Licht
雪白楽
1-1
耳をくすぐるように、甘やかな鳥のさえずりが聞こえる。
「……アレク」
呟くように呼びかけても、楽しそうなさざめきが止む事はなく、まだボンヤリとした思考の片隅で、もう彼女がいないことを思い出す。
もう何年も自分の手で、この目覚ましを止めることなどなくなっていたから、手探りで手動のスイッチを探して、やっとの事で部屋に静けさを取り戻した。考えたこともなかったけれど、大半の鳥が消えてしまったこの世界で、未だに人類が鳥のさえずりを朝の目覚めと結びつけているのは
昨晩、近所のパン屋で買ってきた堅パンと、グローサリーで売られている数少ないタンパク源のチーズ、それから家庭菜園で育てたリーフレタスを挟んでいつもの朝食を摂る。噛めば噛むほど味が出てくる堅パンを、もそもそと
悲しいものは、悲しい。寂しいものは、寂しい。そんな単純な想いを、認めてやれなくなったのは、いつからだろう。
「行かなくちゃ」
そう。どうしたって今日からは新しい『パートナー』と、やっていかなくちゃいけないのだから。こんな日は、大好きなものの事を考えて、大好きなものを身に着けて出かけよう。
柔らかなリネンのシャツ。パリッと糊の
ひんやりとしたドアノブを回して外に踏み出す。後ろ手にオートロックが
『先の大戦』
そう呼ばれ、誰もが記憶から消し去りたいと願っても、何十年と経った今でさえ爪痕だらけの世界。誰が引き金を引いたのか、そんな事さえもはや問題にならない程までに、人間は地球を破壊し尽くした。想像する事さえ恐ろしいような兵器がごまんと使われ、世界は汚染物質で
自分たちの手で地上を追われることになった人類は地下へと逃げ込み、再び陽の光を見る日を待ちわびながら、苦難の時代を生きることになって。水も食料も、人の生活する場所までもが圧倒的に不足し、多くの人間が飢えと病とで命を落とした。
そんな地獄絵図を横目に、淡々と働き続けたのがAI―人工知能だった。
彼らは疲労を知らず、昼も夜も休みなく機械を駆使して、地下の安全な場所を求めて掘削し、地上の汚染物質を地道に除去し続けた。その手によって、地上に再び人類の生存可能な領域が誕生した。それが今のアリエス、私達の住むエリアだ。
今更のようにAIの有能さを再認識し、消失した労働人口を埋めるための手立てを模索していた人類は、AIの普及に再び力を入れ始めた。私としてはそもそも、どうしてそれまで労働力としてのAI利用に目が向けられていなかったのか、疑問を禁じ得ないのだけれど。
ともあれ、エネルギーを無駄に消費しなくなったこともあり、余り気味だった電力は全てAIの稼働に向けられた。そのお陰で全ての領域における作業効率が上がり、人類は予測されていたよりもずっと早く、地上での活動を再開させることになった。
ここアリエスの
ただ、最先端の科学技術に彩られた古い町並みと言うことで、特に大戦の生き残りの人々はエーヴィヒを訪れるたびに『ちぐはぐな街』だと寂しそうに笑う。生まれた時からこの景色の中で生きている私には、彼らの感傷は良く分からないけれど、とても二・三十年で完成した都市とは思えないのは確かだ。どこか歴史の香りと言うべきか、過去の人々の息遣いが聞こえるような街の姿は、私の遺伝子に刻み込まれた記憶が見せているのだろうか。
コツコツと石畳の上を、リズミカルに靴音を響かせて。まだ人の疎らで静かな空間に、自分の発する音だけが聞こえる。少しずつ人々が起き出して、思い思いに一日を始めて。そんな風に音の増えていく過程が聞こえる、この時間がとても好きだ。
「おはよう、おねえさんっ」
元気の良い声で、ニコニコと少年が駆けて行く。背中から彼の身体には少し大きく見えるヴァイオリンのケースを下ろして、慣れた手付きで軽く調律をすると、柔らかな音で朝の眠気が残る耳に優しいメロディを奏で始める。子どもの指には不似合いな、滑らかで美しい音に、こんな時代でなかったらと考えさせられる。少しの哀愁と、いつもの感謝をこめてヴァイオリンのケースにコインを投げ入れる。地上では電子マネーが主流だが、地下では未だに現金が主に利用されている。
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