第53話 センパイの記憶
【美幽センパイ(吉岡美優)Side】
今日も学校には行けず、かといって家にもいられず、私は制服のまま稲荷神社にたどり着いた。
春の陽気に包まれて、空は見事に晴れわたっている。
けれども、私の心は少しも晴れなくて。
稲荷神社の境内は木々に囲まれているから日差しを避けられるし、人の気配もなくて私にはちょうどよかった。
私は古いお堂の前に立ち、いつものようにおじぎをし、手を合わせる。
「翠山女学院中等部三年D組三十番、吉岡美優です。どうか私をこの世界から消してください」
荒唐無稽な、けれども真剣な思いを胸のうちでくり返す。
そして、ふり返ろうとした時、
「どーんっ!」
「きゃっ!」
後ろから小さい子に元気いっぱい突撃され、両足を抱えこまれてしまった。
目線を下ろすと、旭ちゃんと目が合った。旭ちゃんはイシシ、といたずらっぽく笑っていた。
「もう、旭ちゃんたら」
稲荷神社の境内にある公園のような小さな敷地で、私は旭ちゃんの相手をしてあげたことがあった。
以来、すっかりなつかれて、これまで何度か一緒に遊んであげていた。
「あらあら。美優ちゃん、ごめんなさいね」
旭ちゃんのお母さんが遅れてやって来た。
おっとりとして、とても優しそうなお母さんだ。
旭ちゃんのお母さんは、私が学校に行かなくてもとがめない人だった。
もっとも、この制服を着ている時点で、どこの生徒か分かっているのかもしれないけど。
旭ちゃんはすべり台に上っては降り、降りては上ってをくり返して遊んでいた。
静かな境内に無邪気な笑い声をいっぱい響かせて。
私にもあんな時期があったのかな?
私はベンチに座った。旭ちゃんのお母さんもまた、私のとなりに腰を下ろした。
「今日もお休み?」
「はい。どうしても教室に足が向かなくて……」
開放的な外にいながら、教室を思うと暗い気分に胸がふさがる。
旭ちゃんのお母さんは、そう、とただ一度つぶやいたきり旭ちゃんへと目を移した。
きっと聞き上手なのだろう。
私を否定せず、ちゃんと受け入れてくれている感じが伝わってきて、つい気を許してなんでも話してしまう。
「薬子ちゃんがいじめに遭っていて……もう胸が張り裂けそうに辛いから……」
「先生には言った?」
「言いました。先生も動いてくれてはいるみたいですけど、あまり改善はされません。薬子ちゃんも学校を休むようになっちゃって……って、私も人のこと言えないんですけどね」
私は深いため息をついた。
「美優ちゃんでは薬子ちゃんを助けてあげられない?」
「助けようとはしましたよ。先生にも伝えましたし。……でも、薬子ちゃんから余計なことはしないでって……かえって迷惑がられて……」
言いながら、情けなくて目に涙がにじんでくる。
「私がよかれと思ってしたことが……もしかしたら薬子ちゃんをいちばん傷つけちゃったのかもしれないって気がついて……。そんな自分もたまらなくいやなんです」
私は袖で涙をぬぐい、憎らしいほど青い空を見上げた。
「みんなからは告げ口をしたと疎まれて、助けようとした薬子ちゃんからは拒絶されて……。私、もうあの教室に居場所はないから。ただただ、怖いんです。みんなのことも、自分自身のことも」
初めて本音をもらしたら、涙が止まらなくなってしまった。
旭ちゃんのお母さんは、みじめな私を包みこむように抱きすくめてくれた。
私はしばらく旭ちゃんのお母さんにしがみついて泣いた。
世界はどうしてこんなにも生きづらいのだろう?
大切な人が平気で傷つけられたり、心をすり減らしたりしていくところを、これ以上見たくない。
心が少しも痛まない身勝手な強者がルールとなり、心優しい弱者が痛めつけられていく。
そして、ある者は面白がり、ある者は流され、また見て見ぬふりをし、いつしかこの理不尽なルールを認め受け入れていく空気が出来上がっていく。
こんな毒気に満ちた灰色の世界の空気を吸っていたら、私の心まで荒んでしまう。
だから、こんな世界で息をひそめて下を向いて生きるくらいなら、いっそ消えてしまいたかった。
私が泣きながら語る言葉に、旭ちゃんのお母さんはずっと真剣に耳を傾けてくれていた。
そして、私をなだめるように優しい声で言った。
「美優ちゃんって、名前の通り、とても美しい心を持った優しい子ね。私は美優ちゃんが大好きよ」
「そんな……ありがとうございます」
私はもう自分のこともきらいになっていたから、優しい言葉がかえってむずがゆくて、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。
「美優ちゃん、そんなに一人で抱えこまないで。一人の人間にできることって、案外限られているものよ。もっと誰かを頼っていいのよ」
「そう言われても……」
先生だってあてにならないし、友だちは離れていくし、両親は仕事ずくめで、頼れる人なんて私にはいない。
突然、旭ちゃんのお母さんがごほ、ごほと咳きこんだ。
「大丈夫ですか?」
旭ちゃんのお母さんがどこか具合が悪いのは、なんとなく察していた。もしかしたら大病を患っているのかもしれない。
旭ちゃんのお母さんはゆっくり深呼吸をした。
そうして落ち着くと、私を安心させるように気丈に微笑んだ。
「実は、私も怖いの。もし、私の身になにかあったら、旭はどうなっちゃうんだろうって。旭の父親は仕事熱心だけど、とても不器用な人だから。私はたった一人の大切な娘すら守ってあげられないかもしれない」
お母さんのさみしそうな視線の先には、旭ちゃんの幼い笑顔がある。
旭ちゃんは私たちの視線に気づき、元気いっぱいに大手をふる。私は笑みを誘われ、小さく手をふり返した。
「美優ちゃん。もし、私に万が一のことがあったら、美優ちゃんを頼っていいかしら」
「私をですか?」
「ええ。時々でいいから、旭と遊んでやってほしい。あの子も美優ちゃんのことが大好きなの」
「分かりました」
私は快諾した。
世界は絶望的なほど残酷で、無力な私はいっそ消えてしまいたい衝動に駆られてしまう。
けれども、旭ちゃんとお母さんの世界は優しく、温かくて。
私にできることは限られていて、むしろできないことばかりで、助けたい友だちも助けられず、かえって傷つけてしまうけれど。
それでも、こんな私を頼ってくれるなら。
私は心温まるこの母娘の世界を守りたい。
優しい母親の愛情を映した旭ちゃんの笑顔だけは、ずっと守り通してあげたい。
「約束します。旭ちゃんだけは、どんなことがあっても絶対に守ります」
私は涙を拭いて立ち上がり、笑顔を作ると、旭ちゃんが遊ぶすべり台へと駆けていった……。
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