第1話 草原の中にいる。
どのタイミングで意識が途切れたのかははっきしりないけど、少なくとももう自分がさっきの書店にいないのは分かる。
というか、もう自分がさっきまでの世界にいないのがなんとなく感覚で分かる。
そこは不思議な場所だった。
何も見えないのに光に包まれてるのが分かるような、自分の身体もないのに暖かい風に包まれているのが分かるような、「五感」という概念さえないような世界。
精神世界とでも言えばいいのか?とにかく、今まで生きていた三次元の世界とはまったく違う場所だ。
これが死後の世界なのか?
いきなりこんな変な場所に来てしまって、現実の自分はもう死んでるかもしれないなんて異様な状況。
恐怖でパニックになってもおかしくないのに、なぜか心の中は穏やかな安心感に満ちていて、全く怖くない。
そんな不思議な心地に浸っていると、何かが近づいて語りかけてきた。
ただし、これも直接声が聞こえるわけじゃない。何者かが直接イメージを僕の意識に流し込んできたような感覚だ。
そのイメージによると、僕はこれから「遠い別の世界」に飛ばされるらしい。
行き先は今いるような精神世界ではなくて、これまで生きてきた地球のような、実体のある世界みたいだ。
意識の中に大量に流れ込んできたイメージは……青い空と豊かな自然、昔のヨーロッパのような街並みや村、そこで暮らす人々。その姿は多種多様で、獣のような耳を持つ人、ずんぐりとした体格で顔中に髭を生やした人、真っ白な肌と尖った耳を持つ人もいる。
さらに自然の中には、ツノの生えた猪、緑色の肌のゴブリン、空を飛ぶ巨大なドラゴン……ってちょっと待って。
これじゃあまるでファンタジーゲームの世界じゃないか、と思いながら、僕の意識はどこかへ吸い込まれていった。
――――――――――――――――――――
光に包まれていた感覚がゆっくりと薄れていき、気がついたら僕は地面の上に立っていた。
書店にいたときからほんの数分しか経ってないような気もするし、何年もあの精神世界にいたような気もする。
「自分の身体がある」という感覚がずいぶん久しぶりのように思えて、軽く目まいを感じてその場に座り込んでしまった。
座ったまま周囲を見回すと……僕がいるのは草原だった。
見渡すかぎり緑が広がっていて、数百mほど離れた場所には森が見える。
空を見上げると、清々しい青空が広がってる。太陽は地球と同じで1つだけだ。
手元に視線を落とす。手はもとの自分の身体と同じように見える。
服装は真っ白。上半身にはだぼっとしたTシャツのような服を着て、下半身にはゆったりとしたズボンを身に着けていた。
この服、見たこともない素材でできている。
生地のつなぎ目も縫い目もなく、表面がツルツル、
着心地は柔らかくてそれなりに気持ちいいけど、誰が何を材料にどうやって作って、いつ僕に着せたんだろうか。不思議を通り越してちょっと不気味だ。
足にはサンダルのようなものを履いていた。これもツルツルの謎素材でできてる。
自分の頭に触れてみる。髪は黒髪のままで、長さも以前の自分と変わらないように思える。
顔も触ってみるけど……さすがに手先の感覚だけじゃ顔立ちがもとのままかは分からないな。
でも、手や髪がそのままなんだ。鼻の高さも変わっていないみたいだし、たぶん顔も自分のままだろう。
あらためて周りを見回す。やっぱり視界に入るのは草原だけだ。
目に見える限り、街や村はおろか、建物のひとつも見当たらない。人の気配がまるでない。
……大自然のど真ん中で、水も食料も武器も持たずに一人きり。これはちょっとやばいんじゃないだろうか。
ちょっと待って。状況を整理しよう。
あの精神世界で見たイメージから考えて、「自分がもとの世界とは違う世界に飛ばされた」というのは分かる。
ここがゲームや小説みたいに、異種族やモンスターがいるような世界だってことも分かってる。
「生まれ変わり」とか「転生」っていうのか?いや赤ん坊からやり直してるわけじゃないし肉体や年齢はそのままっぽいから「転移」ってやつか。
とにかく、自分がファンタジー異世界にいることは理解できてる。
けど、こういうのっていきなりこんな何もない自然のど真ん中に飛ばされるものなのか?
こんなところで急にサバイバルできるとは思えないんだけど?
生身の肉体を取り戻したからなのか、精神世界にいたときのような心の安らかさは消えて、「命や身体を失うのが怖い」という人間らしい感情が湧いてきた。
さっきまで地球で「人生に夢も希望もない……」なんて考えてたくせに、リアルに命の危機がありそうなサバイバル環境を前にしたら、一気に焦りの気持ちがあふれてくる。
ていうかそもそも、なんで僕は急に異世界なんかに転移した?誰が転移させた?もとの世界の僕はどうなった?家族にはもう会えないのか?
今さらながら疑問がいくつも頭に浮かんできて、同時になぜか「もとの世界に二度と帰れなくても別にいいか」と思ってしまってる自分がいることに気づく。
……何だこれ。いくら将来が暗いニートだったからって、もとの世界への未練がまったくないなんておかしい。
家族だってすれ違い気味ではあったけど仲が悪いわけでもないし、普通に好きだ。会えなくて平気なわけない。
ふつうに考えてあり得ない自分の心理状態に自分で戸惑ってしまう。まるで頭の中を誰かにいじられているみたいで、気持ち悪いことこの上ない。
けど、今ここで転移の謎や自分の心理状態を考え出すときりがない。
生存本能が「ひとまず今の状況に対処するのが最優先事項」と訴えかけてくるので、とりあえず、転移の謎や自分の中の違和感については後で考えることにした。
とにかく、このままこんな場所にいたら死ぬ。
現代日本で生まれ育って、しかも晩年(?)は無気力なニートとして生きてたんだ。
こんな自然の中でのサバイバル術なんて何ひとつ知らない。食糧の探し方も水の探し方も火の起こし方も分からない。
それに、あのイメージで見たようなモンスターと出くわしたらその時点でゲームオーバーだ。
自分が生きたまま得体のしれない化け物にバリバリと食べられる光景をリアルに想像してしまったせいで冷や汗を顔に浮かべながら、人里を探すために立ち上がった。
目まいはもう治まっていた。
――――――――――――――――――――
「人里を探す」と言っても、どう行動すればいいかなんてまったく分からない。
見える範囲で街や村は見えないから、とりあえず人が通るような、人工的に整備された道でも探せばいいのかな?
とは言っても、ここは手入れも何もされてない野生の草原のど真ん中。草の丈は短いところでも30cm以上、長いところでは胸くらいまである。
こんな草だらけの場所で道があったとしても見えるとは思えない。移動しないと探しようがなさそうだ。
一瞬「誰かいませんか!」と大声で叫んでみようかと思ったけど、それで獣にでも見つかったら笑えないから止めた。
とにかく周りの状況をもっと知りたい。そのためにもなるべく高い視界を確保したいけど、辺りには登れそうな木の一本もない。
森の方に行けば高い木はたくさんあるけど、精神世界のイメージで見たような化け物がいたり、そうじゃなくても獣にでも出くわしたらおしまいだ。
森とは反対側の遠く離れたところに、小高い丘が見える。とりあえずそっちに進むのが最善だろう。
丘の上まで上ると、周囲の見通しはだいぶ良くなった。
今歩いてきた方向以外の3方向を見渡す。すると、歩いてきた方とはちょうど真逆の方向に丘を下った先に、草原の緑とは違う土色の線が通っているのが見えた。
(あれ道か?道だよね?)
やっと人間の気配を感じられるものが見つかって、思わず顔がほころぶ。
まだようやく道がひとつ見つかっただけだけど、道があるということは人の行き来があるということで、この近くで生活している人もいるのかもしれない。
少なくともここが無人の大地じゃないと分かっただけでも生きる望みが出てきた。
この丘に登るまでの疲れも忘れて、道に向かって歩きはじめる。もとの世界と同じく太陽が東から上って西に沈んでいくなら、あの道は北東の方向にあるみたいだ。
――――――――――――――――――――
たどり着いたのは、草を取り払って土を踏み固めたような道。幅は3mくらいか。
簡素な道だけど、雑草に浸食されたりすることもなくきれいに保たれているということは、きっと今も使っている人がいる道なんだろう。
さて、問題はこの道をどちらに進むか。丘の上から見た限りでは、この道のどちらの方向にも街や村は見えなかった。
日が沈むまであとどれくらいだろう。早く人里か、せめて安全に夜を越せる場所をを見つけないと、草原のど真ん中で無防備に夜を迎えることになってしまう。
下手をしたらこの選択で生きるか死ぬか決まるかもしれない、と思うと、そう簡単にはどちらに進むか決められない。
道は南東と北西の方向に伸びている。散々迷った挙句、運を天に任せて北西方向に歩いてみることにした。
それからは、ただひたすら歩く。少しずつ日が傾いていき、それでも人里が見えず、もしかしてこっちに進んだのは失敗だったかと焦り始めたとき……道の向こうから誰かがやって来た。しかも馬に乗って。
(人だ!)
まったく知らない世界でようやく自分以外の人間を見つけて、嬉しさのあまり迷わずそちらに走り出す。
まだ数百mは離れたところにいるみたいだけど、平地の一本道ということもあって、向こうもこちらに気づいたらしい。
速度を上げて走ってくる馬。
だんだん近づいてくるにつれて、馬上の人物が大柄な男性で、鎧や剣らしきもので武装していて、しかもかなり険しい表情をしているのが見えてきた。
こちらを睨みつけるような怖い顔と目が合って、走っていた僕の足が止まる。
(……あれ?もしかして襲われる?これって危ない状況?)
そうだ。よく考えたらこの世界の治安がどんなもので、相手がどんな立場の人間で、自分がどう見られてるかなんて分からない。
友好的に接してもらえる保証なんてない。遠目で見た感じだと金属鎧や兜を身に着けてちゃんとした騎士っぽく見えるけど、もしかしたら盗賊や暴漢の類かもしれない。
もしここが戦地や治安の悪い地域だったりしたら、いきなり敵と見なされて切り殺されてもおかしくない。
そうじゃなくても、変な服を着て荷物も持たずウロウロしてる奴なんて不審者扱いで捕まって、言い分も聞かれず処刑……なんてこともあり得る。
考えなしに僕の方から走って近づいたりして、なんて不用心だったんだろう。
(……怖い!)
やばい。つい数時間前も「このままじゃ野垂れ死ぬ」と思ってかなり怖かったけど、目の前に危険が迫ってきているこの状況の怖さはさっきの比じゃない。
一気に血の気が引いて顔が青ざめるのを感じながら、震えそうになる足をなんとか動かして後ろを向いて、騎士が迫ってくるのとは反対方向に駆け出す。
いきなりこんな命がけの追いかけっこをすることになるなんて。
こちらは徒歩で相手は馬だ。当たり前だけど、足で走っても逃げきれるわけがない。こんな見通しのいい一本道を走っていたらなおさらだ。
そう思って道を外れて、草原の方に踏み込んでいく。そのときに騎士の方を振り返ってみたけど、もう距離は50mもない。しかも何か叫んでる。
よく聞こえないが「待て」「止まれ」みたいな単語を怒鳴っているのは聞き取れた。異世界だけど言葉は通じるんだな。もう今はそれどころじゃないけど。
草をかき分けて草原を進みながら、周囲を見回す。しゃがめばなんとか隠れられそうな草むらもあるにはあるけど、今から隠れようとしたところであの騎士からは丸見えだろう。
駄目だ。もう無理だ。逃げられっこない。
ぐっと目を閉じて歯を食いしばる。あの剣で切り殺されるんだろうか、それともこのまま馬に踏み殺されるんだろうか。
馬が地面を蹴り上げる重低音が、後ろからどんどん近づいてくる。
音がすぐ後ろまで迫ってきて……そのまま僕の横を通りすぎて、少し先で止まった。
「待て!待ってくれ!危害は加えない!」
そう呼びかけられて目を開けると、さっきまで後ろに迫っていた騎士が僕の目の前に回り込んで、逃げる僕を制止するように進路を塞いでいた。
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