第2話 友達になってください

僕は大学で「経営学部」に入った。これはもちろん、会社を継ぐためだ。



でも、大学では、自分が可能なら科目は好きなものを取れることは分かっていたし、僕はめいっぱい勉強がしたかったので、どこに居てもあまり変わりはないだろうと思っていた。



前期には自然科目から四つ、それから経営関係の科目を四つ、あとは歴史と文学の科目を三つずつ選択した。



それから、文系と思しき科目群の中に「哲学への道」という科目もあったので、それも僕は取ってみた。




僕は、入学式の会場だったシティホールの檀上で、はきはきと自分の夢を語る彼女の、曇りない瞳を思い出していた。






僕の大学生活はそれでかなり忙しいものとなり、家に帰ったら予習と復習、それから「まだ学べるものはないだろうか」と、新しい可能性へとシャープペンシルを走らせた。



母がたまに僕の部屋に入ってくると、「えらいわね、でも無理しないのよ」と気遣ってくれた。



それから、最初の頃こそ首席での合格でなかったことに苛々していた父も、僕が食事も自室に運んでもらって済ませ、必死に勉強に打ち込んでいるのを知ると、「気分転換も大事にしなさい」とまで言うようになった。






あっという間に過ぎた一週間の最後、金曜日の午後の一コマ目が「哲学への道」の時間だった。



僕は学食で食事を済ませてから、広い校舎の廊下をどんどん進んで、奥まった建物へと曲がり、小さな講義室に辿り着いた。講義室というより、「教室」と言えるくらい小さい部屋だ。



こんなところもあったのかと僕は思って、広い学び舎を隅々まで制覇したい気持ちが湧いてくる。



教室の中には、三つか四つのパイプ椅子が据えられた白い長テーブルが、二列に五つずつ並べられ、すでに何人も生徒が席に就いている。僕はちょっと遅れ気味だったようだ。



余っていた一番後ろのテーブルの席に座って、僕は「哲学への道」のテキストとノート、ペンケースを取り出した。



僕が座ってすぐに担当の教授が現れて、中央の黒板の前に立つ。それからバサバサと手に持っていた今日の講義の資料を一番前の生徒に少しずつ渡して、「では始めます」と言い、資料の解説から講義は始まった。





僕は真剣に講義を聴きながらも、目では彼女を探していた。「哲学科に入ったのだから、一年の前期はここに居るはずだ」と思ったからだ。



でも何十人も居る中で、一目しか見ていない人を後ろ姿から探すのは難しい。「やっぱり一番前に座って、何気なく見えるように振り返ればよかったのかな」と思ったけど、もし彼女を見つけた時、その瞬間の自分の顔を見られたらと思うと、とてもそれはできなかった。




その時、一人の生徒が教授の話を遮る。




「お話の途中にすみません。教授、よろしいでしょうか」



一番前にある左側のテーブルに座った女の子で、髪を高い位置でポニーテールにしている、ベージュのブラウスを着た子だった。その女の子が立ち上がる。



「なんでしょう」



女の子は教授に、有名な哲学者についての質問をしていた。





その声は、間違いなく彼女だった。あの鈴の鳴るような綺麗な声が、強い意志を響かせる。僕は胸が沸き立った。





彼女の質問に教授が答え終わると、彼女は「ありがとうございました」と礼儀正しく頭を下げ、また着席する。




居た!見つけた!でもどうしよう!どうすればいいんだ!?




僕は講義を聴き、必要な部分をノートに書きつけながらも、心の中で大きな迷いを抱えていた。彼女を探していたのは確かだけど、見つけたらああしようこうしようなんて、一つも考えていなかったからだ。



一体自分はどうしたいのかさっぱりわからないまま、僕は講義の途中で何度か彼女の後ろ姿を見ていた。



彼女は熱心に教授を見つめたり、ノートにせっせと何か書き取ったりしていた。それを見ていて、僕は満足だった。






「哲学への道」の第一回目の講義が終わり、生徒が教室からはけてゆく時、僕は鞄に持ち物をしまいながら、彼女を見ていた。彼女も僕と同じように鞄に資料などをしまって立ち上がる。僕は思わず足が前に動きそうになった。




でも、立ち上がった彼女の横顔を見た時、僕は何もできなくなって、そのまま突っ立って彼女を見送ってしまった。




彼女の真面目そうな眉と、迷いなく次の教室を目指しているのだろう目に、僕は彼女への尊敬を確かにした。




だからこそ、「彼女と知り合いたい」という僕の願望は、ひたむきに学業に専念する彼女にとっては、ただ邪魔なだけなんじゃないかと思ったのだ。






僕はその日の講義も全部終わり、帰ってからも勉強をしたが、寝る前にベッドに倒れ込むと、そのまま夢の中に滑り落ちていく意識の中で、彼女の横顔と、揺れる結び髪を思い出して、幸福な気持ちに包まれて眠った。





だけど、この時はまだ、自分が彼女に恋をしているなんて、僕は気付かなかった。








昼の学食の賑わいは僕は好きだったけど、あまり自分は輪の中に入っていけないので、いつも余った空席のテーブルを見つけては、そこで好物のカレーライスを食べていた。



その日も僕はカレーの乗ったトレーを抱えていそいそと空いたテーブルに就き、小さな声で「いただきます」と言って、スプーンを手に取り、ごはんとカレーを口に入れた。うん、すごく美味しい。ここの学食も、やっぱり美味しいな。



一人で喜んでカレーを食べていると、目の端に誰かが映って、顔を上げる前に「すみません、ここ、いいですか?」と聴こえた。僕は返事をしようと顔を上げかける。


「いいです…よ…」



僕の声は途中で途切れた。目の前に居たのが、「彼女」だったからだ。



彼女はおそらく「Aランチ」であろう生姜焼きの乗ったトレーをテーブルに静かに置き、僕の斜め前に座って、「ありがとうございます」と言った。



その時に初めて僕は彼女の笑顔を見て、体が痺れるくらいの喜びに襲われた。





まだ知り合いでもないし、言葉を交わしたこともないのに!それなのに、もう僕は、「一緒に食事をする」という幸運が得られた!





そのことで僕は舞い上がってしまって、しばらく顔を伏せたまま、じっとして震えそうになる体を抑え、テーブルの下でぎゅっと両手を握った。でも、いつまでも興奮は収まらず、彼女が静かに食事をしている音に耳をそばだてていた。



「あの…食べないんですか?」


不意にそんな声が降って来て、僕ははっとして顔を上げ、すぐにスプーンをまた手に取る。


「あ、た、食べます!カレーライス、好きなんですよ!」


「ふふ、そうなんですね」


僕はすっかり気が動転していたので、言わなくてもいいことまで言ってしまって、でも彼女はそれを怪しむこともなく、また笑顔を返してくれた。僕はそれがとても嬉しかった。天にも舞い上がる気持ちというのはこういうことを言うのだろう。


そして僕は、味も何もわからなくなってしまったカレーライスをせっせと口に運んで、その間に必死に考えた。




もしかしたら彼女は、僕が今、声を掛けて、友人になって下さいと言っても、嫌がらずに聞いてくれるんじゃないか…?



彼女の気持ちに甘えてしまうことにはなるけど、こんなに優しい人なら、突然の申し出だったとしても…!



その間に彼女は生姜焼きを二枚口に運び、美味しそうに食べていた。



いつまでも迷ってばかりいたら、彼女の食事が終わってしまう!思い切って声を掛けよう!



でも、なんと言えば…?



そうだ、入学式の挨拶は僕だって聞いていた!それでいこう!彼女の食事はまだ半分も進んでいない!少しなら話せるぞ!





僕は自分を勇気づけ、震えそうになる喉をなんとか抑えてから、口を開く。


「あの…僕、あなたの入学式の挨拶、聴きました…」


彼女はちょうど生姜焼きを口の中に入れたところだったので、僕を見て驚いた後、片手を前に出して「ちょっと待って」の合図をして、一生懸命に口の中のものを飲み下そうとした。


「あ、急がないで!ゆっくり飲みこまないと、詰まりますから!」


僕も慌てて彼女にそう言う。彼女はゆっくり生姜焼きを噛んで飲み下してから、僕を見てまた笑顔になってくれた。それはちょっと恥ずかしそうに頬が染まった、かわいい笑顔だった。


「…ふふふ、なんか恥ずかしいです。そう改めて言われると…」


「あ、すみません…」


「いえいえ。覚えていてくれる人がいたなんて、ありがたいです」


「そんな…だって…」



僕たちが少しだけ打ち解けた雰囲気になると、僕は、彼女についてどう思っているのかを、どうしても話したくてたまらなくなった。



尊敬していること。憧れていること。それを伝えて、どうにかしてこの騒ぎ立てる胸を鎮めたかった。



「…本当に立派な志を持ってこの学校に来たんだなって思って…長い間努力し続けたことも、すごく尊敬します。だから…」



彼女は僕の言葉をびっくりした顔で聞いていた。僕は一度言葉を切ってから、自分が言ったことを胸の中で反芻して、「自分はこの人に向き合いたいのだ」と感じた。



すると、体の緊張がピタリと止んで、僕の目はしっかりと彼女を見つめる。



「友達になってくれませんか?」



はっきりとそう言った直後に、やっぱり僕は後悔した。そして、また緊張が襲う。



どうしよう、木で鼻を括るように目を逸らされて、「いやですよ」なんて、つまらなそうに言われたりしたら。そんなことになったら、僕は立ち直れない!




僕は俯いて逃げてしまいたいのを我慢して我慢して、彼女を見つめていた。



沈黙がややあって、彼女は少しだけ顎を引いて上目がちに僕を見て微笑むと、「いいですよ、よろしくお願いします」と言ってくれた。




「あ…ありがとうございます!」






今にして思えば、なぜ僕はこの時、「友達になってください」なんて言ったんだろう。



体中が喜びに震えて、胸がしめつけられて時めくのも、頬が熱くなるのも、「尊敬する人を前にしているからだ」と思っていたからかもしれないけど、僕たちはとにかく、「友達」から始まった。





Continue.

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