(7)

 久しぶりに娘と食事をするのだから少しはましな店にしたかったが、俺も千秋も仕事帰りだ。格好もラフだし店には長居できないから大衆居酒屋で手を打つしかない。入店した時にはもう午後九時近くになっていて、店は大勢のおっさんたちで賑わっていた。仕事帰りに一杯と言っても、この時間から先は腰を据えて飲む人ばかりだ。すっかり出来上がった連中が、酒臭い息を吐き散らしながら陽気に騒いでいる。

 落ち着いて飲めるワインバーとかならともかく、こういう中年リーマン御用達のがさがさした大衆居酒屋を好む若い女性は皆無といっていい。紛うことなき男の世界……いやおっさんの楽園だからな。その中にあって、千秋は何食わぬ顔でグラスビールを傾けている。喜んでいるとは思えないが、もっとましな店はないのかと嫌悪感丸出しでぶすくれている風でもない。


「パパ、それだけしか飲まないの?」


 そう言って、千秋が俺の中ジョッキを指さした。俺は最初にちょっと口をつけただけ。よく冷えたビールに蓋をしていた豊かな泡は、もう潰れかけていた。


「明日は朝が早いんだ。本当に軽くしか飲めん」

「ふうん。それなら生中にしないで、わたしと同じグラスビールにしとけばよかったのに」

「ははは。癖でな。つい生中を頼んじまうんだよ」


 仕事に差し障りがなければ一杯もう一杯と行きたいところだが、明日は早出して店長の手伝いをしなければならない。千秋も仕事だろう。二人揃って軽く引っ掛けて終わりにせざるを得ない。肴も腹に溜まるものを頼み、親子で盃を傾けるというより夕飯を食うという体勢に入った。こういう時は、細かいことをぐだぐだ言わないさばけた娘で助かる。おっと。酒の勢いに紛れないうちに感想を聞いておこう。


「千秋、どうだった?」

「あの店? パパのこと?」

「俺のことはどうでもいいよ。店」

「場末って言ってたけど、すっごい活気あるじゃん。パパだけじゃなくて、店の人がみんなしゃきしゃきしてて。がんばってる感、はんぱなかった」

「ははは。確かにな」


 俺たちはみんながんばってるさ。だが、場末の店には共通した難点がある。店舗や設備が古いと、それだけでやる気がないように見えてしまうということ。スタッフが少々がんばっているくらいでは、「がんばっている」風に見えないんだ。本当にがんばるつもりがあるならきれいに改装したらいいのにという意見はお説ごもっともで、店長ももし改装できるならそうしたいだろう。

 だが、改装することで今まで以上に集客できるかというと、そこにはべったり疑問符がつく。目新しさだけで客を呼ぶ、いわゆる新装開店効果が期待できるのは最初のうちだけだからだ。店の存在意義をきちんと客に提示できなければ、結局客足はじり貧になる。それじゃ投資の元が取れない。そして先行投資の失敗は、細々と営業を続けている中小のスーパーにとっては致命傷だ。

 先の見えない博打に出たところで勝ち目は少ない。だが、古臭さを引きずって営業を続ける限界はどこかで来る。まさに八方塞がり。だからこそ、店長の両親は白旗をあげてしまったんだろう。


 店長は自らが強風となり、店内に漂っていた停滞感や閉塞感を一気に吹き払った。商品の回転速度、スタッフの利用効率を上げ、諦めにも似た淀んだ空気を活気に変えてみせた。千秋が店で感じ取った「がんばっている空気」は、店長の姿勢そのものなんだ。スタッフは、誰もが店長の姿勢を見習って限界近くまで「がんばっている」。もちろん俺もそうだ。

 ただ……がんばっているのは、足を止めた途端に倒れるからなんだ。店長がその恐怖を一番よく知っていて、だからこそ脇目も振らずにがんばっている。それを見て、俺たちもまた同じ恐怖に囚われ、がんばってしまう。さのやにおいては、がんばることの功罪がまだきちんとバランスしてないんだよな。


 俺の浮かない顔を見て、千秋が首を傾げた。


「あの店、何か問題があるの?」

「ないよ。俺はついてる。再就職先がすぐ見つかっただけじゃなくて、そこがすごくいい職場だったからな」

「へえー」

「店長は行動でみんなを引っ張るタイプ。エネルギッシュで頼り甲斐がある。スタッフは、プライドを持って働いてる人ばかりだ。スタッフ間のコミュニケーションはきちんと取れてるし、みんなまじめできびきび動く。今のところ、売り上げも上々だと思う。給料はちょぼちょぼだけど、俺にとっては勤務環境の方がずっと大事だから特に不満はない」

「ふうん」

「ただ。そういういいムードは、みんながこれでもかとがんばってるから実現しているんだよね」

「え?」


 千秋にとっては意外な言葉だったんだろう。きゅっと眉をひそめた。


「どういうこと?」

「全速力で走っている間は、周囲を見る余裕がないんだよ。でもランナーにとって流れ去る景色にしか見えないところにこそ、大事なものが隠れてるんだ」

「……」

「たとえばな」

「うん」

「俺は辞めるという形で止まってしまったから、自分の失敗を正視できた……いや違うな。正視せざるを得なくなった」

「正視、かあ」

「もちろん、それがいいかどうかは人によって違うと思う。正視して、突きつけられた厳しい現実に耐えられなくなって、もっとひどく崩れてしまう人は大勢いるから」

「うん」

「ただ、俺は。美春と別れ、おまえが独立して家を出たことで、家庭という枠から一度解き放たれた。俺を抱きしめてくれる者を失った代わりに、俺の鼻をひっ掴んで強引に振り回す狼藉者もいなくなったわけさ」


 えげつないたとえに一瞬苦笑した千秋が、すぐに真顔に戻った。


「それで?」

「勤め人として安定した給料をもらえる安心感と、それに随伴する拘束感やどうしようもない気ぜわしさ。家庭という居心地のいい住処と、夫や父親として果たさなければならない重責。自分が社や家庭の中にどっぷり浸っている間は、そういうことを一々考えないんだよ」


 千秋のやいばのように鋭い視線が、容赦なく突き刺さる。


「当たり前のように思っていることの本当の意味は、足を止めないと考えられない。それが……身にしみてわかったんだ」

「そうか。さっきのがんばってるっていう話は、そこにつながるのね」

「ああ。店長を筆頭に、みんなものすごくがんばってる。でも全力で走り続けてる間には、どうしても見えないものがあるんだよ。一度止まってしまった俺に今見えている危機。がんばってる店長やスタッフは、それに気づいてるだろうか。俺は……すごく心配なんだ」


 俺の目をじっと見続けていた千秋が、ふっと表情を緩めた。


「パパ、変わったね」

「そうか?」

「うん。なんていうか……」


 ぬるくなってしまったビールにちょっとだけ口をつけて。千秋がぐいっと背筋を伸ばした。


「人間臭くなった」

「ははは。まあ、ほんの少しだけ余裕ができたかもしれない」

「なんの?」

「自分以外のものを見る余裕さ。おまえも、なんかあったんだろ? 友達のこととは別に」


 口に含んでいたビールをぷっと吹き出しげほげほむせた千秋が、涙目で俺を睨む。


「ちょっとは間を置いてよ。いきなりはなし!」

「時間がありゃあな。悪いが、俺もまだ正直いっぱいいっぱいなんだ」

「それもそうかー」


 一転して難しい顔になった千秋は、顔を伏せてぼそっと白状した。


「仕事。辞めた。今日までだったの」


 なんとなく予想はしていた。電話では友達のせいにしていたが、実際には仕事にふられたんじゃないかな、と。


「上とぶつかったんだろ?」

「上っていうほどじゃないけど。店長と」

「ふうん。ショップで仕事始めた頃にはえらい高評価してたのに」

「まあねー」


 そのあと千秋が真正直に話したのは、どこにでもあることながら、千秋でなくても納得しないであろう事情だった。

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