第23話 君の元へ







うちの会社に共同経営を持ち掛けてくれた会社の令嬢、華蓮さんからは、「あなたが勇気を出して縁談をぶち壊して、自分で会社を立て直して見せるしか道はない」と励まされた。それは意外なことだったけど、今方法があるとするなら、確かにそれしかない。でも僕は、こんな状況で美鈴さんのことを両親にはとても言えないと思った。むしろ、今が一番引き離されやすい状態なはずだ。


僕はまず、華蓮さんが自分のご両親に「次のお話でまたもう少し話してから結婚のことを考えたい」と言ってくれている間に、銀行に融資をもう一度頼めないかと思った。父さんをそれとなく説得し、今度は僕と父さんで、銀行を訪問した。


これは失敗した。もちろん、現状が数字として変わらなければ、彼らはうんとは言ってくれない人たちだ。でも僕はその席で出し抜けに、「次には事業の見直しの案を提出する」と銀行側の役員に告げた。僕の隣に居た父さんは、驚いて僕に目を見張っていた。



銀行との話が済んだ後で、夕刻に帰りの車に乗り込んでから、父さんはまず僕にこう聞いてきた。


「どういうつもりだ?馨」


「さっきの話ですか」


「そうだ。急に見直し案のことをお前は口にした。でもそんなものはない」


僕は父さんが怒り出さないように、慎重な口調で話を切り出した。話を聴きながら車を運転する父さんは前を見ていたけど、たまに僕の方を向いて、驚きや、苛立ちを露わにした。


「僕にだって考えくらいあります。それをずっと組み立てていたんですよ。だから父さん。どうか、現社長であるあなたにも検討して頂いて、会議でも発表させて下さい。もちろん、僕一人では不十分でしょうから、発表前に父さんに見て頂いて、可能なものはもっと上手いやり方がないか、不可能であると僕が知らなければ、それを教えてください。お願いします」


父さんは動揺して、迷っているようだった。それから、父さんの目が前方を走っている車のライトを照り返してちらちらと光る。迷いながらも、父さんは何かに縋りつくように前を見ていた。


「それは…自主再建をするということか…?」


「そうです。まずは、僕に一度それができないか、やらせて下さい」


僕ははっきりと、でも攻撃的に聴こえないように、苦心して言った。父さんは息子の急な言い分に困っていたようだったが、しばらくしてようやく、「そこまで言うなら、プロジェクトを一度組んでみよう。私だけでは不足かもしれない。他にも人を選ぶから、三日は待ってくれ…」と、僕を見ずに言っていた。


僕は、それまで父さんがまるきり子供扱いしていた僕にまで頼りたくなるほど、責任と窮地に追い詰められていたことを知り、それから、ひとまずは自分の言い分が初めて父親に受け入れられたことに、安堵した。






それから一週間してプロジェクトチームが集まり、父さんを中心とはしながらも、僕の考えた再建計画について、様々な意見交換がされた。まずは会社の足枷となっている部分を細かく調べることから始めて、結果として、利益の出ていない子会社を体力のあるほかの企業に売却すること、それから工場を閉鎖すること、そのほかのあらゆるコストカットに、債務返済の計画、等々…。



一カ月後、すべてが一つの文書にまとまった時、僕たちは大きな達成感を感じていた。



「社長!これができれば、まずは大丈夫ですよ!」


「そうか。そうだといいが…」


「とにかく、これを見て銀行側がどう言うか…ですね」


僕がそう確認すると、父さんは「どうかはわからないが、そうだな」とは言ったけど、その表情は、プロジェクトを練り始める前までの切羽詰まった頼りなさが消え、晴れやかに見えた。





成功だった。銀行に出向いてなるべく丁寧に、父さんの口から再建計画の内訳を相手に話してみせると、「これなら現実的と言えますね。でも急なお話ですから、こちらも会議に掛けなきゃなりません。次回のお越しまでにまとめておきますので、今回はこのへんで」との返事だった。少々面倒そうではあったけど、納得して頷いてもらえたので、僕たちは頭を下げ、会社に帰った。



「まさかお前にこれほどの腕があったとはな」


「父さんと、他の皆さんが優秀だったんですよ。僕はまだ半分くらい部外者のままだったので、もしかしたらそれで、客観視できたのかもしれません」


「礼を言う。馨。これならもしかすると、自力で巻き返せるかもしれない」


「僕も、自由にやらせて頂けたことを感謝しています」






それから銀行からの資金供給はよどみなく進むようになって、会社は動き始めた。


だけど、業績が良くなったわけではなかったのだ。


赤字は減るには減ったが、黒字化はそれ以上に難しく、だんだんとまた僕たちは迷い込んでいった。その間に、またあの話が息を吹き返す。






ある晩社長室に出向くと、父さんはソファに掛けていて、僕に目の前の席を勧めた。僕はそこに座って、「お疲れ様です」と声を掛ける。父さんは本当に疲れていたようだった。ため息のあとで、「ああ」とだけ返ってくる。


再建計画に銀行が納得してくれてからの半期の間、それはほんの六カ月くらいだったのに、父さんは「会社の可能性を見せられてから、それを取り上げられてまた窮地に追いやられる」という現実に直面した。あれから、充分に成果を上げられなかったことで銀行の人間は会うたびに態度を変えるようになって渋い顔をし始め、父さんは近頃会議でイライラしていることが多かった。衝突は生まれないまでも、経営陣の間にわだかまりのようなものが停滞しているのを、僕も感じていた。


父さんは僕を見ずに少し俯き加減になって、テーブルの上にある、秘書の金山さんが用意してくれたらしいお茶を見ていた。そして、肘を膝にもたせかけ、指を組んで何回か前後に振る。


「お前は忘れているかもしれないが…加賀谷鋼業の…」


「わかっています。華蓮さんとのお見合い話でしょう」


僕はひじ掛けに腕を預けたままで父さんを睨む。話を遮られて顔を上げた父さんは、僕の顔を見て驚いた。僕はその一瞬間で、ここ最近に考えて紡ぎ直したことをもう一度読み返す。



僕には、もう「銀行を説得するために一役買った」という、いわば実績がある。もちろん再建案を出しただけだったけど、それは確かに「ある」はずだ。だからその話題を出して、この見合い話を頑としてはねつけることも、多分できる。


でもそれでは、プライドが高くてワンマンな父さんは、大いに怒るに違いない。部下に先を越されたことを思い出させれば父さんはへそを曲げるだろうし、しかも、自分の子供が言うことを聞かなければ、父さんは恫喝して押し切ろうとするだろう。だから、ここはもう、美鈴さんの話をするより他になかった。



父さんは、僕があからさまに不服そうな顔をして見せたのに、それに気づかなかったかのようにわざとらしい笑顔を作り、先の話を続けようとした。


「…そうだ、その華蓮さんだが、よく名前を覚えていたな。…今…私たちには、もう一度助けを請う必要があるかもしれない…それはわかるな?」


「はい…ですが、お断りします」


僕がそう言うと、父さんは戸惑ったように目を泳がせながらも、僕を見ていた。


「どうしてだ?」


その時、僕はもう一度考えるために、慎重に父さんの顔を見ていた。



今、言っても大丈夫だろうか?いいや、大丈夫じゃない。いつだって大丈夫ではない。でも、今言わなければいけないんだ。



「僕にはもう、ずっと前から相手がいるんです。ですから、お断りします」



しばらく父さんは言葉を失っていた。広い社長室の皮張りのソファに父さんが手をついて、皮と皮膚が擦れる音が大きく響く。父さんは困ったような笑い顔で首を振っていたが、どこか嬉しそうにも見えた。でもその顔は、だんだんと悲しそうに、そして険しくなっていく。それに合わせて、僕の緊張が張り詰めていった。父さんはあえて厳しい目で、そしてゆっくりと喋り出す。



「そうか…子供だ子供だとばかり思っていたが…しかし、馨。この話は、済まないが飲んでもらわなきゃならん。ことは色事が問題じゃない。今にも銀行からの命綱が切られようとしている現状で、そんなことは言ってられん。銀行は…人の人生を考慮に入れてはくれない…そのくらいわかるだろう」



僕はその時、かっと頭に血が上った。


父さんは、僕と美鈴さんの関係を、“色事”と言い、そして切り捨てたのだ。


自分が一世一代と思った言葉をにべもなく叩き落とされた僕は、思わず拳を握りしめ、歯を食いしばる。



「…僕の働きで、少しは回復したじゃないですか。その仕事に不満があるなら言って下さい」



言った瞬間、僕は後悔した。あれほど矛を収めておくべきだと思っていたのに。



僕が「最悪の事態」として予想していた通りに、父さんはすぐさまがばっと身を乗り出し、一気に激昂した。もしかしたら僕たち親子は、似ているのかもしれない。


「不満!?不満だと!?お前がやったのは、いたずらに会社の寿命だけ延ばして助けを拒否した…そういうことでもあったんだ!このままの状態では債務の返済に追われるばかりで他社にはついていけなくなる!それを放置すれば、会社は終わりだ!そうなれば社員たちはどうなる!?」


父さんはそこで一瞬、自分の額に手を当てて考え込む仕草をした。


「…確かに辛かろう!でも、お前が次期社長なら、まず社員の生活を考えろ!」


息も継がずに一頻り怒鳴り終わって満足したのか、父さんは茶托に乗った茶碗からお茶を飲んだ。ぐいぐいと一気に飲み干し、それから大きく息を吐くと、ぎりっと僕を睨みつける。


幼い僕なら泣き出しただろうし、大学生の僕はこの目に怯んだだろう。でも、今の僕は違った。僕は父さんに少し微笑む。すると父さんはまた驚いて、奇妙なものを見るようにきょときょととした。


「なんだ、その笑いは」


まだいくらか鼻息の荒い父さんは、僕が一向に話を聞く気配がなく、しかも笑っていることに苛立つ態度を隠さずに、テーブルを叩いた。僕はひじ掛けを両手で掴んだまま、前にぐいと身を乗り出して、笑い顔のまま、父さんに「僕に任せて下さい、父さん」と言った。


「…また何か、“考え”でもあるのか?二度もわがままは聞けんぞ」


「わがままじゃありませんよ、現実的な方法です」


そう言葉を交わして二人で見つめ合っていた時、初めて僕たちは“仕事を共にする男二人”として、互いを見ていたように思う。父さんは疲労困憊だったこともあったのか、「そんなに言うなら、お前の手で再建の計画書をまとめろ」と言って、あっさりと僕の話を聞いてくれた。それから「私は仮眠をとるから、一人にしてくれ」と言われて、僕は追い出される。



僕は社長室の扉を閉めて廊下に出た。そして、周りに誰も居ないことを確認し、胸の前で握りしめた自分の右手拳を見つめる。


「…よし!」






改めて再建のプロジェクトチームが、今度は僕の人選で集められた。そして、今一度の事業の見直しと、情勢との噛み合いを含めた検討の会議が何度も行われ再建案を練っていく。それは、前に行われたコストカット中心ではなく、自社製品に焦点を当てたもので、僕たちは様々に見直しを図り、多くのことが刷新された。父さんは最初はふてくされながらではあったけど、僕が、父さんの“現社長”という立場でしかできないことを依頼すれば、しぶしぶ動いてくれた。そうして多くの会議と銀行との資金繰りを経て、会社は行動に移る。


マーケティングもそうだけど、製品の品質向上のために絶対に手を抜かずに改良に改良を重ね、さらに景気に合わせて価格を下げることで、初めて僕の会社のシェアは回復し、そこからは、右肩上がりに業績は伸びていった。






そして一年後、会社は黒字化に成功した。みんな喜んだし、安心した。ほぼV字回復と言ってもいいような再建は、実質的に僕の手によってなされ、祝賀会で、僕は会社の人間として大いに祝福された。


「馨」


「父さん」


僕と父さんは自分の席を離れてから挨拶をして回っていた後、広い会場の中で鉢合わせをした。父さんはビールで心地よく酔っているようで、そしてどこか僕に済まなそうな顔だった。


「…お疲れ様でした。今回も、僕にやらせて頂いて、ありがとうございます」


僕がそう言うと、父さんは首を振り、こめかみのあたりを人差し指で忙しなく引っ掻いた。顔を上げた父さんはすっかり安心したような顔で、僕はちょっと驚く。その時の父さんの顔は、前に見たことがあったからだ。


それは、僕が大学生の頃、父さんに初めて海辺の工場に連れて行かれた時、父さんがベテラン作業員の“清さん”に向けていた表情だった。


「馨、よくやってくれたな。正直に言うと、…お前を侮っていたかもしれない」


それはやっぱり、じっと炎を覗き込む職人気質な“清さん”に対して見せていた、尊敬と親しみに満ちた目によく似ていた。僕は、自分の父親にそんなふうに見てもらえるとは思っていなかったし、なんなら文句を言われるかもと覚悟をしていたので、感情が追いつかなくて気恥ずかしくなり、小さくなってしまう。


「そんな…そんなこと、ないですよ…こんな…」


「照れるんじゃない、まあ、今晩は無礼講だ。一緒に飲もう」


「は、はい…」


僕はなかなか顔が上げられなかったけど、父さんは僕の肩を軽くぽんぽんと叩いてから片腕をがっしりと回して僕を抱え、ビール瓶が並べられたテーブルへと連れて行ってしまった。








僕は祝賀会のあとで、ある喫茶店へと急いでいた。懐かしい道を、ずっと会っていなかった愛しい人の温もりを早く取り戻したくて、ほとんど走るように、もどかしく歩いていた。季節はもう冬に近いから東京の夜九時半は寒かったけど、向かう先の暖かい灯りを思い浮かべると、それは僕の体を真ん中から温めてくれるように思う。




カラン、コロン、カラン…。耳に心地よく響く軽いベルの音。変わらず流れていたクラシック音楽と、青い絨毯に赤いビロードの椅子。僕は一つだけ壁に覆われたボックス席の、壁にある窓を見た。そこで彼女は、白い湯気が立ち上るコーヒーカップを両手で包んだまま、ちょうどこちらを向いていた。


「馨さん!」


僕が姿を現すのを、今か今かと待っていてくれたのだろう。彼女はすぐにカップを置いて、席から飛び出してきてくれた。僕は彼女を抱きしめる。彼女は震えていて、あっという間に僕のコートを涙でべしゃべしゃにしてしまった。


「ごめん、ごめんね、遅くなって」


僕は、長いこと会わずにいた恋人を懐かしんで、砂漠の中でやっとオアシスを見つけた旅人のように、愛が湧き出す泉に浸かりながら、美鈴さんの体の形を確かめた。彼女の肩や、柔らかい髪を撫でていたけど、突然、美鈴さんは頭を振って僕の手を振り払うと、腕の中から僕を睨みつける。彼女はそのまま大きく息を吸った。



「馨さんの…嘘つき!日本に帰ったら、会ってくれるって言ったじゃない!」



彼女は、ずうっと我慢していた言葉を一気に吐き出して、悲しそうに涙を流したけど、もう離すつもりもないほどの力で僕を抱きしめてくれた。



そう。僕は、あの国に向かって旅立ってから、もう二年半近くも美鈴さんと会っていなかった。メールやメッセージのやり取り、それから誕生日にお祝いのプレゼントを僕から美鈴さんに送ったりはしていたけど、本当にそれだけだった。



「うん…ごめん」


「馬鹿!すごく…すごくさみしかったんだから!」


彼女はそう言ってわあわあ泣いてしまって、奥から出てきたマスターはその様子を見ていたけど、しばらくはそっとしておこうと思ったのか、なぜか僕にちょっと申し訳なさそうな顔をして、もう一度引っ込んでいった。




やっと彼女の涙がおさまると、僕は「マスター、注文お願いしていいですか?」と奥のカウンターに向かって呼びかけてから、席に就く。美鈴さんはまだ頬をふくらしていたけど、それは可愛げのある幼い顔だった。


「はいはいはいはい!お久しぶり。元気そうね!ちょっと男前になったんじゃないかな?」


マスターはうきうきしながら手早くそう言って、注文書にボールペンを添える。マスターの髪はすっかり白くなって少し老けたようには見えたけど、笑顔はもっと優しくなったように見えた。


「えっ、そうですか?」


僕はマスターのお世辞にちょっと頭を掻いていた。すると、何かを言いたくてたまらなくなったのか、美鈴さんが横合いから口を出す。



「馨さんはもともと男前です」



マスターと僕はその言葉にびっくりして、一瞬顔を見合わせた。マスターは「許してくれたみたいね」と言って、嬉しそうに笑う。でも僕は、美鈴さんがほかの人の前で僕を褒めたことなんかなかったから、急に恥ずかしくなってしまった。


「えっと…じゃあ…寒いので、ココアを…」


「かしこまりました」



マスターを見送ってから美鈴さんに目を戻すと、僕はじとっと睨まれながら、またもや驚かされた。


「やっぱり…もともとよりかっこよくなったかも…」


「え、えっ?」


美鈴さんはとてもそんなことを言い出すような甘い笑顔ではなく、僕をジト目で睨んでいて、僕は喜んでいいのか、それとも焦ればいいのかわからなかった。すると美鈴さんは唇を尖らせたまま横を向き、ぽそっとつぶやく。


「しばらく会ってもらえなかったから…なーんか、いちゃつきたくて…」


そう言ってから彼女はやっぱり横を向いたまま顔を伏せて、赤くなった耳を見せた。僕は手を伸ばして彼女の頭を撫でる。


「ごめんね。今日はいくらでも傍にいられるから」


彼女は僕に撫でられながら、まだしぶとく拗ねた顔をして、「もちろんです」と言っていた。




ココアは甘く、クリームのまろやかさとカカオの香ばしさが溶け合い、疲れを癒してくれた。僕は祝賀会でお酒を飲まされたし、ちょうど甘いものが欲しかったところだ。


「んー、でも、ちょっとおなかがすいたなあ」


僕がココアを何口か飲んで独り言を言った時、美鈴さんはもうあの頃の、僕を気遣う優しい顔に戻っていた。


「マスターのカレー、美味しいみたいだよ?食べてみる?」


「そうだね、ここで食べ物って頼んだことなかったけど…」


「私も実は、まだ晩ごはん食べてなかったの。馨さんと食べようと思って…」


「そうなんだ。じゃあ、カレー頼もうか」




相談が済んでマスターに改めて注文をすると、しばらくして黒胡椒の刺激的な香りと、お肉の美味しそうな匂いが喫茶店に漂い始めて、やがてマスターが丁寧に作った“こだわりビーフカレー”が二皿分運ばれてくる。それは、綺麗な装飾が縁に施された銀色のお皿で、炊き立てのお米に、焦げ茶色のルウが掛けられていた。


「ありがとうございます、いただきます」


「はいどうぞ召し上がれ~」


見たところ具材は煮込まれ続けて溶けてしまったようだけど、これは期待できそうだ、という深みのある香りがして、僕はスプーンでひと口すくって口に入れる。


「…ん!」


「ん~!」


僕がスプーンを咥えたまま驚いて、美鈴さんは体をくねらせて喜んだ。すごく美味しいビーフカレーだった。野菜の甘み、肉の旨味、ルウの香り、どれをとっても申し分のない、美味しいカレーだ。


「美味しいねえ!」


「うん!すっごい美味しい!」


それから、あっという間に二人でビーフカレーを食べたあとでマスターがお皿を下げてくれたけど、その時、「ごめんねえ、申し訳ないけど、そろそろ閉店だから」と言われた。僕たちは「ごちそうさま」を言って会計を済ませ、店を出る。




「どこ行こう?」


「そうだね、僕は明日の朝までは体が空いてるから」


「じゃあ、私の家、かな…」




電車に乗る時、美鈴さんは「新しい部屋には馨さん来たことないから、案内するね」と言った。美鈴さんが引っ越しをしたことは、SNSのメッセージで聞いていた。僕たちは地下鉄で、元の美鈴さんの部屋に向かう下り路線ではなく、上り路線に乗って、さらに一度乗り換えをした。




美鈴さんの新しい部屋は、六階建てのマンションの一室だった。古びてしまったエレベーターのボタンで三階のボタンを押して、彼女の住む305号室に向かう。ドアを開けるとやっぱり、百合の花をミルクに溶かしたような、爽やかで落ち着いた、美鈴さんの部屋の香りに包まれた。


前よりも少し広い2DKの玄関を開けてキッチンを過ぎる。奥にある五畳ほどの部屋に進むと、隣は寝室のようで、前と変わらないベッドとローテーブルが見えた。五畳の部屋は勉強部屋みたいだ。でも、机は新しくなっていて、大きな書棚と引き出しが付いている。その机の上には様々な文献が研究のために並べられ、何枚も何枚も、走り書きをしたレポート用紙が散乱していた。


「広くなったね。勉強机、買い直したんだ」


「うん。院での基礎的な課題は終えたから、それでちょっと勉強は落ち着いたけど、今度は研究の課題を絞るためにね、勉強したりアルバイトしたりで、時間ない!」


彼女はそう言って笑った。その笑顔は、「喫茶レガシィ」の明るいランプの前では気づかなかったけど、本当ならずいぶんと大人びている年齢のはずが、前と少しも変わらずに、活き活きと輝いているのがわかった。


「…変わらないね」


僕は革のビジネスバッグを部屋の隅に置き、美鈴さんを振り返る。


「うん?」


「綺麗なままだ、美鈴さんは」


そう言うと、彼女は急に顔を赤くした。そして立ったままで僕を可愛らしく睨む。


「…馨さんも、照れ屋なのに、そういうことだけははっきり言うとこ、変わらないね」


そう言って彼女は僕を抱きしめてくれた。





僕たちは互いの距離を縮めるのに躍起になって、真っ暗な夜の中、隙間を埋めるために何度も抱き合った。







Continue.

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