(5)
千秋から電話が来た翌日。さのやの生花コーナーは、何事もなかったかのようにポインセチアで埋まっていた。
「さすがだなあ……」
誰よりも早く店に来て、隅々までチェックする店長のことだ。傷んだ花を下げたスペースを空けておくのはもったいないと考えたんだろう。クリスマス本番までにはまだ間があるし、新しいのを置けばそこそこさばける。最初のやつと同じものをもうワンロット入れてあったとみた。
前のと同じで葉量と鉢サイズのバランスが悪いから、どうしても水をやりたくなる。だが、一度失敗している田村さんが同じ失敗を繰り返すことはないはずだ。
「おはようございます」
田村さんの声が聞こえて、振り返る。新たに並べられたポインセチアの鉢を見て、田村さんが申し訳なさそうに顔を伏せた。
「なんか……済みません」
「ああ、これは店長のこだわりですよ。田村さんとは関係ないと思う」
「こだわり、ですか?」
「そう」
並べられた鉢の土を触って、湿り具合を確かめる。今度入荷したのは土がしっかり乾いているから、最初に水をやっておいた方がいいだろう。
「水やりしといた方がいいかな。置き場所によっても乾き具合が違うから、一日に一回は必ず様子を見てあげてください」
「はい!」
田村さんが花コーナーの隅に置かれたプラスチック製のジョウロに水を入れ、鉢に注ごうとした。それを一度制止する。
「あ、ちょっと待って。前もそうやってました?」
「はい」
「園芸的には鉢底から水が出るまでたっぷりやる、が正解なんです。でもね」
「ええ」
「そうすると、こいつを買おうとしたお客さんが底から出た水を服や商品にこぼす心配があるんです」
「あっ!」
慌ててジョウロを床に置いた田村さんが、呆然と鉢を見回した。
「わたし、どうしたら……」
手本を見せよう。手近にあった鉢を持ち上げ、ポリ包装を外して空のバケツの上に持っていく。土の上に静かに水を注ぎ、葉や茎には水をかけない。鉢底からぽたぽた水が出始めたのを確かめて何度か鉢を振り、余分な水をしっかり落としたあと雑巾で丁寧に鉢底を拭く。最後に鉢をポリ包装の中に戻す。
「げ……」
水やりにこんなに手間がかかると思っていなかったんだろう。田村さんが青くなった。
「園芸店なら上からざあっとやるだけ。でもスーパーじゃそうはいきません。すごくめんどくさいんです。だから、みんなここのコーナーを持つのは嫌がるんですよ」
「知らなかったです」
「開店前でそんなに時間がないから、今日は私がやっときます。続きは、また昼休みの時にでも」
「はい……」
店長は、パートさんが来ると最初にここを任せる。俺もそうだった。花ものの扱いを通して、店で働く適性があるかどうかを確かめるんだ。そして、試験で真っ先に試されたのは店長自身。それは、店長の苦い経験から生まれた診断法なんだろう。
◇ ◇ ◇
「おやあ?」
いつもなら店内をひっきりなしに歩き回っているはずの店長の姿がない。店長は、定休日にまで出て来て店内をチェックするんだ。店で姿を見ない日は数えるくらいしかない。用があって不在にする時も、スタッフには必ず事前連絡する。いきなりっていうのは、俺がここで働きだしてから初めてだ。
商品の発注や納品は予定通りに動いているから、その点の不安はないんだけど……どうもしっくり来ない。
俺の感じた不安を、他のスタッフも同様に感じているんだろう。スタッフの誰もがそわそわと落ち着かない。俺は持ち場の在庫チェックを終えたところで、一旦事務室に引っ込んだ。事務の
ノリさんはさのやの金庫番で、スタッフの中の最長老。もう還暦間近だ。普通の企業なら花束もらってご苦労さんのお年なんだろうけど、さのやはノリさんの事務能力に全依存している。店長はノリさんが自分から辞めたいと言わない限り、絶対に離さないだろう。当然、他のスタッフが知らない店長の予定やプライベートも、ノリさんだけは把握しているはずだ。
「ノリさん、店長は今日どうしたんですか?」
しぶい顔をしたノリさんが、無理やりに笑った。
「急なんだけど、仕事関係で大事な人と会って話をしないとならんのだとさ。午後から来る」
そうか。丸一日の休みでないというのを聞いて、安心と不安が同時にせり上がってくる。俺の顔をちらっと見たノリさんが、左手をひょいと持ち上げてオーケーサインを出した。いや……違うな。それはゼニカネの符丁だ。
「ヤバい……んですか?」
「わからん」
ノリさんが、ごま塩頭を忌々しげに振る。
「少なくとも俺の把握している範囲内では、急激な資金ショートはないと思う。店長は本当によくやってるよ。俺ならとっくの昔にギブアップだ」
「そうですか……」
「だからこそ、突然休んで人と会うってのが気持ち悪くてしょうがない」
「ですよね」
でも重鎮のノリさんにすら手を出せないことに、俺が首をつっこめるはずもない。俺は、他のスタッフに「店長は午後から来る」と伝えて安心させるくらいしかできない。
「ふうっ……」
◇ ◇ ◇
今日は特売が限定的だったこともあって、客の入りが悪い。店長もいないし、早めの昼飯にすることにした。半日使えなかった店長は、午後からエンジン全開になるだろう。田村さんにそう伝えて、少し早い昼飯を食いながら朝の話の続きをする。
「田村さんは、店長がなぜ入り口の生花コーナーを撤廃しないのか、考えたことあります?」
「いいえ」
「花ものは利益率はいいけど、そもそもそんなに売れない。場所を食うし、世話の手間もかかるから、あまり扱うメリットがないはずなんです」
「確かに」
「でもね、花を置くことを決めたのは、店長のご両親ではなく、今の店長なんですよ」
「えっ?」
売り上げ至上主義、コスパ第一主義の店長が、なぜ?
田村さんは、あまりの意外さに絶句していた。
「知らなかったです」
「だよね。私もすごく意外だったんです。で、私がここで勤め始めたばかりの時に田村さんと同じ失敗をして、店長に言われたんですよ。ああ、あんたもやらかしたかあって」
「えええっ? 横井さんも失敗したんですか?」
「そりゃそうですよー。私は転職組で、ここに来る前はコンピューターのディスプレイとにらめっこするのが仕事だったから。店員としての知識とかノウハウとか、なにも持ってなかったんです。花なんか触ったこともなかった。論外ですよ」
店長と花の組み合わせ以上に意外だったんだろう。田村さんが驚愕の表情で俺を見ている。
「そして。門外漢だったのは店長も同じみたいです。花の扱いをしくじった第一号は、店長自身だったということですね。だから私に、やっぱりやらかしたかって言ったんです」
田村さんの中では、店長がさのやの中で生まれ育った完全無欠の店員というイメージだったのかもしれない。どうしても信じられないとでもいうように、弱々しく頭を振った。
「本当ですか?」
「店長に直接聞いてみたら?」
「うう」
「でも私がどじった時に、店長から花を置くことにした動機を聞かされてすごく納得したんです」
田村さんが、ぐっと身を乗り出した。
「どんな話をされたんですか?」
「花は商品の変化が一目でわかる。一切管理の手を抜けない。だから花を入れて、一番目につく場所に置くことにした」
「あっ!!」
箸を握りしめたまま勢いよく立ち上がる田村さん。リアクションの大きさが微笑ましい。ははは。
「そうだったんですか! 納得です!」
「でしょう?」
俺もその時に全力で納得したんだ。利用者として商品を見ている時、売る側として商品を見ている時。その間には天と地ほどの差がある。買う側は、商品が完品、美品、良品なのが当たり前で、そうでなければ買わない。だが売る側からしてみれば、少々の瑕疵は許容してほしいという意識がどこかにある。
さのやを継ぐまでずっと消費者側だった店長は、売り手に回った途端に消費者視点を失うのが心配だったんだろう。だから、商品管理の難しい花を一番目立つところに置いて自戒することにしたんだ。
それでも。花という生き物は、人間の勝手な都合や思い込みを汲み取ってはくれない。店長は当初、仕入れた鉢花を度々だめにしていたそうだ。それを苦い薬に換えて、商品管理の鬼になっていったんだろう。
「商品は単なる物体じゃなく、生き物。私も店長と同じで、くたくたにしてしまったポインセチアを見て自分の甘さを思い知ったんです」
「そうか……」
一転して、田村さんがくしゅんとしょぼくれた。
「商品の性質を知って、適切に扱うこと。在庫管理をきっちりやる意味は、単に利益率を上げるためってことじゃなかったんです。小売りっていう商売をするなら、ただ右から左は絶対だめだよ。売り主は売り物に責任を持ちなさい。そういうことだったんですね。最初に大事な勉強をさせてもらいました」
「すごいですね」
「ええ。それから、私の中の店長のイメージが変わりました。とても厳しい人だから、最初はパワハラ系の人かと思ったんですけどね。自他に分け隔てなく厳しいんだなあと」
「そうだったんですか……」
要求される仕事量だけを見れば、それはあからさまなパワハラと取られても仕方がない。でもさのやで店長以上に仕事をさばける人は、事実として誰もいないんだ。
当然、店長のパワーについていけない人はさのやでは働けない。店長が露骨に吊るし上げなくたって、勝手に脱落していってしまう。逆に、ここで長く働いてる人は店長のポリシーとその重要性をよく理解してる。我慢して働いてる人は誰もいないんだよね。俺も含めて。ただ……。
「あの、どうしたんですか?」
突然顔をしかめた俺を見て、田村さんが慌てて確かめる。
「大丈夫かなと思ってね」
「わたしが、ですか?」
「いや……店長が」
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