いのり

FUJIHIROSHI

いのり

「そっか。じゃあ、が作る。料理を覚えたら、美味しい手料理を食べさせてあげる」

 そう言って幼い少女は、くりくりとした大きな丸い目を細めて、にこやかに笑った。





「わあ! ゆういちろう。ひさしぶりだね」

 予備校からの帰り道、いつものコンビニで、もう二度と会うことはないと思っていたに——真島奈央ましまなおに逢ってしまった。

 驚いた。十年ぶりだろうか。

 俺は「ああ、ひさしぶり」と目をそらして答え、その場を離れようとした。

「ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっと素っ気なくない?」

 奈央は腰に手を当てて、まるでモデルがやるようなポーズで不機嫌そうに言った。

 実際、子供の頃とは別人だ。スレンダーな体つきで、背はそれほど高くはないが……いや、より痩せたかな? 帽子をまぶかにかぶり、長かった黒髪は見る影もなく、少し帽子からはみ出すそれは明るく茶色に染まっている。モデルさながらだ。

 しかし、それにしては帽子はやけに古くさい。

「素っ気ないもなにも、もう関係ないだろ」その場を離れたかった。いきなりで、かなり動揺している。

「関係ない、か……ま、確かにもう赤の他人だけど、いっときはだった人間に対して、冷たすぎない?」

 奈央の言葉にびくりとした。

「あ、ああ、でも最後はめちゃくちゃだったろ」

「まだ根に持ってるんだ? 変わらないなあ、ゆういちろう。ツンケンしちゃってさ」

「奈央だって、ずけずけと言うところはそのままだな」

 ああ、また言い合いになりそうだ、やめよう。そう思ったが、意外にも奈央の方から話題を変えた。

「なに、ゆういちろう、この辺りで一人暮らししてるの?」

「あー……まあ」「どのへん?』、「言う必要ないだろ」「私の目を見て言える?」俺が答えると、奈央も矢継ぎ早に返してくる。

「……公園のそばのボロアパートだよ」

「そっか。ふふ、押しに弱いところと優柔不断は変わってないのかな。んじゃね」

 そう言って軽く右手で弧を描きコンビニを出て行った。

 あいつ何も買ってないんじゃないか? 何だったんだ一体。こんなところで……もしかしてあいつも近所に住んでいるのか? 疑問だらけでつい、奈央の背中を目で追ってしまう。見えなくなったところで我にかえり、夕飯の買い物をしてレジに行くと、店員がおどおどと対応している。

 何だ? 他の店員も俺のことをチラチラと見ていて、目が合うとそらされた……。

 そんなに大声で話してたっけ? 俺は首をかしげながらコンビニを出た。



 ——もうこんな時間……寝るか。夜十一時を回っている。

 帰ってきてからこの時間まで、どこかふわふわとした感覚で自習も身が入らない。ただでさえ浪人してからは精神的にやられている。軽く、うつ気味だ。気分転換に携帯でいつもの音ゲーをやってみても、奈央に逢ってしまったことばかりを考えていた。

 あの頃のこと——。

 嫌な思い出。

 俺たちの家は隣り合っていて、保育園のころからの幼なじみだった。

 うちは、俺が赤ん坊の頃に母親が病死したらしく、父子家庭で、ろくでなしの父親に虐待を受けていた。助けを求めて祈る毎日。奈央はそんな俺をいつも心配してくれていた。

 そんな時、奈央の父親が交通事故をおこして他界し、母子家庭となってしまった。

 もう思い出せもしないが、つらい毎日だったはず、でも、それだけではなかった。

 小学生の時、何がどうなってそうなったのかはわからないが、親たちが再婚し、俺たちは兄妹になり、虐待も無くなり、俺は救われた。

 その頃の俺——高峰たかみねゆういちろうは正直、奈央に惹かれていた。一緒にいられることが幸せだった。

 しかしその状態も長くはなく、小三の時に、ろくでなしの父親の浮気のせいであえなく離婚。俺たちは再び赤の他人となった。

 最悪の別れ。うちの方が引っ越してからは会うこともなくなった。

 やばい、また考えていた。零時を過ぎてる……あれ? 待てよ。奈央のやつ、「一人暮らししてるの?」って聞いてきたよな。俺はちょっと近所を出歩くような格好ではなかったし、リュックも背負っていた。学生か仕事人か、出掛け先かもわからないのに、普通そう聞くか?

 あれこれ思考が止まらない。気づいたら一時を回っていた……アホだ。今度こそ寝よう。



 俺は、集中できなかった昨日の分を取り戻すべく、予備校の授業後に自習し、家路についた。

 帰ってはきたものの、何も手につかない。大きくため息をついてベッドに背を預け、携帯で音ゲーを始め——すぐに、

 ピンポーン……ピンポンピンポーン。

 チャイムを連打するなよ。俺は重い腰を上げた。

「じゃーん。押しかけ女房参上!」

 何で?

 奈央が両手の、大量に詰まった買い物袋を見ろ、と言わんばかりに肩まで持ち上げて立っていた。

「いやー探した探した。公園の周り、アパート多いから」

 言いながら家に上がろうとしている。「いや、待て待て」と無理矢理部屋に入ろうとする奈央の両肩を押し返す。

 ? 軽い。綿でも押しているように、肩が細く、軽かった。

「何よ。少しくらい良いじゃない……って言うか、二、三日泊めてくれない?」

 は? 何を言うかと思えば、「何言ってんだ?」とっさに言った俺は間の抜けた顔をしていたと思う。いきなり押しかけてきて泊めてくれ? 意味がわからない。

「じつはさ、わたしもずっと一人暮らししていて、今月新しいアパートに引っ越したんだけど、そこがさ、手違いでまだ入れなかったんだよ。たった二、三日だけだから……お願い」

 奈央の懇願するような顔は真剣だった。

 実家に帰れば良いだろうとか、それも嘘なんじゃないかとか、言いたいことは山ほどあったがやめた。

 冬はまだだが、夜は結構冷える。寒空にほっぽり出すのもかわいそうだろうと自分に言い聞かせて、奈央を受け入れた。


 あがるなり、部屋を見渡して物色を始めた。

「いやー寒かったあ。む。意外に綺麗にしてるんだ」

「物がないだけだよ。それよりその袋はなんだよ?」

「あーこれ食材。ほら、お世話になるからさ、お礼に何か作ってあげようかと思ってさ。晩ご飯食べた?」

「ああ、もう食べた。てか、すでに買ってきているとか、完全にお世話になるつもりだったのな」

 奈央は、狭い部屋でくるりと振り返り、ぺろりと舌を出した。

 そのしぐさに、鼓動が一段高く跳ねた。

 奈央の買ってきた食材はどうにか冷蔵庫に入った。小さなやつだが、そもそも中に何も入っていなかったから。

 さっきも言ったが、俺の部屋にはほとんど物がない。この冷蔵庫に、電子レンジ。デカい本棚と、それに詰め込まれた何冊もの本。ベッドと幅百、奥行六十高さ四十三センチのガラステーブル、衣装ケース。こまかい生活必需品。だけ。

 一つため息をついて奈央が言う。

「じゃあ、明日の晩ご飯作ろうかな」

「無理だな。明日はバイト。予備校から直で行って、帰ってくるのは夜中の一時くらいだよ」

「そっか……タイミング悪かったね。しかたない、自分で食べるか……」

 奈央は妙に暗く沈んでいる。横顔がとても悲しげだ……明後日も同じだとはとても言えない。

「大変だねえ、浪人生。難しそうな本だらけ。医療系だ。目指しているのはお医者さんだね」

「……うん」

「そっか……そっかそっか。ゆういちろうの小さい頃からの夢。忘れていなかったんだね」

 奈央の横顔は優しく、本棚の本を細い指先でなぞりながら、とても小さく「がんばれ」とつぶやくように言った。

「奈央は、今はどうしてんだ?」

「んー……フリーター」言って、体育座りでベッドにもたれかかった。

「へえ、フリーターねえ。そういえば……あれ? 奈央もなんかなかったっけ? 夢だったか、小さい頃に何か言ってたよな」

「……そうだっけ?」

 首をひねってる。

 いや、言っていたよ。んー、まあ良いか。「あのさ、そしたら明日の朝は? 朝ごはん」

「本当! 朝でも良いの?」

 奈央の表情がぱっと明るくなる。

 しかしその言い方が気になる。「朝でも良い? どう言う意味?」と尋ねた。

「量がさ、大量だよ。どーんと出すから」

 奈央がかなりのオーバーアクションで両腕を広げている。

「じゃ、明後日の朝な。腹、減らしておくよ」

「やったあー。へへー。うへへー」

 広げた両腕を高く上げて喜んだあと、体育座りの膝の上にその両腕を乗せ、頭を横にして乗せる。

「そういうところ、優しいよね」

「なんだそれ」

 俺はふいっと目をそらす。

 子供みたいに喜んだかと思うと、大人びた表情を見せる。子供の頃とは、やっぱり違うな。


 それからすぐ、開きっぱなしの音ゲーを見られ、お互いの携帯で対決するはめになった。

 奈央はハマっているらしく、まるで歯が立たない。俺は降参して風呂に入った。

 ——まだやってる。音ゲーに夢中な奈央に、風呂に入れと促すが、着替えを持ってきていない。

 お世話になるつもりで何で持ってきてないんだよ。

 とりあえず、俺の服を貸した。

「ゆういちろう、言っておくけど——」と風呂場に下着を干したらしく、見ないようにと念を押された。

 そんなもの見るか。一緒に住んでた時に散々見たわ。

 しばらくまた、奈央の軽快な音ゲーのテクニックを見せられる。素早く動くその指はとても綺麗だが、どこか病的に細く、白い。

「浪人生の貴重な時間を奪ってしまってごめんね」

 ぽつりと、奈央は言った。

 俺はそれには答えずに、奈央の帽子の上にポンと手を置き「そろそろ寝るぞ」と一言。

 その時ふと見た帽子。あれ? この帽子……見覚えがある。何だっけ? 思い出せなかった。

 もちろんベッドは、奈央に。俺はベッドとガラステーブルの間の床に寝た。

「明日一度帰るね。いろいろ準備しなきゃ」

 奈央の声がはずんでいる。

「さぶっ」

 ちょっと寒い。俺は奈央の掛け布団の下の毛布を借りた。

「ゆういちろう寒くない? 本当に平気?」

「ん。もう平気」

「……一緒に寝る?」

 アアアアアホか! こういうシチュエーションでそう言う。漫画や映画の見過ぎだわ。お決まりのそのセリフだったが、その強烈な破壊力を身をもって味わう。

 心臓が口から飛び出るって表現はこういう時に使うんだな……。

「アホか。寝ろ」

 どうにか、声をうわずらせずに言えた。



 朝起きると奈央はいなかった。

 もう帰ったのか? 思いつつ時計を見た俺は飛び起きた。あやうく遅刻するところだ。予備校に遅刻とか、シャレにならない。

 朝飯を食べなかったせいか、授業中に何度か腹が鳴った。バイト中もつい、奈央のことを考えていた。「何か、ニヤニヤしてないか? ごきげんだね高峰くん。更衣室に置いてあったあれ、何か良い買い物できたのかい?」なんて社員さんにツッコまれたが、そんなにニヤついてたか? ニヤついてたかもな。つーか、買い物はしてないけどね。

 確かに、昨日十年ぶりに逢ったのに、四、五時間しか過ごさなかったのに、楽しかった。なんだか子供のころに戻ったみたいに感じた。

 そういえば一度帰るって言ってたけど、実家にだよな。けっこう遠い。新しい引っ越し先はうちの近所なんだよな? 聞くの忘れてた。

 ぐぅー、と腹の虫がなる。バイト前に軽くは食べたけど、腹へった……奈央の手料理か。そもそも料理なんてできるのかね……ん? 手料理……あ、思い出した。

 そうだ、子供の時に奈央が言ったんだ。母親の手料理の話になった時、『そんなもの食べたことなんてないよ』なんて、ふてくされた俺に、奈央が—— 『そっか。じゃあ、わたしが作る。料理を覚えたら、美味しい手料理を食べさせてあげる』って。


 帰ると、奈央はベッドの上に座り、壁に寄りかかり布団を肩からかけて寝ていた。まだ帽子かぶってる。俺はそっとつばに指をかけた……この帽子……やめた。そのまま起こさないように、風呂に入って寝た。

 ——食器のカチャカチャと鳴る音と、とても良いにおいで目を覚ました。

 携帯を手に取る。六時前か、四時間しか寝てないが、からっぽの腹がこのにおいに耐えられなかったんだろう。

「あ、起きちゃったか。あと三十分は寝かせてあげようと思ってたんだけど」

 奈央は手に持った料理をガラステーブルに置いて「おはよう」と言った。

「あ……おはよう。これ、すごいな」

 ガラステーブルが料理で埋まっている。

 完全に目が覚めた。

 俺は起き上がり、綺麗に整われた料理を崩さないように洗面所へ行った。

 さっきは気づかなかったけど、服装が変わっている。ベージュのハイネックリブニットにデニムパンツ。露出しているのは両手と顔だけなのは今までと同じだ。ま、顔も帽子をかぶっているから角度によってはほぼ見えないけど。やっぱり一度帰ったんだな。考えたら、皿も三枚しか無かったはずだし。あー!? 調理器具がなかったじゃん! それもわざわざ持ってきてくれたのか……悪いことをした。

 二人ともテーブルの前に座る。「お前の横のそれ、何?」奈央の横に鎮座する調理器具が気になった。

 ふふん、と奈央は胸を張り、ポンとそれに手を置いて言う。

「超兵器、マルチクッカー。これ一台であらゆる料理が出来るのだ」

 ははー、と俺はそれにひれ伏した。

「さあー召し上がれ!」

 奈央が両腕をいっぱいに広げる。

 おおお、脳を活性化するのに朝飯は重要だ。俺は必ず食べるし、それもがっつり食べれる方だ。が、これはすごい。

 ハンバーグにビーフシチュー、肉じゃがまでは俺でもわかる。鶏肉と人参の、煮たやつ? 魚の……煮たやつ? 俺には説明は無理だな。とにかく、和洋折衷わようせっちゅうで色とりどりの料理がテーブルを埋め尽くしている。

「では、いただきます」



「うまい!」

 どれもこれも美味かった。言うたびに、奈央が「良かったぁ」と、にこりと笑った。

 いくつか家で作ってきたものもあるらしい。そういえば部屋の隅に、昨日まで無かった大きなリュックがある。

「ありがとう」

 素直に言葉が出た。奈央が箸を止めて、じっと見つめながら指先を俺の鼻先に当て、声を絞り出すように言う。「わたしに惚れるなよ」と。奈央の頬を涙が伝う。それがポロポロと大きな粒になり料理に落ちた。

「あれ、あれ? 変なの。どうしたのかな? わたし」

 言葉が出ない。涙を拭う奈央を見て、急激に、何か得体の知れない不安に襲われた。

 俺は不安を拭うように問いかける。

「新しい引っ越し先ってこの近くなのか?」

「え? あー……うん。まあ」

「? じゃ、たまに作ってもらおうかな」

「……うん。出来たら……良いな」

 奈央の表情があきらかに陰る。

「なんだよ、その言い方。やっぱりなんか変だな? どうしたんだよ」

 何か隠してる。初めからおかしなことばかりだったからな。

 奈央は、見ないでと言わんばかりに両手で視線を遮り、「やめよう。今は、そう言う話。楽しくご飯食べようよ」と消え入りそうな声で言った。

 苦しそうな、切なそうな奈央に、それ以上は何も言えなかった。聞きたい気持ちを押し殺して食べた。家を出る時間も迫る。

 せっかくの朝食も、無言のまま終わった。

「ごちそうさま」静寂を打ち消すように、奈央が皿をいくつか持って立ち上がり、台所へ向かう。

「奈央! あの、ごちそうさま。すげぇ、うまかった。本当に」

 奈央の方は見れなかったが、気持ちだけは伝えないといけないと思った。しかし、それに返事はなく、そのかわりに転倒音と皿の落ちた音が響いた。

 振り返ると皿はひっくり返り、奈央が膝をついてうなだれている。すぐに奈央に寄り、呼びかけた。

「奈央? おい、奈央!」

「あぁ……ごめん。大丈夫。ちょっと立ちくらみ。はは、たまにあるんだ。あらら、お皿落としちゃったね」

 顔が青く額に汗がにじんでいる。

「皿は割れてないよ。そんなのいいから」

 起きあがろうとする奈央を止めて、ベッドに横に寝かせた。

「ごめん、まずったね。もう予備校に行く時間になっちゃう」

 いいから寝てろと、奈央に念を押して、とりあえずテーブルと周りを片付けた。

 俺は一応、予備校に行く用意を始めた。場合によっては予備校は休む。ただの立ちくらみとは思えない。

「奈央、ふっかーつ」

 え? 振り返るとベッドに横になったまま、両手両足を天井に向けて伸ばしている。

 呆然とする俺の前で、寝たまま器用に体を回してベッドに座る体勢になった。

「いやー、ただの立ちくらみなんだけど、こういうのびっくりするよね」

 明るい……なんだよ。まったく…………良かった。だらしなく、はあああ、と息を吐き、肩を大きく下げた俺の顔の前で、奈央がごめんねと手を合わせた。

 俺はまた奈央に背を向けて、出かける準備に戻った。なんだか、予備校に行く気がしない。

 突然ふわっと空気の流れを耳に感じた。

 後ろから、肩越しに抱きしめられる。

 緊張で全身が固まる。不思議と背中に、奈央の重さを感じない。

「時間ないのにごめん。また立ちくらんじゃったかな。少し——もうちょっとだけ、こうしていても良いかな?」

 その静かな声にぞくりとし、鼓動が一気に跳ねあがった。俺は首に巻かれた奈央の腕をそっと掴んで、ゆっくり目を閉じて答えた。

「……うん」

 とても静かだ。こんなにも気持ちが落ち着いたことがあっただろうか。激しいはずの鼓動も聞こえない。


 しばらくして、奈央はゆっくりとした口調で「再びふっかーつ」と、おどけて離れた。

「なあ、奈央、今日帰るのか?」

「んーそうだねぇ……もう大人だし、たぶん今だけだから」

 ? 意味がわからないが、奈央に振り返れない。

「そんなの、関係ないだろう。いつでもうちに来てくれて良いからな……来てくれよ」

 言い直して、玄関へ向かう。

 帰ってから片付けはやるから、ゆっくり休んでいろと念を押す。

 ドアを開けて、やっぱり振り返った。

「俺、授業終わったらすぐ帰ってくるからさ」

「うん。いってらっしゃい」

 奈央は、キリッとしたつり目を細めて、にこやかに笑った。


 バイト前に、一度帰ってこよう。一時間くらいの余裕はあるだろう。

 ——奈央は、いてくれるだろうか? 気になるが不思議と勉強に身が入る。なんだろうな、恥ずかしいくらい、全ての景色が違ってみえる——。




 ——奈央は、いなかった。

 部屋も、台所も綺麗に片付いている。数枚の皿と、超兵器、マルチクッカーが残されていた。

 おかしい、ワンルームの狭い部屋が広く感じる。

 ため息をひとつ。ガラステーブルの上に書き置きがあった。それを開く。


 ゆういちろうへ——


 んーまずは、ごめんなさい。

 ウソばかりついてしまった。十年も会ってなかったから、さすがのわたしも、いきなりゆういちろうの家に突撃するのが怖くってね。

 一人暮らしも引越しも嘘でした。

 でも、会ってみたら変わってなくて良かったよ。

 優しいところも、ツンケンしてるところもね!

 だから、わたしを怒らないように。


 三日間、わたしのわがままを聞いてくれてありがとう。とても嬉しかった。

 に手料理も作ってあげることが出来たし、わたしは満足だー。

 ただ、『これが愛情のこもった手料理だぞ!』て言いたかったんだけど、忘れてた(笑)


 本当は、もっと一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。

 叶うかなー?

 叶うと良いな。


 でも、無理だね。

 もう大人だし。わたしは、


 じゃあね! さようなら。


 大学合格を祈っています。


 いのり より。



 ——いのり?

 いのりだって?

 急激に頭の中に過去の映像がなだれ込んでくる。

 虐待と、それから救ってくれた奈央。俺に、手料理を作ってくれると言った奈央は、黒髪の少女だった。


 俺は祈ったんだ——なぜ?


 気が狂いそうなほどの悲しみで、俺は奈央を、いや、奈央の代わりの[いのり]を生み出した。


 ——イマジナリーフレンド?


 親たちは、確かに再婚したが、奈央はいなかった。いたのは、いのりだ。


 俺は、いのりに、お気に入りの帽子をあげた。


 奈央と再会したコンビニでは——、俺は一人だった。


 皿や、マルチクッカーは俺が買った。


 でも、料理や、書き置きは——? 全部俺の想像で、俺がやったことなのか?


 それより奈央、じゃあ奈央はどうした——?


 


「そうだ、奈央はあの時の交通事故で父親と一緒に死んだんだ」




 おしまい

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