Licht

雪白楽

1-1

 耳をくすぐるように、甘やかな鳥のさえずりが聞こえる。


「……アレク」


 呟くように呼びかけても、楽しそうなさざめきが止む事はなく、まだボンヤリとした思考の片隅で、もう彼女がいないことを思い出す。




 もう何年も自分の手で、この目覚ましを止めることなどなくなっていたから、手探りで手動のスイッチを探して、やっとの事で部屋に静けさを取り戻した。考えたこともなかったけれど、大半の鳥が消えてしまったこの世界で、未だに人類が鳥のさえずりを朝の目覚めと結びつけているのは何故なぜだろう。自分の手では電気を点けるのにも難儀しそうで、カーテンを開けて白み始めた明け方の空から、ささやかな明かりを取ることにした。


 昨晩、近所のパン屋で買ってきた堅パンと、グローサリーで売られている数少ないタンパク源のチーズ、それから家庭菜園で育てたリーフレタスを挟んでいつもの朝食を摂る。噛めば噛むほど味が出てくる堅パンを、もそもそと咀嚼そしゃくしながら、心の追いつかないまま無理やりに納得させようとしていた喪失感と静かに向き合う。


 悲しいものは、悲しい。寂しいものは、寂しい。そんな単純な想いを、認めてやれなくなったのは、いつからだろう。




「行かなくちゃ」


 そう。どうしたって今日からは新しい『パートナー』と、やっていかなくちゃいけないのだから。こんな日は、大好きなものの事を考えて、大好きなものを身に着けて出かけよう。


 柔らかなリネンのシャツ。パリッと糊のいた白い制服。滑らかな質感の黒い縁取ふちどり。眩しいくらいのプリーツスカート。脚に馴染んできた編み上げブーツ。握ればキュッと音のする黒い革の手袋。リボンで緩く髪を編み上げれば、余所行きの私が出来上がりだ。職場で着るにはちょっと派手だといつも思ってるけど、今の時代にはこれくらいが丁度いいのかも知れない。


 ひんやりとしたドアノブを回して外に踏み出す。後ろ手にオートロックがかすかな駆動音と共に掛かるのを確認して、いつもと変わらない空気を胸に吸い込んだ。小説の中で読む『朝の匂い』と言うものは、この世界には存在しない。上を見上げれば『外』にしか存在しない貴重なガラス越しに、オレンジ色が滲み出した朝の空が見える。




『先の大戦』


 そう呼ばれ、誰もが記憶から消し去りたいと願っても、何十年と経った今でさえ爪痕だらけの世界。誰が引き金を引いたのか、そんな事さえもはや問題にならない程までに、人間は地球を破壊し尽くした。想像する事さえ恐ろしいような兵器がごまんと使われ、世界は汚染物質でほとんどが覆い尽くされて、人の住めない場所になってしまった。


 自分たちの手で地上を追われることになった人類は地下へと逃げ込み、再び陽の光を見る日を待ちわびながら、苦難の時代を生きることになって。水も食料も、人の生活する場所までもが圧倒的に不足し、多くの人間が飢えと病とで命を落とした。




 そんな地獄絵図を横目に、淡々と働き続けたのがAI―人工知能だった。


 彼らは疲労を知らず、昼も夜も休みなく機械を駆使して、地下の安全な場所を求めて掘削し、地上の汚染物質を地道に除去し続けた。その手によって、地上に再び人類の生存可能な領域が誕生した。それが今のアリエス、私達の住むエリアだ。


 今更のようにAIの有能さを再認識し、消失した労働人口を埋めるための手立てを模索していた人類は、AIの普及に再び力を入れ始めた。私としてはそもそも、どうしてそれまで労働力としてのAI利用に目が向けられていなかったのか、疑問を禁じ得ないのだけれど。


 ともあれ、エネルギーを無駄に消費しなくなったこともあり、余り気味だった電力は全てAIの稼働に向けられた。そのお陰で全ての領域における作業効率が上がり、人類は予測されていたよりもずっと早く、地上での活動を再開させることになった。




 ここアリエスの央都おうとエーヴィヒは、とにかく早く人の生活出来る空間を作ろうと、周囲の瓦礫がれきだとか山とかから持ってきた煉瓦れんがと石で作られた街だ。短期間で作られているとは言え、AIによって計画的に創られた街なので景観はとても美しく、人類の歴史で言えば近世や中世のヨーロッパの都市に近い町並みだとか。


 ただ、最先端の科学技術に彩られた古い町並みと言うことで、特に大戦の生き残りの人々はエーヴィヒを訪れるたびに『ちぐはぐな街』だと寂しそうに笑う。生まれた時からこの景色の中で生きている私には、彼らの感傷は良く分からないけれど、とても二・三十年で完成した都市とは思えないのは確かだ。どこか歴史の香りと言うべきか、過去の人々の息遣いが聞こえるような街の姿は、私の遺伝子に刻み込まれた記憶が見せているのだろうか。


 コツコツと石畳の上を、リズミカルに靴音を響かせて。まだ人の疎らで静かな空間に、自分の発する音だけが聞こえる。少しずつ人々が起き出して、思い思いに一日を始めて。そんな風に音の増えていく過程が聞こえる、この時間がとても好きだ。




「おはよう、おねえさんっ」


 元気の良い声で、ニコニコと少年が駆けて行く。背中から彼の身体には少し大きく見えるヴァイオリンのケースを下ろして、慣れた手付きで軽く調律をすると、柔らかな音で朝の眠気が残る耳に優しいメロディを奏で始める。子どもの指には不似合いな、滑らかで美しい音に、こんな時代でなかったらと考えさせられる。少しの哀愁と、いつもの感謝をこめてヴァイオリンのケースにコインを投げ入れる。地上では電子マネーが主流だが、地下では未だに現金が主に利用されている。



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