第6話 彼女の事情




僕はわけがわからなかった。なんていうことはない、いつもの学食でまさかそんなことが起こるなんて思わないし、それに、園山さんがそんなことをされる理由もわからない。



園山さんの食事のトレーは、カレーライスで溢れかえり、彼女の服や、テーブルの真ん中あたりまで、カレーが飛び散って汚れていた。



僕は状況がまったく理解できずに、園山さんの脇に立っている女子生徒に目を移す。園山さんは、ただ黙って俯いていた。


その女子生徒は明るいブラウンに染めた長い髪を下ろし、カジュアルなアイボリーのワンピースに、ボレロのようなものを羽織っている。その生徒は手に持っていたトレーを盾のようにして、飛び散ったカレーで服が汚れないようにしていた。



嫌がらせだ。



そしてその女子生徒は、さも満足そうに、傲慢な笑いを浮かべて園山さんを見下し、こう言った。



「貧乏だもんねえ。たくさん食べられる時に食べなさいよ?」



僕はそれを聴いて、まるで自分も馬鹿にされて蔑まれたような、強い怒りと悔しさが、一気に体の中で爆発した。それは留めようがなく、僕の足はひとりでに恐ろしいスピードで動き、女子生徒へと向かっていく。



途中でその生徒は僕に気がつきこちらに振り向いて、僕が尋常でない怒りを抱いていることに気づいたのか、一歩後ろに下がった。その間に僕は三歩進んで、ついにその生徒の二の腕を強く掴む。



体が熱く震えていて、僕は奥歯を強く強く噛み合わせている。腕に力が入るのを止められない。



「ちょっと何よ!痛い!放して!」


その生徒は食堂中に聴こえる大声で喚き立てた。食堂の中に不穏なざわつきが次第に満ちていって、誰もが僕達の挙動を見つめている。そして、静寂が訪れた。



僕は、叫ばないように、怒鳴らないようにと、なんとか自分を抑える。そして女子生徒の両目をきっちり見つめて、睨みつけた。


「…二度としないと誓って下さい」


腹の底からの叫びを、喉元でなんとか押さえ込んで、低く震えた声で少しだけ吐き出す。本当は今すぐにでも怒鳴って叫んで、そこら中をめちゃくちゃにしてやりたかった。


女子生徒は僕が本気で怒っていて、自分をなんとか鎮めようとしているのがわかったのか、少し怯んだ。僕はもう一言続ける。


「謝って下さい。彼女に」


そう言うとその生徒はあからさまに不満そうな顔をして、僕を下から睨みつけた。


「何よ!アンタはなんなのよ!急に脇から出てきただけのくせにえらそうね!」



僕は絶対に諦めまいと思った。そして、ちょっとだけ園山さんに目線を落とす。彼女はおろおろして、でも怖くて何も言えないのか、不安でいっぱいの目を僕に向けていた。園山さんに微かに微笑み、僕は女子生徒に目を戻す。


「謝らなければ、今度は僕があなたにつきまといます。そうしてくれるまで。必ずそうします。だから謝って、二度としないで下さい」


僕がそう言うと、その女子生徒は青ざめて、びくびくと怯えだした。僕は腕を放さず、少しだけ力を込めて横に引っ張って、その生徒の体を、園山さんに向けさせる。園山さんは怖くて仕方がないのか、顔を上げずに俯き、両手をテーブルの下に隠した。



僕はずっとその女子生徒の横顔を睨んでいたが、その生徒は横目で僕を一瞬だけ睨みつけると、大げさなため息を吐いて、「ごめんなさいね」とつまらなそうに吐き捨てた。そして僕の腕を思い切り振り払って踵を返し、去り際にぼそりと「気持ち悪っ…」とつぶやいていった。



僕はその時、もう園山さんの前に屈み込んでいた。


園山さんはテーブルの上のカレーライスを睨みつけ、怒りを押し込めているように険しく眉間に皺を寄せていた。


「もう、出ましょう」


僕がそう言うと、園山さんは顔も上げずに、弱弱しく頷いた。



そして僕達は人を呼んで、自分達もテーブルの清掃を手伝い、園山さんは汚れたブラウスをジャケットで隠して、二人で食堂を出た。



「どこか人のいない場所で…話をしませんか」


僕がそう言うと、園山さんは校舎の廊下で立ち止まり、手に持った鞄の持ち手を両手で何度も握り直した。


「あまり人がいない喫茶店を…知っています…」





僕達は学校を出て、地下鉄に乗った。僕は、落ち込んでか細くなってしまった園山さんの声に案内され、園山さんの丸まった背中、項垂れる頭を見ながら、自分を責めた。





「ここ、です…」


それは、下町の細い裏道で、小さなビルに挟まれた、寂れた喫茶店だった。その喫茶店もビルの一階にあり、入口が少し奥まった造りになっている。木枠にはめ込まれたガラスは曇りガラスなので、中はよく見えない。入口の前に、「喫茶・軽食 レガシィ」と書かれた置き看板があったけど、深緑だったのだろう文字は色褪せ、下地の白もくすんでいた。


「なんか…雰囲気ありますね…」


僕がそう言うと、園山さんは少しだけ得意げに微笑んで、「入りづらいでしょ?」と言い、入口のドアを押した。



喫茶店の中は、案外と広かった。そして、僕は驚く。


床には綺麗な青い絨毯が敷かれ、椅子はみんな揃いの赤いビロード張りで、テーブルも、年季は入っているが丁寧に磨かれ、木目が美しいものだった。


少し目を上げると奥にカウンターが見えて、その横には漫画が大量に詰まった大きな本棚と、レコードプレイヤーらしきものがあった。それに気づいて天井を探すと、三つほどのスピーカーがこちらを向いている。スピーカーからは、ベートーヴェンと思われるクラシック音楽が流れていた。


お客は誰もいないけど、それが不思議に思えるくらいに、居心地が良いお店だと思った。


「すごいですね…」


思わず僕がため息を吐いた時、入口のドアベルが鳴ったことに気づいて出てきたらしいご店主が、カウンターの出口から顔を出した。


ご店主は黒のチョッキを着込んで黒いスラックスを履き、ワイシャツの袖をアームバンドで上げていた。足元を見ると、古いながらもこれまたぴかぴかに磨き上げられた、シンプルな革靴を履いている。


髪はもういくらか白髪が多めに混じっていたけど、整髪料で綺麗に整えられていて、なんとも言えない魅力を醸し出していた。


そして、笑い皺の入った顔で、にっこりと愛想良くご店主は微笑む。



「あら、美鈴ちゃん」


園山さんは「どうも、マスター」と返したけど、にこにこと何かを言いかけたマスターを避けるように、入口とカウンターの真ん中あたりにある、窓のついた壁で覆われている席へと入っていった。僕もそれにならい、園山さんを奥に座らせる。


「いらっしゃいませ」


マスターは園山さんの来店を喜ぶように、にこにことはしていたけど、こちらに事情があることを悟ってくれたのか、僕達にそれ以上は何も言わなかった。


僕達は、ブレンドコーヒーを一杯ずつ頼んだ。マスターはカウンターの奥へと戻っていったようだけど、壁に覆われてカウンターの方は見通せないので、マスターの靴音だけが聴こえてくる。



「それにしても…“純喫茶”って感じですね」


「ここ、お気に入りなんです。マスターも良い人で、コーヒーも美味しいんですよ」


「じゃあ、楽しみですね」


僕達はそれだけ喋って、しばらく二人とも黙っていた。僕は園山さんの言葉を待っている。



やがてマスターは目の覚めるような綺麗な青色のコーヒーカップを運んできて、「ごゆっくり」とだけ言って注文書を残し、引き返していった。



黙ってコーヒーを一口ずつ飲んでいた時、「美味しいな」と思ったけど、僕は園山さんが口を開くまで黙っているつもりだった。






レコードから流れる音楽は次の曲に変わって、カウンターの奥から食器を洗う水音が聴こえてきた。すると、園山さんは顔を上げて僕を見つめ、「ごめんなさい」と頭を下げた。


多分、僕に迷惑を掛けたと思っているのだろう、彼女は受けた傷をしまいこんで、まずは僕を気遣った。僕は悲しくて、申し訳なかった。


あなたがそんな顔をして、そんなことを言う必要なんか、どこにもないのに。


園山さんは話を始めた。


「私…生まれる前にお父さんが死んじゃって…それで、母と二人きりで、家が貧乏だったんです…。高校まで、そのことで嫌がらせをしてきてた子達がいて…さっきの子は、そのうちの一人でした…」


僕はまた、怒りと悲しみ、強い悔しさが込み上げる。それから、彼女を守れなかった自分を責めた。


「高校を卒業したらもう会わないと思ってたのに…まさか同じ大学だなんて…」


彼女はそう言って脇に目を逸らし、辛そうに顔をしかめた。僕はもう黙っていられなかった。早く彼女を安心させてあげなければ。


なるべく丁寧に息を吸い、僕も彼女に頭を下げる。そうすると彼女は慌てて顔を上げたようだった。


「ごめんなさい、辛いことを喋らせて。それに…また同じ目に遭うのを止められなかった…友達として、申し訳ないです…」


僕は顔を上げ、少しテーブルの真ん中の方へと身を乗り出す。彼女は僕を見つめて驚き、必死に涙を堪えている。


「でも安心して下さい。もう絶対にあんなこと、ありませんから」


僕の話が終わると、彼女は緊張の糸が弾けてしまったように泣いて、僕に何度もお礼を言ってくれた。そして、もう一度僕に謝る。


「私…上田さんの家のことを聞いて…怖くて自分の家の話ができなかったんです…ごめんなさい…」


園山さんは一生懸命に手のひらで零れ落ちる涙を拭っている。僕は胸が痛み、また喋らずにはいられなくなった。


「…僕は…園山さんのお母さんを尊敬します」


僕の胸の内から、自分でも知らなかった自分が顔を出す。ただひたすらに一途で、懸命である自分は、恐れずに園山さんを見つめる。


「え…?」


園山さんは突然の僕の言葉に驚いて、泣くのをやめてくれた。僕の中の僕は、守る道具も攻める武器も捨て、気持ち一つで園山さんに向かい合っていた。


「苦労して園山さんを支えて、園山さんをここまで立派な方にお育てしたんですから」


園山さんは両手で口元を覆って、また涙を流す。


「僕に対して…自分を恥じないで下さい。お母さんのことも、家のことも」


僕は自分の言葉を自分の耳でも聴きながら、「まるで別人のようだ」と思った。清浄で、潔白。そう思った時、僕の胸の中で微かに痛みが生まれ、それを伏せて彼女に笑ってみせた。


彼女は何度も頷き、涙ながらにまた僕にお礼を言う。


あんまり彼女が泣くので、僕がコーヒーを一口飲んで「美味しいですね」と言うと、涙を拭って、彼女は「お代わりしますか?」と笑ってくれた。



その時僕は、胸の中にしまいこんだ灰色のわだかまりが、自分の背中を撫で始めるのを感じていた。





喫茶店を出て園山さんと別れ、家に帰るまでの間、僕はずっと悩み続けていた。




「僕が園山さんを助けたのは、彼女に好意があるからだろうか?」


「ああすれば彼女が僕に振り向いてくれるだろうと期待していたんだろうか?」


「いや、たとえ本当にただの友達だったとしても、それに、何の関係もない赤の他人だったとしても、僕はあんなことを許しはしない!」


「でも、もしかしたら…」




今度の僕は、その四つの上をぐるりぐるりとまた旋回していた。


もし、彼女に今、僕の気持ちを打ち明けたとしたら、今日彼女に言ったことは皆、下心があってのことと受け取られるかもしれない。それに、今じゃなくても、これから先のかなり長い間、彼女がそう思うかもしれないことは否定できない。


僕は、彼女に気持ちをまた伝え損ねて、今度は爆弾まで作ってしまったような気がしていた。



電車の吊り革に掴まりながら、駅の人ごみの中を縫うように進みながら、家への道を歩きながら。それらすべてをいつも通りにこなしている間に、僕の頭はどんどん加速し、気持ちはどんどん落ち込んでいった。



でも、今日彼女と歩み寄れたことが嬉しかった。それで、彼女への気持ちが胸に強く蘇る。その時にまた、「良からぬ気持ちで彼女を助けたのか」と思って、自分を責めた。



困っている誰かを助ける動機がもしそんなものだとしたら、僕は自分が不純だと知らざるを得ない。それに、そんな気持ちで助けられたのだと彼女が知ったら、彼女は傷ついてしまうし、僕達が良い友達でいられる保証だってない。



帰宅した後も、そうした拭い去れない罪悪感と、また強く込み上げた恋心が僕を苦しめ、ベッドに沈む頃には頭がくたびれて動かなくなっていた。




一瞬だけ静かになった僕の頭に、空っぽの色の文字が浮かぶ。




「僕はいつ、彼女に言えば良かったんだろう?」




その答えは、夜明けを過ぎても出なかった。









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