第7話 運を天に


あの嫌がらせの事件のあと、学内で園山さんに会うと、彼女は僕に対して恩があるとでもいうように、前よりも親しみを込めて丁寧に接してくれるようになった。そのことは、彼女への気持ちを隠している僕を、大いに苦しめた。



園山さんが僕に尊敬に満ちた目を向けるたびに、別の僕が囁きかける。


「お前は彼女によく思われたかっただけだろう」、と。


「そんなはずはない、ただの友人であったとしても、僕は園山さんがあんな目に遭っているのは堪えられなかっただろう」と僕が反論すると、別の僕の方は、「とにかく、これでお前は彼女をモノにするのに、一歩近づけたわけだ」と、とぼけて返す。


僕はそれに対して、「そんなつもりじゃない!」とまた抗っても、「結果としてそうなれたのかも」という気持ちを捨てられないことで、思い悩んで行き詰っていた。



そんな日々を送っていれば、もちろん勉強に身が入らないこともある。その結果として、僕は初めて、レポートでA以外の評価を取った。一つ下の、Bだ。このことは、僕に大きな打撃を与えた。




もちろんその頃は学校での成績を逐一親に見られることもなかったから、19歳にして学校の成績で親に叱られるなんてことはないけど、僕は自分の実力が出せなかったことがショックだった。




B判定のレポートが返ってきたあと、二、三日して、園山さんからSNSのチャットにメッセージが送られてきた。僕は、逃れたい任務に相対しているように、痛む胸を押さえてそれを読んでいた。



「お久しぶりです。上田さんは最近、学校で会ってもあまり元気がないように見えます。それで少し心配なのですが、おうちのことが大変なのですか?」



園山さんのメッセージには、最後にだけ、心配そうな顔の絵文字がつけられていた。僕は、自分がずいぶん前に適当に作り出した「家のことで忙しくて」という嘘の言い訳を思い出し、嘆息する。


「大丈夫ですよ」の一言だけでは、察しが良い園山さんの気は収められそうにないし、「そうです」と言えば、嘘を重ねることになる。僕には、どちらも堪えられなかった。



僕は、自分が追い詰められ切って逃げ道だけを探していて、ただ園山さんに対する気持ちを伝えることでしか、それが得られないのを知っていた。




「限界、かな…」




泡のような僕のささやかなつぶやきは、僕がその時横になっていたベッドの仰々しい天蓋まで昇り、そしてまた僕の額に落ちてきたような気がした。









僕はある日の放課後、久しぶりに図書館の窓辺で、園山さんを待っていた。あの晩の園山さんからのメッセージに、僕は、「もう大丈夫ですよ。久しぶりに図書館での勉強会がしたいです」と、元気そうに見える顔の絵文字つきで返したのだ。



僕の心はもう、「園山さんに嘘を吐いていたことを謝り、気持ちを告げて、その結果がどうなろうとも、この重荷を下ろしたい」、というつらさでいっぱいだった。それでたとえば、「嫌がらせから助けてくれたのは下心があったからなのか」と園山さんに疑われても、「それだけは絶対に違います」と、強引に押し通せばいいんだといったような、投げやりな状態に近かった。



片想いというのは、初めての経験で、それこそ誰かを強く欲するということだって、僕にとっては初めてのことだった。遠い昔、幼いながらも淡い好意を抱いたことはあるけど、まだ「恋」なんて言葉すら知らなかったくらいの小さな時だったし、相手の子は遠巻きに僕を見て避けるだけだったという苦い思い出だ。しかも僕は高校を卒業するまで勉強ばかりでろくに女の子と喋ったこともなく、園山さんを想っているのは、ほとんど初恋のようなものだったのだ。



その僕に、「ずっと気持ちを隠しておけ」なんて、神様はずいぶん厳しいことを要求するもんだと思った夜もあった。




僕は、「もう少しでこの苦しさから解放される」という気持ちと、「園山さんは受け入れてはくれないだろう」という後ろ向きの気持ちの両方が入り混じった、どこか虚しい気分だった。


僕は図書館の窓辺で、中庭のポプラの木を眺めている。風の音は聴こえず、ただ揺れる葉を見ていると、知らず知らずに自分の内心へと深く落ち込んでいた。


そこへ、コツコツと耳馴染みのある、控えめなヒールの音が聴こえてきた。それがもっと近づいて来るまではそちらを見まいと思っていたのに、僕は思わず園山さんを探して、振り向いてしまった。


園山さんは、嬉しそうににこにこしながら僕が座っている隣の椅子を引き、「お久しぶりですね。良かった、またここに来られて」、と、安心したように息を吐く。その吐息の行方を僕は追ってしまいそうになった。慌てて僕はうつむき、自分の用件を反芻する。



僕がここでしたかったのは、勉強会ではなかった。メッセージで伝えるには勇気が出なかったことを、話したかっただけなのだ。



「上田さん?」


園山さんは、返事をしないで身を固くしたままの僕を、心配そうに覗き込む。僕は視線を返すことができずに、下を向いてしばらく黙っていた。


だんだんと不安そうに園山さんがぎこちなく体を揺らす気配を感じながら、「言うんだ、言うんだ!」と自分を勇気づけて、僕はとうとう口を開く。



「…この間の喫茶店に…また連れて行ってくれませんか…」



ほとんど息もできないまま、苦しい呼吸をなんとか言葉にして吐き出した。僕は、たとえどうなろうとも、園山さんとの距離が一番近かった場所で、彼女に想いを告げたかった。


「えっ…いいですけど…あの、勉強会のあと、ですか?」


園山さんはもちろん僕の急な申し出に戸惑っていたし「せっかく持ってきたのに」と言いたげに、一度自分の鞄の中身を振り返っていた。僕はもう彼女の様子を気遣って想いを押し込めることはできず、「これから、すぐに、がいいです」と言って、初めて彼女を見つめた。



彼女は、「じゃあ、早く行きましょう」と言って、僕を図書館から連れ出し、今度は「準備」はせずにすぐに校門を目指してくれた。








地下鉄での移動中、僕は一度だけ園山さんに話しかけた。


「この間返ってきたレポートが、Bでした」


そう言うと、急に喫茶店に向かうことになって戸惑っていた園山さんは、また大いに慌てて、「どうしたんですか?お勉強の時間も取れなかったんですか…?」と、本当に心配そうにおろおろとしていたが、僕は「理由は、着いたら話します」とだけ短く返事をした。


園山さんは僕が脱力して伏し目がちになっていた様子から、ただならぬ悩みを察してくれたのか、「そうですか…」と言っただけで、そこから、「喫茶レガシィ」に着くまでは、僕たちは無言だった。






「珍しいね美鈴ちゃん。いつもは月一くらいじゃない」


「喫茶レガシィ」のマスターは、その日もクラシカルな店の奥からひょっこり現れて、園山さんに声を掛けた。その時は園山さんも、「お友だちが来たいと言うので」と言って、黙ったままの僕を気遣って、少し控えめな動作で僕を振り返る。僕がその「お友だち」という言葉に少なからず傷ついたのは、言うまでもない。


その日も僕たちはブレンドを頼んで、マスターがミルで豆を挽く音を遠くに聴いていた。


店内には、カウンター近くの四人掛けの席に一人だけお客が居たけど、僕たちはまた人目を避けるこのできる壁に囲まれた席を選んで、コーヒーを待っていた。「もしかしたらこの席は園山さんの気に入っている席なのかもしれないな」と、ぼんやり思った。でも、僕の気持ちはすぐに自分の恋心へと向かっていく。



「今にもこの恋心は涙と共にこの胸を食い破りそうだ」。



僕がそう感じていた時、ちょうどマスターはコーヒーカップを銀色の丸いトレイに乗せて運んできて、「お連れさんはお砂糖とクリームは?」と僕に聞いた。


「あ、じゃあ、お砂糖を下さい」


「はい、じゃあこれ、珈琲糖と、こっちが白砂糖ね。ごゆっくり」


僕はマスターとのそんな会話をほとんど無意識でしていて、「美鈴ちゃんはブラックだったね」、「はい」、とマスターと園山さんが言葉を交わしているのを、じれったい気持ちで待っていた。




でも、いざ喋ることができるようになっても、僕はなかなか言い出せなかった。そりゃそうだ。だって、これからもしかしたら大変革が起きてしまうかもしれないんだから。


僕は泣くことになるかもしれないし、園山さんに嫌われることだってあり得る。そこで僕はもう一度、想いを打ち明けようと決めたことを後悔しながら、必死できっかけを探していた。


ちらちらと園山さんの表情を窺っては、彼女がカップを口元に運び、美しい動作でコーヒーを口に含むのを見て、僕はまた改めて彼女を好きになる。そして彼女はカップを置き、小さなため息を吐いた。



「何か、あったんですよね。大変なことが…」



園山さんは僕の顔をあえて見ずに、僕が言い出せないでいることを引き出そうと、優しく聞いてくれる。彼女の表情には重苦しさはなかったけど、僕が苦しい気持ちを抱えていることを憐れむように眉を寄せ、口を引き結んでいた。




「言ったら、どうなってしまうんだろう。でも、もう僕には無理だから。身勝手でごめんなさい、園山さん。」


僕はそう念じてから、ほんの少し深く息を吸って、一瞬止めた。




「僕は…貴女のことを、大切に思っています」




これだけで伝わるものではないのはわかっている。僕はその先のことも言わなければいけない。園山さんは、僕が言い出したことの真意がわからないまでも、いろいろと想像を巡らせているようで、緊張した面持ちだった。




「貴女のことを、人間として尊敬する以上に、僕は、貴女を一人の女性として素晴らしい方だと思って…お慕いしています」




僕の声は震えもせず、生気もなく、それでも真剣だったように思う。僕はその時、どんな顔をしていただろう。本当だったら、泣きながら園山さんに縋って、どうしても叶えてもらいたかった。でも、ほんの少し自分を傷つけただけだった。


顔を上げるのが怖くて怖くて、じっとテーブルの横の床の青色の絨毯に目を落としていた僕。ああ、意気地なし。



でも、次の瞬間、僕は大きく驚くことになる。




「本当ですか…?」








頭の上に降ってきた園山さんの声は、涙で詰まって震えていた。僕はびっくりして顔を上げる。見れば、園山さんは両目を涙でいっぱいに潤ませて、今にもこぼれそうになるのを必死に堪えて唇を噛んでいた。


そしてついに、ほろりほろりと流れ落ちた涙を園山さんは慌てて拭って、泣きながら晴れやかに笑う。園山さんは何度も、笑い声とため息の間のような嬉しそうな声を漏らした。




え…、どういうことだ…?




僕は、突然目の前で巻き起こり出したシーンをすべて飲み込むことができずに、何を言うこともできなかった。それでも一つだけわかる。



園山さんは、僕の言ったことを、泣くほど喜んでくれたのだ。でも、一体どうして?



僕は早くその理由を確かめたかった。そして、願わくば僕が望む理由でありますように、きっとそうなりますようにと祈る気持ちで、片手を園山さんとの間に伸ばして浮かせ、彼女に聞いた。



「どうして、泣いているんですか…?」



僕がそう言うと、彼女はちょっとおかしそうに笑った。それから、拗ねたように上目がちになって僕をちょっと睨み、優しく微笑む。



「どうしてって…」



彼女は小さな肩を寄せて縮こまり、一瞬俯いたが、もう一度顔を上げて僕を真っすぐに見つめた。その表情には、泣きそうになってしまうのを堪える切なげな眉と、彼女のあの素直な両目、それから満たされた微笑みを作る唇があって、今までで一番美しいと、僕は思った。僕の心臓は、あらん限りの力で脈を打ち、恐怖にも似た期待が僕を襲った。




「私も、同じだからです…」




そう言った彼女は、真っ赤に頬を染めて、それでも僕を見つめ続けてくれていた。




これは、夢か…?




喉が震える。涙が込み上げる。体が思うように動かない。本当なんだろうか。嘘じゃないんだろうか。




「ほんとうですか…?」




僕は、彼女とまったく同じ台詞でそれを確かめ、彼女はやっぱり「はい」と答えて、薔薇色の頬をふっくらと持ち上げて笑った。




「信じられないです…!嬉しいです…!ああ、どうしよう!」




どうしよう?どうしたらいいんだ!僕はそう思って、本当に動揺した。




今日まで自分を支配していた不安や苦しみから、僕は解放された。それから、予想していたものとはまったく違う結果に裏切られたかのように、ときめきを止められず、できることなら今すぐこの場でめちゃくちゃに叫んで、彼女を抱きしめたかった。



でもそんなことはできずに、僕は頭を下げ、「ありがとうございます」と言って、我慢できなかった涙を袖で拭った。彼女は、「私も、本当にありがとうございます」と言って、同じく涙を流していた。






僕は、園山さんに対して、今までどういう気持ちを持っていたかを、余さず話した。



入学式の生徒代表の挨拶に立った園山さんを見て忘れられなくなったこと、そのまま彼女を追いかける大学生活を送っていたこと、自分の決めた道をまっとうしようとして努力を続ける彼女を心から尊敬していること、彼女と初めて言葉を交わした時にはまだ自分の気持ちに気づいていなかったこと、それから、二人で初めて街に出かけた時、彼女が可愛らしく見えて、初めて気づいたことを。


そのあとで、「嘘を吐いて避けていて、ごめんなさい。どうしても、貴女に会うこともつらくなって…」と謝った。すると、園山さんも自分の気持ちを話してくれた。




「私は…上田さんがとても真面目で、真剣に私に向き合ってくれているのを知っていたから、ずっと好きでした。一緒に出かけた時、実はちょっとデートのつもりでいたんです。そんなふうに考えるなんて悪いとは思っていたから、こっそり思い出としてしまっておくつもりで。上田さんが私から離れていってしまった時も、あの日のことを思い出して、「可愛らしい」なんて言われたんだから、もうそれで充分かなって思って、諦めようとしてました。でも…あの食堂であったことで、上田さんがすぐに見つけて私を精一杯守ってくれたから…すごく感謝しましたけど、その分、「友だちだからかな」って思って…少しだけ悩んだりしました…」


園山さんはそこで悲しそうな顔をしてうつむき、言葉を切った。僕は、今こそこれを言わなければと思って、膝の上で両手を強く握った。


「ごめんなさい…実は、あのことがあったあと、園山さんがそんな人じゃないとはわかっていても、僕、「下心があったから助けたんじゃないか」って貴女に思われるかもしれないと思って…怖かったんです…」


すると、園山さんは急いで首を振る。


「そんな!そんなわけないです!上田さんがそんな人じゃないのは、私、知ってます!だって…私、そういう誠実なところも、好きですから…」


園山さんは、自分の言ったことにまた恥ずかしそうに下を向いたけど、その目は僕を見つめてさらにこう言った。


「初めて喋った時、プライドより、誠実さを大切にする人なんだなって…わかったんです」


そう言った彼女は、誰も知らない僕の秘密をわかっていたかのように、満足そうな顔で僕を見つめて、もう一度「だから、好きなんです」、と言ってくれた。



それからも僕たちは、図書館での勉強会の間にお互いが感じていたことを話したりしていたが、僕が最後に、「お付き合いしていただけますか?」と言うと、彼女はじれったそうな顔で、「はい、もちろん。よろしくお願いします」と返してくれた。






帰り道はお互いに言葉少なになり、僕たちは地下鉄の駅までの人通りの少ない道を、のろのろと歩いた。今までは園山さんに僕がついていく形だったけど、今度は肩を並べて、時たまにお互いを見つめ合った。


「あの…駅に着く前にお願いがあるんですけど…」


彼女がそう言って立ち止まったので、僕も彼女の隣で「なんでしょう」と返す。



「手、つなぎませんか…?」



えっ…!



僕はその時、急に手のひらが汗ばんで、ただでさえ速い鼓動が早鐘を打ち始めた。でも、僕だって同じ気持ちだ。



「園山さんが…よければ…」



そう言って園山さんに右手を差し出すと、彼女はすぐにはその手を取らずに、人差し指を僕の前に立てた。僕は、なんだろうと思ってちょっと身構える。



「それから、「美鈴」って呼んでください」



彼女はちょっと不満そうに唇を尖らせ、耳まで真っ赤にして僕を見上げる。



まるで嵐のように襲い来る幸せに、僕は死んでしまいそうなほど嬉しかった。



「み、美鈴…さん……」



僕のあんまりにも情けない声は、か細く震えて、頬が焼けそうに熱い。



彼女はまだ少しだけ納得していないようだったけど、「うーん…まあ、よしとしましょう」と言った。



「じゃあ行きましょう。馨さん」



彼女は僕の右手を取って、駅までを嬉しそうに歩き始める。彼女の左手は小さくて柔らかく、吸いつくように潤っていて、温かい。僕は自分でも追いつけないほど舞い上がってしまい、足元がおぼつかなかった。




「じゃあ、また明日。学校で」


「はい。じゃあ…」


僕が地下鉄の列車を降りて彼女が車内に残る時、彼女はドアにある窓に張りついて、僕に手を振った。






こうして僕たちは、これから来る夏を前にして、桃色の風が二人だけを包み込む季節を迎えたのだった。










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