第42話 それぞれの朝。

 カノンの朝は、自身のご主人様であり、今では旦那様でもあるリオよりも少し早く起きることから始まる。



 リオの朝は早い。早々に起きて朝食を食べ、身支度を整え、ゴーレムたちに魔力を注ぐと、すぐに仕事を始めるために外へ出ていく。


 それは冬になり、森の奥深くに入って魔物狩りをすることが難しくなっても変わらない。冬は冬で、住宅地や農地を増やすために森を切り開くという役目が彼にはある。



 そんな彼を支え、仕事に送り出すためにも、カノンはまだ空が薄暗いほどの時間から起きるのだ。



 目を覚ました彼女は横で穏やかな寝顔を見せるリオを見て優しく微笑むと、ベッドの中に散らばった自分の衣服を身に着けてそっと起きる。


 本来なら冬の朝は凍えるほど寒いはずだが、リオは高価な暖房用の魔道具を寝室に設置しているので、室内はほどよく暖かい。


 普通は暖房の魔道具を常時つけっぱなしにすると魔石代が大変なことになるが、リオは自前の魔力でそれを賄える。彼のこの贅沢を、カノンもありがたく享受していた。



 寝室から廊下に出ると、途端に冷気が体にまとわりついてくる。カノンは急いで調理場に向かうと、まずは魔道具でお湯を沸かしてお茶を淹れ、それを飲んで体を温めながら朝の仕事を始めた。


 リオが仕事のときに着る軍服やブーツを並べ、彼の水筒――これも魔道具で、中に入れたものの温度を保つことができる――に先ほど淹れたお茶をポットから移す。


 その後は朝食の準備だ。リオは冬の朝はポリッジを好むと分かっているので、牛乳を小鍋に入れて煮立たせ、オーツ麦を入れてとろみが出るまで混ぜる。



 毎朝静かに朝食を作るこの時間が、カノンは好きだった。



「愛する人のために朝食の支度をする」という何気ない仕事に、今の自分の幸せな人生が表れているような気がするからだ。


 夢のような生活を送っている、と思う。一般奴隷以下の扱いをされるのが当たり前の終身奴隷という身でありながら、自分は主人から溢れるほどの愛情を与えられている。


 自分も、とめどない愛情を主人に捧げることを許されている。来訪者という特別な立場で、おまけに貴族にまでなった主人に、奴隷の身でありながら「好き」と伝えることを許されている。


 それどころか、主人は自分を妻として扱い、夫の立場として自分に接してくれる。



 こんな幸せが待っているなんて、ほんの2年前は信じられなかった。



 ポリッジができたら、リオを起こす。



「ご主人様。お目覚めください」



 と声をかけてそっと頬に触れると、リオはいつもすぐに目を覚ます。



「……おはよう、カノン」


「おはようございます。ご主じ、あっ」



 寝る前と寝起きのリオは甘えたがりだ。大抵はこうして、手を掴まれてベッドの上に引き寄せられてしまう。


 若い夫婦らしく朝っぱらから少しばかり戯れるが、それでもリオは仕事に遅れない程度の時間で戯れを終える自制心は持ち合わせている。



 リオが顔を洗って服を着替えている間にカノンはポリッジを皿に盛り、砕いたナッツとドライフルーツをその上に散らした。


 普通は主人が食事を済ませてから奴隷は別室で食べるものだが、リオはいつも必ずカノンを妻として扱うので、2人で並んで朝食をとる。


 食べ終われば、リオは仕事に出発してしまう。玄関を出て家の外に並んでいるゴーレムたちに触れ、1体ずつに魔力を注いだリオは言った。



「行ってくるね、カノン」


「はい。行ってらっしゃいませ、ご主人様」



 いつものように抱き合ってキスを交わしたあと、ゴーレムを引き連れて出かけていくリオをカノンを見送った。


 ――――――――――――――――――――


 このクレーベルがまだ開拓地だった頃から、ヨアキム・バルテは空がまだ暗いうちに起きるようにしていた。


 リーダーであるからこそ、できる限り誰よりも早く起きて働き、誰よりも遅くまで仕事をするべきだ。そうすることでこそ民は自分に付いて来てくれる。そう考えていたからだ。


 その習慣は、ここが正式にクレーベル村となり、ヨアキムの肩書が開拓団長から領主へと変わってからも続いている。



「……あ。おはようございます、あなた」


「いい。まだ眠っていろ、ティナ」



 ベッドから出るときの音で起こしてしまった妻にそう伝えると、ヨアキムは動きやすい服装に着替えて剣を手に取り、屋敷の裏庭に出た。



 領主となってから直接剣を振るう機会など全くと言っていいほどないが、それでも身体がなまらないように鍛錬は続けている。


 空が白んでくる中で素振りを続けるうちに、体が少しずつ温まっていくのを感じる。


 ほどなくして素振りを終え、簡単な剣術の型を一通り済ませると、ヨアキムは朝の鍛錬を切り上げて屋敷に戻った。



 この時間には、既にティナも起きている。



「おはようございます。あなた」


「ああ、おはようティナ」



 屋敷には村民の中から雇った使用人が住み込みで働いており、朝から朝食の準備をしてくれている。


 ティナも使用人を手伝いながら、調理場に立っていた。いつもの朝の光景だ。



 手早く朝食を済ませたヨアキムは、ティナと共に仕事場の行政府へと移動する。


 まだ早朝ということもあって、村内の道に人通りはない。


 すると、並んで歩ていたティナがヨアキムの手をスッと握ってくる。



「えへへっ」


「……まったく」



 結婚してからは「領主貴族の妻」として人前では落ち着いた振る舞いをするようになったティナだが、人目のないところでは以前のような少し子どもっぽい表情になることも多い。


 甘えた顔で手を繋いで体を寄せてくる彼女に苦笑しながら、行政府までの短い道のりを歩いた。



 この時間の行政府には、大抵はまだ誰もいない。


 ドアの鍵を開けて中に入り、領主としての執務室に入る。


 従士たちが出勤してくる前に、今日の仕事の確認や準備をざっと済ませるのがヨアキムの始業前の日課だ。



「あなた、とうぞ」


「ああ、ありがとう」



 行政府の調理場でティナが淹れてくれたお茶を受け取り、書類の確認などをこなしているうちに、従士たちも出勤してきた。



「おはようございます閣下。相変わらずお早い出勤で」


「おはようクリス。いつもの癖さ。今日の予定は従士たちとの定期訓練と、新しく森を切り開く場所についてリオと打合せ、それから午後はミケルセン商会のハーディング支店長と今月の買取り分についての話し合い、で間違いないか?」


「はい。間違いございません……予定を確認して伝えるのも一応俺の仕事のうちなんですがね。ヨアキム様は全部自分でやっちまう」


「自分の仕事くらい自分で把握するさ」



 苦笑する従士長にそう返事をすると、ヨアキムは今日も領主としての仕事を開始した。


 ――――――――――――――――――――


「始めるぞ、タマラ」


「はいよ、あんた」



 リオ・アサカ名誉士爵の従士たちの役割は、ゴーレムではこなせない臨機応変の判断でリオをサポートし、場合によっては最後の盾としてリオを守ることだ。


 そのため、ヴォイテクは自分が冒険者でなくなってからも、毎朝しっかりと鍛錬に励むことを日課としている。妻であり、従士としての部下であるタマラも一緒だ。



 まずは素振り。ひたすら剣を振り続けるこの時間は、ちょっとした考えごとにふけることも多い。



 自分は40歳は迎えられないだろうと思っていた。


 農家の三男として生まれ、成人して家を追い出されて冒険者という仕事に就いたときから、長くは生きられない運命にあると理解していた。


 「荒ぶる熊」というパーティーに拾ってもらい、下っ端として荷物持ちや雑用から始め、鍛錬に参加して少しずつ実力を磨き、仕事で失敗すれば容赦なく殴られる日々。


 ゆっくりと成長しながら5年が経ち、後輩と呼べる存在もでき、10年が経つ頃には、自分が加入した当時のメンバーは半分も残っていなかった。


 死んだのだ。


 ある者は年を食って戦闘で身体がついていかずに致命傷を負って。


 ある者は戦いの中で重傷を負い、そこから感染症になって体力が持たず。



 最初は誰よりも年下だった自分が、15年が過ぎる頃には誰よりも年上になり、頭領を務める立場になっていた。


 頭領などと呼ばれるようになっても、喜べることばかりではない。


 身体が確実に衰えていると感じていた。


 戦闘技術では部下たちはもちろん、そこらの並みの冒険者や軍人に負けるつもりはない。


 だが、体力はどうしようもない。20代の頃と比べると息が続かないと感じることが増えた。前は一晩寝れば回復した疲労が、数日経たないととれないことも増えた。


 この衰えは年々酷くなっていき、数年のうちに自分は致命的なヘマをやらかして死ぬだろう。そう思っていた。


 頼れる部下として何年も接してきたタマラとはお互い憎からず思っていたし、男女の関係にもなっていたが、どうせ近いうちにくたばる身で彼女を嫁にして早々に未亡人にするわけにもいかない。


 思い返せば虚しい人生だ。そう思っていた。



 そこへ来て、リオからのあの誘いだ。



 王国北西の田舎で一介の冒険者をしていた自分たちが、貴族に仕える従士になる。これがどれほどの意味を持つか、おそらくリオは正確には理解しないまま自分たちに声をかけたのだろう。


 はっきり言って、田舎冒険者としてはこれ以上を望むべくもない大出世だ。


 新たな貴族が生まれる場合でも、その従士には既に他所の貴族の従士家から家督を継げない若手が選ばれることが当たり前。


 たとえ能力的には務まるとしても、冒険者が従士になれる機会なんてほとんどない。


 王国中に名前が知られるような英雄的冒険者ならともかく、「北西部ではそれなりに知られている」程度の自分たちでは従士への抜擢などあり得ない。そのはずだった。



 そのはずだったが、自分たちは選ばれた。


 従士になれば固定給が出る。子どもに従士の地位を継げる。たとえ仕事の中で負傷して後遺症が残ろうとも、野垂れ死にすることなく、裏方仕事に回ったり隠居したりすることができる。


 リオは今は職能貴族の身だが、優秀だからいずれはどこかに領地をもらうだろう。そうすれば自分たちもそこに定住することになり、自分の土地を持つことすらできる。


 自分が、タマラが、そしてエッカートやヴィクトルやイヴァンが、あの若い主にどれほど感謝しているか。おそらく本人はいまいち分かっていないだろう。



 そんなことを考えているうちに素振りは終わり、別の家で暮らすエッカートたち3人もうちの庭にやってきた。


 次は5人全員での模擬戦や連携訓練だ。



 主から受けた恩に報いるためにも、ヴォイテクたちは今日も従士としての鍛錬を怠らない。

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