第8話 クナドの思惑

 舞台の白い幕が、左右に開いた。


 スポットライトを浴びながら、舞台の中央に立っている少女に向かって、パイプ椅子が並ぶ客席から、友人と思われる一人が声をかけた。


「さくら!」


 その時、エセナは透き通る羽衣を風に揺らしながら、空の上から急降下していた。


『さくら?』


「さくら、頑張って!」


 友人の声に気づいた舞台上の少女は、はにかんで笑いながら彼女に手を振った。


『あの少女は、さくらっていう名前なのね』


  いつしか狂おしいくらいに激しく、エセナはさくらに惹かれていた。


 筒女神の白装束を着た彼女だけが、光り輝いて見えてしまう。


 冒頭の台詞をよく通る鈴の音のような声で、さくらは静かに語り出した。


「これは神の世から伝わる、物語」


 さくらは優しいほほ笑みを浮かべ、無数の星が浮かぶ夜空を仰いだ。


 彼女の瞳には、この世界に対する愛おしさと憧れの気持ちが込められていた。


『…………なんて綺麗なの』


 知らず知らずのうちにエセナの頬を、涙がいくつもこぼれ落ちる。


 こんなにも誰かに心が引き寄せられたのは、生まれて初めての経験だった。


『触れたい。私、あの魂が欲しい』


 ためらわずにスピードを上げ、右腕をぐっと伸ばす。


 さくらに近づく事以外、エセナの頭にはなかった。



「私の名は、筒女神。そう呼ばれる前はただの名もなき、白い塊でした」



 少し震えた声で、さくらはぎこちなく台詞を語り出した。



『あと少し……!』



 エセナがさくらに触れる、まさにその瞬間。



「?!!」



 いきなり後ろから、エセナは誰かにぐいっと腕を引っぱられた。


「な~にしてるの? エセナちゃん!」


 気づくとエセナは、その何者かに抱きしめられながら、舞台から遠く離れた空の上へ、瞬間移動していた。


「?!!」


 驚いて振り向くと、道の神クナドの美しい顔が、すぐそこにあった。


 白と黒が左右で半分に割れた風変わりな袴を着た、30代前半くらいの男性の姿に変身している。


「クナド?! どうして……」


 右がグレーで左が黒に輝くクナドの瞳が、エセナを覗き込んでいる。


「『どうして?』はこっちのセリフ」


 悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべつつ、真剣な声色でクナドはこう言った。


「あれ見なよ、エセナちゃん」


 手にしていた黒樺くろかばの杖で円を描き、その先に掘られた黒龍こくりゅうの頭を、彼は神社の鳥居がある方角へと向けた。


 二人の人間が、空の上に大きく映し出された。鳥居の下で何やら、彼らは話をしているようである。


「岩時神社の獅子ししカナメと、配下の狛犬こまいぬ、シュンだ」


 背筋がヒヤッとし、エセナは急に我に返った。


「なんで獅子や狛犬が、人間の姿を?」


 クナドが杖で指し示したカナメという名の青年は、腕に白龍の文様をかたどった藍染の羽織と黒い着物を身につけ、鳥居の下で威風堂々と立っている。


 そのすぐ脇にはオレンジ色の髪を頭頂部で束ねた、シュンと呼ばれた身軽そうな黒装束姿の忍びが跪いている。


「今夜から3日間は、大事な祭りだからね。この岩時神社は、白龍によって守られているんだ。彼ら白龍のしもべ達は人間に変装して、この神社を訪れる人々を、こっそり守っているんだよ」


「…………!」


 岩時神社を守る霊獣たちに影響を与えているのは、白龍が守護する神だ。


 おそらくあの獅子カナメや狛犬シュンは、この神社を守る白龍の指示に従って動く者たちなのであろう。


 白龍が守る場所とは、どの世界にあっても、エセナやクナドのような黒龍側の神々が存在する場所とは、対極であるという事を意味する。


「頭のいい君ならわかるよね? うっかりとはいえ、侵入した事がバレたら、僕らがどうなるか」


 白龍が守る場所に、黒龍側の神や霊獣が立ち入ることは、絶対に許されない。


 許可なくこの神社に入ったことがばれたら、真っ先に裁きを受けるのは、自分達の方だった。


「あいつらにつまみ出されるだけじゃ、済まされない」


 丈の長い黒羽織ですっぽりとクナドはエセナを包み込み、身動きができない状態にされた彼女の耳元で、そっと囁いた。


「神々の掟を破った罪に問われ、問答無用で殺されちゃうよ」


 くすぐったそうに首をすくめ、エセナは真っ赤になりながら叫んだ。


「ねえ、離してよクナド!」

「離さないよ~!」


 悪戯好きな子供みたいに笑うクナドの右目が、グレーからほんの少しだけ赤に変わった。


 ウタカタといいクナドといい、目の色をコロコロと変えないで欲しい、とエセナは思った。


「自分を見失ってた君は、姿を完全に隠しきれてなかった。さくらちゃんに触ってたら、大騒ぎになるとこだったよ~?」 


 この言葉を聞くと、エセナの瞳から涙が一粒、零れ落ちた。


「私…………どうしちゃったの? クナド」


「魅せられたんだ。あの子に」


「…………魅せられた? どういうこと……?」


「今まで一度もないの? そういう経験」


「…………うん」


 クナドの表情が、和らいだ表情に変わる。


 彼はエセナの頬からこぼれ落ちる涙を、自分の羽織の袖でそっと拭いた。


「可愛いんだね、エセナちゃん」


 黒羽織でエセナを包み込んだまま、彼女の衣服の胸元に、クナドはそろりと手を滑り込ませた。


「何してるの?!」

「いたたた………」


 力いっぱい手の甲をつねられて悲鳴を上げながら、クナドはその手をサッと引っ込めた。


「暴力反対」

「自業自得でしょ?」


 軽蔑の視線を向けながらも、落ち着きを取り戻せたのは彼のおかけだと気づき、エセナは内心クナドに感謝した。


『ありがとう、クナド』


 同じ高天原天神であるクナドは、エセナの仲間にあたる。


 つい先ほどまでクスコに刺さっていた『破魔矢』の黒い部分だった、5体の神のうちの1体だ。


 面識はあったが、黒龍ミナの命を受けて行動を共にしたのは、今回が初めてである。


「ホント最低。まさか自分が、こんな風になっちゃうなんて」


 クナドは黒樺の杖をエセナに向けて、笑いかけた。


「確かにあの子の輝きはすごいからね。気持ちはわかるよ」


 エセナはため息をついた。


 人間を甘く見過ぎていたのかも知れない。


「何だか……怖くなっちゃった。『光る魂』の事で騒いでるみんなを、ついさっきまで私、馬鹿にしてたのに」


「『光る魂』があれば僕たちは助かるかも知れないって話も、納得できた?」


「うーん……ウタカタは、ミナ様のご機嫌を取ることが出来ると言ってたけど、そんなに上手くいくかしら?」


「ミナ様は、大喜びすると思うよ。『光る魂』を持ち帰れば。僕たちが掟破りを犯しても、特例で許されるかもね」


 エセナの美しい灰褐色の瞳は、この言葉に揺らいだ。


「でもどうやって? あの獅子と狛犬以外にも、この神社を守る霊獣達が大勢いるんでしょう?」


 クスコやあの桃色のドラゴンも、そのうちどこかから姿を現して自分たちの前に立ちはだかり、邪魔をするかも知れない。


「人間達が本殿の中でをする瞬間に、行動を起こそう。エセナちゃん」


「みそぎ?」


「舞台に立つ人間達は、本番前に本殿の中で、をするらしいんだ」


 『みそぎ』とは心や体についた『穢れケガレ』を払うため、海水や塩などで身を清める儀式の事である。


 エセナは舞台の上にいるさくらを見た。そうだ、今はまだリハーサルの最中だったのだ。


「ってことは…………」


「白龍神の力が強すぎて、あの霊獣たちは本殿の中には立ち入れない。の瞬間が、『光る魂』を奪うチャンスだよ」


 クナドのグレーの右目は嬉しそうに、黄金色へと変化した。

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