第24話 母という壁







会社の祝賀会を抜け出てきた僕は、美鈴さんの部屋に泊まった。翌朝、僕たちは美鈴さんの作ったハムと目玉焼き、それからトーストした食パンを食べて、ささやかな朝を過ごした。窓のカーテンは開け放されて、さっきまで僕たちが眠っていたベッドのシーツを日光が白く照らし、窓に背を向けていた美鈴さんの輪郭がふんわりと輝いていたのを、僕は見た。


彼女はお皿を洗い、僕がそれを拭いた。後片付けが済んだあと、美鈴さんが食後の紅茶を淹れてくれた。僕は穏やかに流れていく朝に、「毎日これが続けばいい」と、そう思った。


いつまでも輝きの褪せない瞳を持つ彼女と、彼女のひたむきな僕への愛と、いつも一緒に居られるなら、僕はなんだってしよう。だから、プロポーズをした。



彼女は静かに紅茶を飲んで、わずかに微笑んでいた。細い指がマグカップを少し重たそうに持ち上げて、ゆっくりと唇へ紅茶を流し込む。


「美鈴さん」


僕は見つめた。彼女の瞳と、流れる柔らかな髪と、小さな体、それから、彼女の愛情深い胸の中を。彼女は顔を上げ、何も言わずに僕を見つめ返しているだけだった。もしかしたら、僕が何を言うのかもう知っていたのかもしれない。でも彼女は、期待に胸を沸かせている表情ではなく、言葉を挟む必要を感じていないだけのように、黙って僕の次の言葉を待っていた。


「結婚してください」


僕は、そう言って彼女の返事を待っていた。でも、不安はなく、反対に静かな喜びだけがあって、それは凪いだ海のように、大きく深いものだった。


「はい」





僕たちはその後、話し合いをした。僕は自分の両親のことが不安材料だったけど、なんとか押し通すからと言った。


「…僕の両親は、この結婚を「いい」とは言わないと思う。でも僕の気持ちが動かしようがないものだと知れば、なんとか諦めるかもしれない。それでもダメだった場合は…僕は両親に見切りをつけると思う。家から離れてしまうしか方法はない。もしかしたら、君に苦労を掛けてしまうかもしれない…でも、僕はいつも努力するよ」


「うん、わかってる…」


「両親には、今度、二人が揃う時に話そうと思ってる。許しがもらえても、もらえなくても、僕は君のお母さんに会いに行って、お話をさせてほしい」


「うん…」


彼女はそれを聞いて頷き、幸せそうに、そしてわずかに不安そうに微笑んだ。僕は彼女を抱きしめてから、家に帰った。





朝早くに帰宅してから出社するために着替えをしていると、母さんが僕の部屋のドアを叩いた。僕が「はい」と返事をすると、まだ寝巻きの上にガウンを羽織っただけの母さんが、何か思惑ありげに微笑みながら、僕に近寄る。


「あら、着替えをしていたのね、ごめんなさい」


母さんはちょっと恥ずかしがるような素振りはしたけど、平気で部屋に入ってきた。その時僕のベッドの上には、昨日のホテルで行われた祝賀会でクロークに預けていた鞄と、昨日着ていた紺色のスーツの上下が放ってあった。そして僕は、今日着るスーツのスラックスを履き、上はインナーを着ただけの姿だった。


「まあまあ、夜遊びをしてきたのね?次期社長さん」


母さんはちょっと僕をとがめるような、また、甘やかすような顔で上目がちに僕を見上げる。


「はい、まあ…すみません」


長年の習慣で僕は謝ってしまったけど、よく考えたら僕はもう二十四歳を過ぎているんだから、これしきのことで謝るいわれはないような気もした。母さんは僕の肩に両手を置き、それから僕を見つめてこう言う。


「そんなことをしていて悪い虫がつく前に、いい話があるのよ。あなたもきっと承知してくれると思うわ」


母さんはずっとにまにまと笑っている。僕は、母さんの心配性と、それから時代遅れの考え方に、また少しうんざりとした。それも気づかないで母さんはもったいぶって少しの間黙っていた。


「いい話ってなんですか?」


僕は何気なくやんわりと母さんの腕を肩からどけて、ちょっと母さんから体を逸らす。着替えをしていたことも思い出したので、ワイシャツを手に取って、それに袖を通そうとした。


母さんはふふふと笑って、ガウンのポケットから一枚の写真らしき紙を取り出す。


「馨。この方、どう思う?」


そう言って母さんは写真を僕に見せた。それは、女性がこちらに向かって控えめに微笑んでいる写真だった。僕はすぐに見合い写真みたいなものだとわかったので、目を逸らしてワイシャツを着てしまって、「そんなもの、必要ないですよ。母さん」と、ちょっと突っ返すように言った。


予想通り、母さんはすぐに引き下がったりしなかった。ちょっと僕から離れはしたけど、母さんは話を続ける。


「そりゃあ、最初は戸惑うのはわかるわ。でも、お会いして、お話してみれば気も変わるかもしれないわよ。だから一度会ってみて、残念ながら良くないようだとわかれば、まだまだあなたに見合う方はたくさんいますもの」


僕はその言葉を聴きながら、「もしかしたら、父さんより母さんの方が説得が難しいかもしれない」と思っていた。でも僕は、母さんに形だけ合わせるのをいつまでも続けているわけにはいかない。早く母さんの目を美鈴さんに向けさせないと、母さんは僕が言うことを聞いていることに安心し切って、あらぬ方向に僕の人生を曲げようとするのをやめないだろう。


それにしても、「少し意外だな」、とも思った。美鈴さんの話は、もう父さんに話してあった。どこの誰とは言わなかったけど、「もう相手が居る」という話はしたはずだ。それを父さんが母さんに伝えなかったのは、意外だ。


でも、もしかしたら、「自分から話を通すのが当たり前で、告げ口のようなことは野暮だ」と、父さんは考えたのかもしれない。男らしく、義理堅い面のある父さんらしいと思った。そう思って少し父さんに感謝し、僕はベッドに置いたスーツのジャケットを手に取る前に、母さんに首だけ向けて、口を開く。



「母さん、無駄ですよ。僕にはもう相手が居ます。だから、その人に会ってくれませんか」



母さんはひどく驚いて、しばらく口をぽかんと開けて突っ立っていた。僕はもう着替えを済ませて家を出なければいけないし、これ以上長く話し込んでいる時間もない。だから、「考えておいてください。それでは、行ってきます」とだけ言って、自分の部屋を後にした。





その日は仕事が少し憂鬱だった。もちろん、家に帰れば母さんから質問責めに遭うだろうし、それからすぐさま僕たち二人の関係を否定されるだろう。だから、僕はなかなか仕事に身が入らず、かと言って何かミスのできる立場ではないので慎重に仕事をして、母さんの取り乱す姿を思い浮かべながら過ごした。





家に帰ると、僕が玄関を通って自室に向かおうと一階の廊下を歩いている途中で、居間の扉が開いて中から母さんが飛び出してきた。母さんは僕の帰宅が待ち遠しかったので嬉しいのか、それとも何かが不安なのか、そんなような笑顔をしていた。


「早かったのね、馨。おかえりなさい。それでね、お食事のあとでお話があるのよ。今朝のお話が終わってないでしょう?」


母さんは、今すぐにも僕を説き伏せたいのを我慢しているように、体をちょっと揺らしながら僕を見つめていた。僕は長年の勘で、「長丁場になるかもしれない」と思って気が重かったけど、すぐに「わかりました、食事のあとで居間で話しましょう」と返事をして、自室に向かった。



今晩の食事はホットサラダとスープ、小さめのビーフステーキ、付け合わせのいんげんと、それから少量のお米だった。僕は食が細いのでお米は少なめにしてほしいと、何年も掛けてやっと公原さんを説得して、最近やっとそれを聞き入れてもらえたので、食事の時間は楽しくなった。でも、今晩は気鬱になる大きな問題があったので、いつも通りに楠さんの見事な料理の腕前に唸る余裕もない。目の前では、母さんが音もなくきちんきちんと食事をしながら、僕をちらちらと見ている。その目は厳しい影を必死に隠そうと、ひきつりながら微笑んでいた。




おなかがいっぱいになったからか、僕は少し眠かったけど、「ごちそうさまでした」と言って、食器を下げている山田さんを後目に、母さんと二人で居間に向かった。




居間に置いてある五つのソファのうち、ドアの近くの一人掛けのソファに僕が、そしてテーブルを挟んで向い合せになった四人掛けのソファの真ん中に、母さんが座った。母さんは僕に向かって体を屈め、足をきちんと閉じて膝に肘をついていた。母さんは、部屋着にしている長い裾と幅の広い袖の、白いワンピースを着ている。母さんの膝から床に向かってすとんとスカートが落ちていた。僕はうつむいてそれを見ている。しばらくすると、母さんが頼んでおいたのか、公原さんがティーセットを持って現れた。


「失礼致します、お茶をお持ち致しました」


公原さんはそう言って、僕と母さんの間にあるテーブルにティーセットを置く。それは母さんの好きなアンティークのティーポットとカップのセットで、ソーサーもカップも小さくて装飾が施してあり、薔薇が描かれていた。公原さんが紅茶をそのカップに注いでくれた。


「ありがとう」


母さんは満足そうに公原さんを眺めていたけど、僕は顔を上げる気になれなかった。


「それではまた、御用の時に」


そう言って公原さんが僕たちに背を向けると、母さんは身を屈めたままでティーカップを手に取り、ひと口飲んで「うん、美味しいわ」とわざとらしく言った。



おそらく母さんは、場を和ませて楽しいお喋りかのように喋り続け、僕がその空気を壊すことを戸惑っている間に、話を終わらせてしまうつもりに違いない。でも、今の僕にはそんな戸惑いはなかった。だから、僕からまず最初に話を始める。僕はまだお茶には手をつけていなかった。



「母さん、僕は自由に結婚相手を選ぶことすら許されないのですか」



僕は当たり前ではない家に生まれたことくらい、わかっていた。でも、まさかこのことすらその事情に巻き込まれて消えてしまうくらいなら、僕はこの家に見切りをつける。それを母さんに突きつけるつもりだった。


「まあ!そんなことないわ!でも、もう少し、ね。もう少しあなたのお相手の女性のお話をしてちょうだい。そうじゃないと母さんは不安だもの。どんな方なの?」


母さんは興味深げな顔は作っていたけど、その目は慎重に細められ、母さんのお眼鏡に適うかどうかを見定めようとしているのは明らかだった。僕は、多分母さんを満足させるのは無理だろうなと思いながら、ちょっとの間だけ考える。



もちろん、美鈴さんは僕にとってなんの不足もない、むしろなくてはならない存在だ。でもそのことは、「子供になんとかして一番いい相手を探してやりたい」と思っている、今の母さんにはわからない。それに、誰だっていくらでも文句のつけようがある。つまりは、母さんが「選んであげた」相手でなければ、母さんは安心してくれないのだ。そう考えながら、それでも僕はなんとかして、自分の気持ちが揺るがないんだということを伝えようと、言葉を選んだ。


「僕にとても優しくて、いつも僕の喜ぶことを考えてくれます…。それに、とても聡明で、今は、研究者になるため、僕の出身校の大学院で学んでいます…。彼女があの大学に入ったのは、講師として勤務している教授の著書を、十二歳の時に読んだからだそうですが…哲学書です。並外れて頭脳明晰なんですよ。僕も敵いません。あの時、首席での入学ができなかったのは、トップが彼女だったからでした…。それから、料理が上手で、背は小さく小柄で愛らしく…とても心が豊かで、涙もろく、それでも僕に二年半も会えなかった間も、じっと待ってくれているほど、情の厚い人です…だから僕は、彼女を選びます」


僕はいろんなことを思い返しながら、目の前に彼女の笑顔や、泣かせてしまった時の悲しそうな顔、僕に会った時の嬉しそうな顔を浮かべて、喋っていた。そして終わってから母さんを見ると、案の定、母さんの表情はどこか訝しげで、肘をついて紅茶のカップを片頬に寄せたまま、ほんの少し眉を寄せて僕を見ていた。そして下を向いて唇を突き出し、二、三度つまらなそうに頷いてからこう言った。


「じゃあ、彼女の専攻は哲学なのかしら?哲学者になるのが夢なの?」


あからさまにそれを軽蔑しているのがわかるような、そんな母さんの少し意地悪に不思議がるような顔に、僕は一瞬、「こんな人が僕の母親なのか」と、僕自身が母さんを軽蔑しかけた。でも、この人に頷いてもらえなければ、美鈴さんが苦労するんだと思ってぐっと堪え、先の話を続ける。


「ええ、そうです。彼女にはそれができます」


僕は自信を持ってきっぱりとそう言ったのに、母さんはこのことには大して興味も持っていなかったように、またつまらなそうに頷く。


「それで?研究者として忙しく働く彼女は、あなたに何をしてあげられるのかしら?会社から帰ってきたら疲れを慰めて、あなたを毎日支えてあげられるのかしら?」


僕はぐっと言葉に詰まったけど、恐れる必要はないのはわかっていた。僕は彼女が自分の思うように生きていけるのを見守って、彼女の輝く世界を支えていられれば満足なのだから。


「…母さん、人にはそれぞれ必要とするものが違うんです。確かに父さんには、母さんが毎晩話し相手になってあげたり、微笑みをくれたりすることが必要だったかもしれません。でも僕は、自分の人生ばかりが結婚ではないことくらいわかっています。僕は彼女が幸せになるのが見たいだけなんです。彼女はそのために僕が必要だということを伝えてくれました。それで結婚することの、何がいけないんですか?」


母さんは僕の前に片手を差し出して首を振る。


「馨。あなたは結婚のことなんか何もわかっていないわ。結婚生活はね、生活がまったく噛み合わなければすれ違っていくのが当たり前なの。だから、残念だけどその人のことは諦めなさい。これは先輩である母さんからの警告です。上手くいくはずないのよ、そんな人じゃ…」


母さんはそう言ってゆっくり首を振りながらため息を吐く。そして、もう話は済んだように、ゆっくりとお茶を飲んだ。僕はそこで身を乗り出す。


「母さん!聞いて下さい!僕にはあの人が必要なんです!もし母さんがよしとしてくれないなら…僕は…」


母さんは僕が喋り終える前に、僕をきっと睨みつけて紅茶のカップをかたんとソーサーに置き、背筋を伸ばした。


「今晩から、夜に帰ってきたら、公原にあなたを見張るよう言いつけます。子供の立場で勝手をするのを防ぐために」


「母さん…」



信じられなかった。母さんがそんなことを思いつくなんて。そうまでして、ただ「言うことを聞く」ことを、僕に望んでいるんだ。


僕は目の前が真っ暗になるような気持ちで、目の前にある、冷めてしまった紅茶のカップが滲んでいくのを見ていた。







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