第1話 疎遠な実妹の涙

 今日の俺は、絶対に間が悪い。


 なぜかって? バイトが終わって帰宅したら、小凪こなぎが泣いているところを見つけてしまったからだ。


 今朝の占いで最下位と診断されたが、これはちょっと大当たりすぎませんかね。


 ため息をこぼし、見間違いではないかともう一度目をやる。


 俺の部屋の隣にある、妹の部屋。その扉が少し開いていて、隙間からはやはり、小凪の泣いている姿がうかがえた。


 錯覚でも幻覚でも妄想でも幻でもプロジェクションマッピングでもなんでもない。本物の小凪だ。


 さて、どうしたものか。いや、することは決まってるんだけどさ。


 フッと息を吐いて、自室の前に荷物を置き再び小凪の部屋の前に立つ。


 いつからか、小凪と疎遠になり相互不干渉という暗黙の了解ができた。もちろんそのことに異議はないが、しかし今回は例外である。


 長年、保護者代理として世話をしてきた身として、なにより兄として、泣いている妹を無視なんてできない。


 これで暴言吐かれて追い出されたらどうしよう……。


 胃がキリキリと痛むのを感じながら、わずかに開いた扉をノックする。


 途端に小凪の嗚咽が途切れた。



「………………なに?」


 それから少しして、平然を装ったような枯れた声が返ってきた。


 泣いていたのを隠そうとしたのだろうか。まぁぜんぶ見えていたから意味のないことだが。


 とりあえず返事が返ってきたことにホッとして、声をかける。


「大丈夫か? 泣いてたみたいだけど」


「……泣いてないし」


 誤魔化せてないぞ、と苦笑を漏らすと、「うっ、うっさい!」と怒鳴られた。


 しかし気が弱っているからだろうか、その声音にはぜんぜん迫力がない。


 やはりなにかあったのだろう。そう確信を得た俺は「部屋入ってもいいか」と尋ねる。


「は? フツーに嫌なんだけど」


「いや、いきなりガチトーンで返さないでくれる?」


 先ほどの弱りはどこへやら。身も凍えるような冷たい声音が返ってきた。


 お兄ちゃんちょっと怖くて泣きそうだよ。


「扉が開いてたから、見えてたんだよ」


「……」


 そう話すと、小凪は再び黙ってしまう。


 どうしたのだろうかと隙間から室内を覗いてみると──小凪と目が合った。


 やや赤く腫れており、涙痕るいこんもハッキリと見える。


「……ヘンタイ」


 低い声で罵倒を発した小凪は、ふいと顔を背けると、続けて「好きにすれば」とぶっきらぼうな口調で答えた。


 素直じゃないやつめ。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 なんとなく「しつれいしまーす」と口にしながら部屋に入ると、小凪は瞳をわずかにこちらへと向けて「一万円ね」と言った。


 入室後の申告とか、普通に詐欺じゃねぇか。


 そんな冗談に対して「家族割りってことで無料にならない?」と返すと、白い目を向けられてしまった。


 お兄ちゃん空気読んでボケただけなのに……。



 閑話休題。俺は床に座り(最初ベッドに腰かけようとしたら蹴り飛ばされた)、ベッド上で膝を抱え壁に背を預けている小凪へと視線を向ける。


 休日だし遊びに出ていたのだろうか。部屋着ではなくオシャレな服を着ているのだが、スカートが短い。


 どうでもいいけどパンツ見えそう。どうでもいいけど。



「それで、なにがあったんだよ」


 コホンと咳払いをしてから尋ねると、小凪はこちらに目を向けたあと、腕に顔をうずめた。


「遠慮ならしなくていいからな、兄妹なんだし。ほれ、お兄ちゃんに相談してみな?」


「……なにそれ。フツメンのくせに、なにかっこつけてるの?」


 おっといきなり切れ味のいい罵倒が飛んできたぞー?


 そりゃ小凪に比べれば普通だろうけど、お兄ちゃんだってちょっとは容姿いいんだぞ……ぐすっ。


 相変わらずの刺に涙を流しながらも、負けじと「いいから話してみろよ」とやや強引に押し切る。


 すると小凪は頬を膨らませて、そして口を開く。



「………………た」


「え? なんだって?」


「……カレ……に…………たの」


「カレーにあたったの?」


「カレシにフラれたの!!」


 断片的な言葉から答えを推測すると、バッと顔を上げた小凪が声を荒らげた。


 まぁそうだよな、カレーにあたって号泣するとかないよな。


 なるほどと納得しながら、俺は小凪の彼氏──もとい元カレの顔を思い浮かべる。


 軽薄そうな男だ、それが俺の抱いた第一印象だった。


 一見すると爽やかな好青年なのだが、どこか裏のある、ありていに言えばクズの臭いを感じたのだ。


 それは親父も同じだったようで、小凪の交際を猛反対している。


 そのせいで小凪VS親父の親子喧嘩が繰り広げられていて、家の中の空気が重い。


 別れたと聞かされて正直ホッとしたが、親父の耳に入ったら恐らく小凪は長い説教を受けるだろう。



「なぁ、小凪」


「……なに?」


「可能な範囲でいいんだが、どんな風にフラれたか教えてくれないか?」


 そう頼むと、キッと睨まれた。いや、わかるんだけどね。あまりきつく睨まれると、お兄ちゃん怖くて夜眠れない。


「……今日さ、急に『会えないか』って呼び出されて、行ったの。そしたらアイツ、別れようって」


「理由は、言われたのか?」


 小凪は静かにうなずく。


「つまんない、って」


「……は?」


 どういうことだろうか。そんな疑問が口から漏れる前に、小凪が続ける。


「ぜんぜんヤらせてくれないし、つまらないからって」


「……あの野郎、本当にクズだったとは」


 あまりの理由に、思わず本音が口から出てしまった。


 ダメだ、ため息が止まらない。


 元カレの予想通り、いやそれ以上のダメさ加減に、頭痛すら覚えた。


 まぁ、小凪がクズ野郎の毒牙にかからなかったと受け止めればまだマシか。


 そう自分を言い聞かせ、怒りに煮えたぎる感情を静める。


「別にあたしはアイツのことそこまで好きじゃなかったけど……なんかさ、向こうからコクってきて、それでなんとなく付き合ったら、今度はいきなりフラれて……あたしって惨めだなって思ったら、涙が止まらなくて……っ」


 ぽろぽろと涙をこぼし、声を上擦らせながら小凪はそう語る。


「あんなやつに振り回されて……あたし、なにやってんだろ…………」


 その声音は悲哀というよりは、どこか自嘲的な調子を孕んでいた。


 その姿はとても痛々しくて、弱々しくて。



「えっ?」


「ん? ……げっ」



 気づけば俺は、小凪の頭を撫でていた。


 昔はよくこうやってたな。今は手入れをしているからか、昔より触り心地がいいが。


 そんなちょっと気持ち悪い感想と懐古の念が浮かんだが、すぐになにをやってるんだと現状を理解して、咄嗟に手を離す。


 いくら相談に乗っている最中と言えど、さすがにこれはボディブロー案件だ。


 せめて受け身だけでも! 目を閉じて身構えたが、いつまで経っても衝撃は襲ってこなかった。


「なにやってんの?」


 代わりに小凪の冷眼が送られた。今度は俺が泣きそう。


「い、いや」


 コホンと咳払いをして、床に座り直す。


 おかしい。いつもなら(と言えるほど小凪と関わっていなかったが)あんなことをすれば容赦なく殲滅の妹ブロー(俺命名)が繰り出されるのに。


 やはり傷心だからなのか? ……わけがわからん。


 そう頭を悩ませていると、小凪が体勢を崩して四つん這いになり、腕を伸ばしてきた。


 そして潤んだ瞳をこちらに向け、俺の上着の袖をクイと引っ張る。



「もう少し、だけ……お願い」


「っ……! お、おう」



 なにが起きてるんだと胸中で繰り返しながら、俺は妹様のご要望通りナデナデを再開した。


 今日の小凪は、やはりどこかおかしい。


 そんな違和感を胸に秘め、ただ静かに、小凪を慰めることに努めた。




 それから少しして、急に赤面した小凪に部屋を追い出され、兄妹の久しいコミュニケーションは幕を閉じた。


 結局、小凪のらしくない行動の理由はわからなかったが、最後に見た小凪の顔色はよくなっていたので、兄の務めは果たせただろう。


 ふぅ、と安堵にため息をこぼし、閉じられた扉に目をやる。


 久々に小凪と話したが、楽しかったな。


 もちろん慰めるのがおもであったが、これまで不干渉でいたためどこか感慨深いものがある。なに言ってんだ俺は。


「……っ、はぁあああ」


 少し深いため息が漏れる。


 少し寂しいが、明日からはまた今まで通り疎遠な兄妹になるのだろう。




 ──このときの俺は、そう思っていた。

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