第12話 二人きりの部屋







僕たちは美鈴さんの部屋で静かに過ごしていたけど、そのうち、「おなかすいたね。カレーライス、作るよ」と美鈴さんは立ち上がった。


「カレーライス?じゃあ、僕も手伝うよ!」


僕は自分の好物を美鈴さんが用意してくれるのが嬉しくて、居てもたってもいられなくなった。すると、美鈴さんはちょっと驚いた顔をする。


「えっ、馨さん…お料理したことある…?」


美鈴さんはびっくりしたあとで、ちょっと不安そうな、不思議そうな顔をして僕を見た。


僕は、自分の家での生活などを美鈴さんに話した時に、「食事を作ったりするのはメイドさんがやってくれている」と話したのを思い出した。でも、思わず唇を突き出して拗ねて見せる。


「できる…家庭科で、やったし…」


その自分の言い分がとても頼りないものだとはわかっていたけど、そう言ったら美鈴さんは、「じゃあ、少しお手伝いして。やることは多いし」と言って、笑ってくれた。







カレーライスを作るのがこんなに大変だなんて思わなかった。と、僕は驚いているし、ほとんど役に立たない自分に、不甲斐なさも感じていた。


具材の量がどのくらいだとカレーにするのにちょうどいいのかすら、僕は知らなかったし、美鈴さんの説明してくれた、玉ねぎの切り方の多さにも驚いた。

それから、じゃがいもを切る時に「面取り」ということをしておくと、荷崩れないから、より美味しいのだということも知らなかった。そのほかにも、ほとんど知らないことだらけだった。



僕はとにかく、美鈴さんが野菜の皮を剥いたらゴミ箱に捨て、美鈴さんが使った包丁や、具材を炒めた後のフライパンと木べらを洗った。他のことができないとわかると、僕はとにかく丁寧にフライパンを洗うことに集中していた。



途中で、美鈴さんがルウを溶かし入れている時に、僕が「楽しそうだな」と思って鍋の中を覗き込んでいたら、「やってみる?」と美鈴さんはおたまを渡してくれた。


「じゃがいもを崩さないように、ゆっくり、ルウが溶け切るまで混ぜてね」という美鈴さんの声に従って、慎重に鍋の中を混ぜた。


それから、「とろみが付くまで、一気に沸かしてぐつぐつ煮込むから、焦げないように混ぜてね」と言われ、美鈴さんはコンロのツマミをひねった。急に強くなったコンロの火に驚いたけど、慌ててそれを隠し、僕はまた丁寧にカレーを混ぜる。


「うん、もういいかな」


「できた?」


美鈴さんはちょっと味見をして、指でオーケーのサインを作って頷いて、満面の笑顔になった。


「やった~、カレー!」


僕は楽しみで仕方なくて、必死に抑えたけど、思わず美鈴さんのキッチンでちょっと足踏みをしていた。


美鈴さんは、あらかじめ炊いてあったごはんを盛りつける。僕はごはんの盛られたお皿を受け取って、その上にこぼさないようにカレーを掛けた。


「美味しいと思うよ!」


「よかった。ごめん、僕、あんまり役に立たなかったけど…」


僕がほかほかのカレーライスを手にしてちょっともじもじしていると、美鈴さんは「そんなことないよ、洗い物とかって、してもらえるとすごく助かるもん。ありがとう」と言って、なぜか僕の頭を撫でた。


「なんで撫でるの…」


「んー?元気になる、おまじない」


頭を撫でられるなんて、子ども扱いされてるみたいでちょっとしゃくだったけど、美鈴さんは満足そうに僕の頭を撫でたあとで、テーブルにカレーライスを運んでいったので、僕も自分のお皿を持ってついていった。







「んー!美味しー!」


「うん、美味しいね」


美鈴さんの家にあったのは、子どもが喜ぶような甘口のカレーで、懐かしくて、優しい味だった。「しっかり炒めると、美味しくなるよ」と美鈴さんが言っていた通りに、お肉も香ばしくて美味しかった。


「そういえばさ、初めて学食で会った時に、馨さん、「カレーライスが好き」って言ってたし、ほんとに学食でもカレーばっかりだよね」


「うん。小さい時に食べてから、ずっと好きだよ」


「ふうん。一途だね」


「そうだね、美味しいし」


美鈴さんはとても楽しそうに食事をしながら、僕に話しかける。僕もそれに、自然と答える。僕たちは、さっきよりも緊張せずに寄り添えているような気がして、嬉しかった。



それにしても、美鈴さんは僕よりたくさんごはんとカレーをお皿に盛っていて、それをあっという間に飲み下していくのに、体はとても小さく細い。


腑に落ちない彼女の様子に、「もしかしたら、勉強でとても体力を使うからかな?」と思いながら、僕は美味しいカレーを食べていた。



食事が終わって一緒に「ごちそうさま」を言い、美鈴さんは、「お皿洗いは大丈夫。ちゃちゃっと終わらせちゃうし」と席を立った。







僕はテーブルの前で、キッチンで美鈴さんが蛇口をひねって水を流し、お皿を洗っている音、食器を水切りに重ねる時にカチャカチャと擦れ合う音を聞いていた。すると、ふと、美鈴さんの家で話したかったことを思い出した。



そうだ、「両親には知られないようにお付き合いをするから」って、言うつもりだったんだ。でも、僕はその時になって、やっと気づいた。



そんなことを僕から聞いたら、美鈴さんはきっと悲しむ。たとえどんな理由があっても、そんなのは気持ちのいいことじゃない。


本当に、彼女に話していいんだろうか?


でも、隠して付き合うことを、彼女にまで隠していたら、それは彼女に対して嘘のない態度を取れているとも言えないじゃないか。


僕は、言うべきなんだろうか。言わずに居るべきなんだろうか。



そんなふうに少しの間僕は悩み、テーブルの前に座って、美鈴さんを待っていた。







「お待たせ。そうだ、何か飲む?」


物思いに沈んでいた僕のそばに美鈴さんが帰ってきたので、僕は慌てて顔を上げる。


「あ、ああ…じゃあ、水が飲みたいかな…」



咄嗟にそう言ったけど、僕は彼女の明るい笑顔と、胸の内の考えごとを見比べて、「話せないかもしれない」と不安になった。



「そっか、ちょっと待ってね」


「うん…」







口の中に残っていたカレーの味は、水を流し込むことで、少しずつ消えてしまった。そしてまた、沈黙が訪れる。


冷たい水と、氷がいくつか入ったコップは、少しずつ水気を吸い寄せて汗をかき、時たま、それがつうっと下に流れ落ちて、美鈴さんが用意したシンプルなコルクのコースターに吸い取られた。


僕が黙って塞ぎ込んでいることに美鈴さんは気づいているのか、それとも僕が黙っているから自分もそうしているのか、彼女もしばらくの間はうつむいて口を閉じている。


「これを言ったら、君は悲しむかもしれないけど…」


僕は初めて、美鈴さんを「君」と呼んだ。だって、この部屋には僕たちしか居ないから。僕たちは、たった数時間のうちに誰も居ない世界に来たように、どんどん距離が近くなった気がする。


「何…?」


不安そうに美鈴さんは僕を見つめる。僕は、「こう切り出したからには、もう隠しちゃダメだ」と思って、重たい喉を動かした。


「僕の両親は…特に父親は、僕のことをほとんど「跡取り息子」としてしか見てない。母も、それに従うように、父のやり方に逆らおうとはしない」


僕がそう言うと、彼女はもっと不安そうに肩を縮め、僕を見つめたまま、悲しそうに目を見開いた。僕はその痛々しい彼女の顔が見られず、うつむく。


「父は多分、僕に、学校で熱心に勉強して、家の仕事に役立つ人間に成長することだけを望んでる。だから僕は…」



そこで僕は顔を上げて、美鈴さんの目を見つめた。なるべく、本当の気持ちなんだと伝えられるように。美鈴さんは怖がっていながらも、僕の言葉を一生懸命に聞こうとしてくれた。




「君とのことを、邪魔されたくない。だから…知られないようにしたいと思ってる。君は…それじゃ、嫌かな…?」




美鈴さんは僕を見つめたまま、悲しそうな顔で黙り込んでいた。やっぱり、こんなことを言うべきじゃなかったのかもしれない。でも、僕は彼女をかなしませたままでいたくない一心で、さらに話を続けた。




「もちろん、いつかは話すつもりでいる。でも、今はそれをしたら、引き離されるだけだっていうのがわかるんだ。だから、僕の言うことを好き放題に押さえ込むことを両親ができなくなるまで。僕が家の中で成長するまで。それまで…待っててくれないかな…」




不安で仕方がなかった。彼女が傷ついて、泣き出したりしてしまったらどうしようかと思った。でも、僕に返ってきた表情は、まったく予想していなかったものだった。




美鈴さんは僕の最後の台詞を聞いて、なぜか急に赤くなった。そうして慌てて下を向いて顔を隠し、もじもじと両手をテーブルの下で動かしていた。




急にどうしたんだろうと僕は驚いたし、でも、彼女が深く悲しんだり傷ついたりはしていないように見えることで、少し安心できたような、それからどこか拍子抜けしたような気分だった。


でも、どうして赤くなるのかは僕にはわからない。


「…どうしたの?」


僕が聞いても、しばらく彼女は答えてくれなかったけど、下を向いたままでちょっと顔を逸らして、彼女は恥ずかしそうに頬をかいた。




「えっと…あの、なんか…今の、プロポーズみたいで、びっくりした…」




美鈴さんはそう言って、真っ赤になった顔を、小さな両手のひらで覆って隠す。それはとても可愛かったけど、僕は自分の言動を思い返して、一気に頬に血が集まるのを感じた。



「ええっ!?そうだった!?」



そういえば、「両親に話せるようになるまで待っててくれ」なんて、そう聞こえてもおかしくないじゃないか!



僕は恥ずかしくて仕方なくて、そこから、なんとか言い訳をしようとして、しどろもどろのまま喋り出す。


「い、いや!そういうつもりじゃなかったんだけど、なんかごめん!急にそんな話しちゃって!で、でも、ほんと、そんな重い話じゃなくて!」


僕が息せき切ってそう叫んでいると、彼女がくすくす笑う声が聴こえてきた。僕は両手を振り回したりするのをやめて、彼女を見る。



彼女は片手を口元に引き寄せ、素直に笑う綺麗な声を小さく響かせ、嬉しそうな顔だった。小さな肩が、小刻みに跳ねる。


それから、彼女は笑うのをやめたあとで僕を見上げて、細めた両目でうっとりと僕を見つめ、ちょっと体を傾けた。彼女の長くてつやつやの髪が、少し床に向かって垂れ下がる。




「だいじょーぶ。そこまで真剣に考えてくれてるの、うれしいよ」




うわあ…可愛い。つい、そう口から出そうになった。



僕は困るほど可愛い彼女を見ていたけど、胸にこみ上げる気持ちが止められなくなってしまった。



「あの…」


「うん?」


彼女はにこにことしたまま、僕を見ている。



「だ、抱きしめても…いいかな…」



僕は、彼女が愛しくて堪らない気持ちでそう言って、今にも彼女にがばと抱き着いてしまいたいのをこらえた。



僕驚いた顔をうつむかせて、困ったようにもっと赤くなる美鈴さんを見つめる。


しばらくすると、「そういうのは、聞かなくてもいいの」と、とてもか細く、震えた声が聴こえて、美鈴さんはテーブルの横を回って、僕の隣まで来てくれた。




少しずつ、ゆっくり美鈴さんの背中に腕を回して、僕より一回り小さい彼女の体を、ゆるやかに包み込む。ああ、ぎゅっと力を込めて抱きしめたいのに、優しく包んでいたい。どっちつかずの両手はふわふわとして、上手く力が入らない。




彼女の長い髪に触れて、少しだけ指を絡めてみる。そのうちのいくらかが、僕の指の間からするりとこぼれていってしまった時、僕は「彼女を守らなければ」と思って、そしてそれができるのかわからない怖さを感じた。大丈夫だと思いたくて、彼女の首筋に耳を当ててこすりつける。百合の花と、ミルクの香り。それは美鈴さんのシャンプーの香りだったとわかった。




抱きしめ直すのに交差する腕を組みなおした時、彼女の肩に触れる。それは少し冷えていたから、僕はちょっと手のひらでさすって温めようとした。滑らかな彼女の肌は、手に吸いつくように潤っている。




小さな体の形を確かめるように、少しだけきゅっと自分の胸に引き寄せた時、僕は「よけいなことを考えちゃダメだ」と、自分を叱りつけた。




美鈴さんの体が呼吸をしているのを感じ、彼女の体温が腕の中に収まっていることがすごく嬉しいのに、切なくて、それ以上強く抱きしめることができなかった。






「じゃあ、今日はこれで。僕は駅までの道は覚えてるし、ここでいいよ」


僕は美鈴さんの部屋の玄関で、靴の紐を締めて立ち上がった。僕がドアノブに手を掛けた時。


僕は右腕を彼女に捕まえられて、引き留められた。振り向くと、彼女の目が、何かを頼み込むように僕を見つめていた。


僕はちょっと、「ずるいなあ」と思ってしまった。だって、そんな顔して引き留められたら、帰らずにそばに居てあげたくなるのに。


「もう一回、だけ…」


そう言って彼女は顔を逸らして、また赤くなる。


「…うん」




その時は、僕はもうすごく驚いたりはしなかったけど、すごくドキドキするのは変わらなくて、彼女の唇に触れているのが心地いいから、今度はちょっとだけ長い間、キスをした。




唇を離したあとでさみしそうな顔をしている彼女を見て、僕は「そうだ」と思い、彼女の頭に片手を乗せる。彼女はびっくりして後ずさろうとしたけど、すぐに僕がしようとしていることがわかって安心したのか、僕の手に頭を預けてくれた。


「元気が出る、おまじない」


そう言って撫でてあげると、彼女は気持ちよさそうに目を閉じ、ゆったりと微笑む。


「また、学校で」


「うん…じゃあ、また」




優しい別れは、長引けば長引くほど、どんどん離れがたくなりそうだったから、彼女が不安にならないくらいの長さの時間を玄関で過ごし、それから僕は、二人きりの部屋を出た。








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