しています。ですので今回の薬も設備共用で……」


 私は笑顔を作っておじさんにお願いしたが、おじさんの鋭い眼光は変わらないままだ。上目遣いでウィンクでもすれば良かったかな。子どもみたいな顔の私がやっても逆効果か。


「日向さん、そこまで分かってるなら共用した時の交叉汚染こうさおせんのデータ出してよ。日向さんの持ってきた薬に共用設備を使ったとして、今工場で作っている薬に影響は無いのか、逆に今工場で作っている薬と共用されて日向さんの薬は問題ないのかのデータを。日向さんの資料のどこにも無いけど、どうなってんだ?」


 おじさんは資料をめくりながら怒気が混ざり込んだ声で問いかけて来る。私は背中がゾクゾクとしてくるのを感じていた。何だこの違和感は。


「その話は、こちらの上司からそちらの部署で検証するように話は付けてあると……あれ?」


 クソ上司を問い詰めようと見てみると、気持ちよさそうに寝ていたアイツはいつの間にか会議室から消え去っていた。私がさっき見たのは幻だったのか?

 生産技術のおじさんは顔を真っ赤にしておでこに血管を浮かび上がらせている。この人、高血圧で急に倒れないよな、大丈夫かな、と他人事のように心配していると、ついに怒号が飛び出した。


「オレはそんな話聞いてないぞ!アンタら一体どういう仕事の進め方してるんだ!

 !もういい!!」


 私は大声に怯んでしまい、おじさんはこちらが謝罪する間もなく会議室から出て行ってしまった。あの人、髭も不潔な感じじゃなくてダンディーだし、仕事に真摯なのは好感持てるけど、ちょっと怒りっぽいのがたまきずだな。あーあ、これ次どうすれば良いんだろう。クソ上司に相談したところでどうせ進まないし、話したくもない。だけどスムーズに進めるにはアイツの権限が必要だ。どうしようかな。

 私は色々考えながら散らかった資料の片づけをし、会議室から出ると無邪気な声が聞こえてきた。


「ヒナちゃんせ~んぱい♪」


 ギュッと急に抱き着かれ、私は衝撃で手に持っていた資料を廊下にぶちまけてしまった。


「ヒャッ!」

「あわわ、ごめんなさい!」

「ビックリした……。結城さん、拾うの手伝って」

「はぁい」


 私に体当たりしてきたのは結城佳蓮ゆうきかれんだった。結城さんは今年の新人で私とは別の研究班だけど、結城さんが加入した半年前に丁度応援に行っていた私が同性で年も近かったから教育係になって、それからの付き合いなんだよな。女性としては少し背が高く小さな顔、スラリと長い脚を曲げて私よりも一回り長いほっそりとした指で書類を拾う姿、そして時折掻き揚げられるダークブラウンのウェーブがかったセミロングの髪から覗く整った顔立ち。気を抜くと同性の私でもドキリとしてしまう。ちんちくりんで子どもっぽい私と、ほんと正反対。


「はい、全部拾いました。本当にごめんなさい」

「良いって、少し気が晴れたし。ありがとね」


 結城さんのおかげで私は自然と笑みをこぼしていた。結城さんとは初対面のときから初めて会った気がしなくて、一緒に居ると元気が出るんだよな。


「ヒナちゃん先輩、会議室から出てきたとき元気無さそうでしたけど、もう大丈夫ですか?すっごい怒鳴り声が廊下まで響いてましたし……」

「おかげ様でもう大丈夫。どうでも良いけど、何でしゃがんで私に目線を合わせてるの?子ども扱いされてるみたいでそっちの方がショックだよ。それに"ヒナちゃん先輩"って、いつもながら先輩として敬う気ゼロだよね」


 結城さんはしゃがんで私を見上げている格好だ。こら、嬉しそうな顔して頭を撫でるな。半年前の顔合わせのとき、私を自分のボスの娘と勘違いして子ども扱いして、その上私の名前は陽菜はるななのに"ヒナちゃん"と呼んで周囲から大笑いされたのを私は忘れないぞ。それっきりこの呼び方なんだから困ったものだ。まぁ、親しみがこもってるから嫌じゃないんだけどね。


「だって~、ヒナちゃん先輩は確かに入社は先ですけど、大学卒だから大学院修士卒のわたしと同い年だし、むしろ私の方が半年お姉ちゃんだし、こんなに小っちゃくてかわいいから、つい♪」

「つい♪って……。会社ではちゃんと社会人らしく振舞いなさい」

「会社じゃなければ良いんですか?」

「そういう訳じゃないけど……」


 そうなんだよな。結城さんはこんな性格だし、初めて見たときは顔採用枠かと思ったけど、聞くところによると普通に良い大学院で論文も書いて学会発表もしてた優秀な研究者なんだよな。ファッション誌から飛び出して来たようにしか見えないけど。

 ストレスの溜まる会社生活だけど、持ちこたえられているのはきっと結城さんがこうやって絡んでくれているからなんだろうな。口や態度では冷たく当たっちゃってるけど、正直助かってる。もっと優しくしてあげよう。


 私はお昼休憩に結城さんと社食で昼食をとり、その後は休憩スペースでくつろぎながら投資雑誌を眺めることにした。投資の世界からはとうに引退したつもりだけど、編集の友達から結花姉さんに記事を連載してもらっていると聞いたので、それ目当てだ。結花姉さんは学生の頃から将来設計を考えた投資もしていた。私はその姿に憧れたんだ。記事に書かれたそんな結花姉さんの言葉は、逃げ出した私にはやはり突き刺さるものがある。でも、それ以上に結花姉さんに近付けた気がして幸せな気分に浸れる。そっちの方が勝ってしまうのだから、全く私は筋金入りのファンなんだな。

 さて、今週末は気分転換に少し遠めのアウトレットに行って冬物の準備をしようかな。季節の変わり目だし、ドライブは気分転換になるしね。一石二鳥だ。気に入るものには出会えないかもしれないけど、その分宝探し的な楽しさと見つけた時の快感は格別だ。私はそう思いながら結花姉さんの記事を読み終わった投資雑誌を閉じ、スケジュール帳に書き込んだ。

 よし、そろそろお昼休みも終わりだし、気を取り直して午後からも仕事がんばろう。私たち現場の従業員の血と汗と涙の結晶が企業業績になって株価に反映されるんだから、ちゃんとやらなきゃ株価が下がってファイナンシャルプランナーさんの言ってることが当てにならなくなっちゃうからね。

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