第4話 深まる想い
三郎は本を読むのが好きな職人であった。
仲間の中には、酒を飲んだり女のところへ通ったりということに明け暮れている者も多いが、小さい頃に叔父の良助に読み書きを教えられた三郎にとっては、本を読むというのは当たり前の「遊び」だった。
しかし、紺屋の職人のところへ来る貸本屋は少ないので、やっと一人来た時には一度に五冊も借りて、貸本屋がそれを怪しんだくらいである。
幼い頃から難しい本も読みたいと勉強をしながら読んでいたので、三郎はかなり難しい読書も出来た。
育ての親を亡くして、「人のために生きる」と決めてからは、三郎は「人のためになるものとはなんであろうか」と考えるようになり、偉業を成し遂げた人物の伝記を読んだり、人の世の道理を見透かすような難しい小説を好んで読んだ。
そんな三郎がちょうどこの頃出会ったのが、松尾芭蕉の、「おくの細道」であった。
ある日いつものように弥一郎の店に現れて、「すごい本が来たぜ三郎さんよ」と誇らしげに一冊勧めてきたので、三郎はあまり気が進まないながらも、それを見料を払って借りてみた。
輝かしい伝記でも、厳かな話でもなく、当たり前の言葉で描いた景色が、こんなに美しいとは三郎は思っていなかった。
そしてその美しい景色を、自分の心と重ねて楽しんで、悲しんで、本当の心で喜ぶ。
それが巧みな筆で、決して気取らず気張らずに、ただ素直に書いてある。
それがこんなに心に染み入るとは思っていなかった。
それで三郎は初めて、自分や、他の人の生活の助けになるものを探すためという目的も無しに、読むだけで、文字を追うだけで自分が満たされる本に出会ったのだった。
三郎はそれまで、「人のためになるものは、町に住む人が住みよくなる決まりごとにあるのではないか」と考えていた。それはもちろん正しいはずであった。だが、この本を読んで三郎はそれを見直す気になった。
銭が無ければもちろん食べていくことすらままならない。擦り切れてぼろぼろの木綿物だけで冬の往来をうろうろし、物乞いをする者には、何より銭が必要だ。
「でも、それだけでは駄目だ」と三郎は思い始めた。
本当に人が楽しく暮らすためには、世の中の決まりが人々の暮らしの助けになることの他に、人々が世の中の美しさを知ることも大事で、それが出来なければ、銭を持っても金貸しのように意地汚くなるだけかもしれないし、悪くすれば金が元で身を滅ぼすことすらあるのではないかと三郎は考えるようになったのだ。
「松尾芭蕉」という著者の名前をしみじみと見ながら、三郎は、最後に人の生きる道を示してくれるのは、ただ目の前にある美しいものや、美しい人の心なのだと受け止めたくなった。
貸本屋に「おくの細道」を三日経って返した三郎であったが、寝ても覚めても芭蕉の書いた一文一文が蘇り、頭から離れなかった。
それらを読んだ時に感じた、目の前にある景色がじっと自分を見つめ返していて、案ずることなど無いのだと包み込んでくれるような、そんな気持ちを思い出してはため息を吐いて、また読みたくて堪らない恋しさを感じる日々を送った。
そして仲間に黙って少しずつ銭を貯め、こっそり本屋に行って、とうとう今まで手の届かなかった本を、一冊だけ買ったのだった。
「又吉さん!どうしたんです!?」
お花の叫び声からそれは始まった。
「又吉!どうしたんだその顔はぁ!」
ある日「吉兵衛」に現れた又吉は左目の下の頬に、真っ青に腫れた痣をこさえて、また済まなそうに笑ってもじもじと前掛けを両手で揉んでいた。
「ひどいやらかしをしたでなぁ、番頭さんがとうとう怒っちまいましてなぁ…おらぁ、商売の腕が良ぐねぇもんだから…」
そう言って又吉は俯く。
「いーや!そりゃあそんな傷じゃねえ!二度三度殴ったってそんなひでえ傷になるもんじゃねえ!ちくしょうめ!おめえんとこの番頭が悪党に決まってる!」
与助は又吉がやり返せない優しさを持っているから、番頭はそれに付け込んで憂さ晴らしのために殴ったんだと激昂した。
「そ、そんなことねえだ!おらのしくじりでお店に損がいったでぇ、こんぐれぇのこたぁ、仕方ねえですだ!番頭さんを責めねえで下せえ!」
「何言ってんだおめえ!そんな目に遭って黙ってるこたぁねぇ!」
「そんな…だってそんなこつ言ったって…」
「与助、与助、気持ちは分かるが又吉が困ってんだ。少し落ち着きな。もう少し話を聞けばいい」
又吉が泣きそうになって与助を止めるので、三郎も与助をなだめて、留五郎は与助の気が収まるまで又吉を慰めた。
お花は濡らした手拭を持って駆けて来て、必死になって又吉の頬に当ててやった。
「済まねえだあお花さん。おらぁ大丈夫だで、仕事に戻らねえと店が…」
「そんな場合じゃないわ!もっと自分の心配をして下さい!まあ本当に酷い怪我をして…本当に、酷い番頭…」
又吉が遠慮しようとするとお花は悲しそうに叫び、いつもの恥じらいも忘れて悔しそうに唇を噛みしめ、ぽろぽろと涙を零した。
それを見て又吉もそれ以上何も言えなくなってしまい、黙ってお花に頬を冷やしてもらいながら、下を向いていた。
その日の又吉は口数も少なく、詳しい事情を聞きたがる与助に「おらが算盤を間違えたで、大旦那に番頭さんが叱られたんでなぁ、仕方ねえんです」と決まり悪そうに笑った。
又吉は泣き続けるお花に「おらは大丈夫ですだ、もう大して痛くねえだ、さっき冷やしてもらったで、だいぶ具合がいいだよ」と声を掛けて慰めた。
留五郎や三郎は又吉に力の付くものをと、吉兵衛親方に柏の串焼きとゆで玉子を頼んだ。
「おらこんなに食えねえだぁ、みんなも一緒に食べてくだせぇ」
「それぁいいが、まずおめえが食えよ。こういう時は腹いっぱい食うもんだ。そうしなきゃ元気が付かねえぜ」
「ほんとに、ありがたいでなぁ、ありがとうごぜえますだ」
又吉は美味しそうにそれらを頬張ってにこにことしていたが、それで却って左目の下の腫れが痛々しく見えて、お花はまた泣いていた。
その日も門限があると言ってお店に又吉は帰ったが、お花は最後まで引き留め、留五郎達も「気ぃつけてな」と言ったり、「またきっと来るんだぞ」と励ましたりしていた。
弥一郎の店の大きな寝間では、どの職人も昼間の疲れで高いびきをかいてすっかり寝ていた。
寝乱れた布団が何枚も並べられた室内で、三郎は、部屋の隅にある行灯のすぐ隣に敷いた布団に座り、胡坐の上で本に目を落としていた。
夏も終わって秋めく江戸の夜は、どこか寂しい感じのする涼やかな風が簾の間を抜けてきて、行灯の薄ぼんやりとした灯りが、夏とは違って目に温かかった。
三郎は仕事が終わって湯から帰り、夕食も食べ終えて酒も飲み終わった今、「おくの細道」を紐解き、いつも通りにその味わい深さに夢中になっている。と、不意に三郎は顔を上げて、又吉のことを思い出した。
三郎は、それまで気にかかって迷っていた考えが急に晴れたように、はっとした顔をした。
その顔は行灯のほの明るさに照らされ、暗い闇の片頬と、ぼんやり明るいもう一方に、曖昧に分けられていた。
与助が又吉に昔の女の話をした時に、進んで同情をし、優しい言葉を掛けることを躊躇わず、又吉も泣いていたのを見て、三郎は「こいつぁ、あぶねえ」と思った。
おそらくは与助もそう思ったから、あの日又吉の後ろ姿を見送りながら、「あいつぁいい奴だが」と口にして、その先の「いい奴過ぎて心配になる」を言えなかったのだろう。
又吉は、自分の店であったことを忘れたくて、店に居場所がねえから、「吉兵衛」に顔を出すんじゃねえだろうか。
あの日、「番頭さんがとうとう怒っちまったでなぁ」と又吉が笑っていた時も、店から逃れたくて「吉兵衛」に来たんじゃねえだろうか。
三郎はそう思い至って本を閉じた。
「よお、紅葉でも見によ、俺達で正燈寺に行かねえか」
三郎がそう言うと、「すくも」のいいのを選っていた与助は露骨に嫌そうな顔をした。
三郎は、与助が正燈寺のすぐ近くにある廓の方に行きたいのは分かっていたので、「まあ女郎屋もいいけどよ」と先に言ってしまって、留五郎へも「紅葉狩りに行こう」と声を掛けた。
三人は親方に言って仕事の休みに紅葉を見ることにした。
おかみさんは出立する三人におにぎりを渡してくれて、「梅干しは入れてあるけどね、早くお食べよ」と言い添え、「気ぃつけるんだよ」と言ってにこっと笑った。
正燈寺は、江戸っ子皆が品川の海晏寺と並び称して「紅葉の名所」だとこぞって出かける場所で、寺に「繁盛」はおかしいが、紅葉の時期には訪れる者は多い。
浅草近辺ではあるが浅草寺からは離れており、その正燈寺のすぐ近くに、「北国」、いわゆる新吉原があって、「江戸の北の方にある寺」ということになる。
新大橋を渡ってからずうっと川伝いに上流の方へ足を進めていって、松平様の上田藩中屋敷に突き当たる前に瓦町の方へ折れて、さらにそこから右へ曲がって、素直にまずは浅草寺の前まで歩いて、裏へ回る。
それから吉原田んぼにぽーんと出てしまうと、途端に辺りは稲穂の海になった。
田んぼを突っ切って、正燈寺も含めていくつか寺がある方への道を進んでいると、与助と留五郎がふいっと三郎を見てから、こう言う。
「ああ、吉原が見えらぁ」
「そうだな、ちょっと歩けば行けそうだぜ」
少々残念そうに、三郎に聞いてもらいたくて二人はそう言ったらしかったが、三郎は、「寺が見えてきたぜ、紅葉もちらちら見えらぁ」と笑って返した。
留五郎と与助はため息を吐き、三人は正燈寺の門をくぐっていった。
寺の中では紅葉狩りに来たのか、娘や侍、町人らしき数人の塊が、ちらほらと見受けられる。
厳かな組み方の寺の建物が、よく見る坊主に似て、ゆったりと佇んでいる。いや、坊主が寺に似るのだろうか。
そして、その慎ましさとは反対に、野放図に素直な紅葉の葉が、燃え立つようにそこらじゅうに賑わっていた。
だが、陽気なはずのその赤色は、どこか深みのある暗さも持っている。
ベタベタと刷った絵草子の色とは違う、生きているものだけが見せる、無限の変化の色だった。三人はそれを見て、思わず息を漏らした。
「こらぁすげぇや…」
「俺達の染める布なんか目じゃねえぜ」
「留五郎、与助」
ふいに三郎が二人より前に進み出て、紅葉の葉に手をかざした。そうして二人を振り向く。
「俺ぁ、おめえ達が好きなんだ。綺麗な景色を一緒に見てえと思った。でも、それより大事なことがある」
三郎は真剣に、留五郎と与助を見つめる。留五郎達は何を言われるのかは分かっていなかったが、「おめえの言いたいことは分かっている」、そんなような顔をしていた。
「綺麗な景色を見るのは大事だ。でも、それを見る人間が、間違えのねえ心を持ってることが、一番大事なんだ」
三郎はなぜか、留五郎と与助に頼み込むような目を向けた。留五郎と与助はふんわりと微笑み頷いて、「もちろんだ」、「そうさ」、と三郎に言った。
次に又吉が吉兵衛に来たのは、秋も深まってきた頃の夕刻だった。
その晩、深川の紺屋連中と又吉は、いつも紺屋の連中が店が空いていれば必ず座る座敷に陣取って、楽しく一杯やっていた。
肴は秋ということで芋の炊き込み飯、それから刺身やなんかで、又吉は必ずいつも頼む三合のにごり酒と、紺屋の連中も少ない銭をいっぱいに放り出してどんどん飲んでいた。
その晩の話題は、まず、又吉のこの間の頬に抱えていた腫れがうまいこと引いて元の男前に戻ったこと、それから店での番頭の振る舞いなどを皆が聞きたがったが、又吉はへへへと笑うばかりだった。
「へえ、叱られてるけんどぉ、番頭さんだってあれぁ頭に血が上っただけだでぇ、あやまってくれたでよぉ…」と、なんでもなさそうに言う又吉に特に与助は納得がいかないようだった。
だが、もっと詳しく聞かせろと急き立てたり、番頭を責めたりすると、又吉が困ったようにしょんぼりとしてしまうので、留五郎がそこへ、「まあ今日は快気祝いだ、飲めや飲めや!」と又吉へ酌をした。
又吉は「ありがとうごぜえますだぁ、こりゃあええで、すまねえだぁ」と喜んでいた。
お花や吉兵衛親方も、ひとまずは安心したようで、お花はこっそりと前掛けで頬を拭った。
お花が一度酒を運んできた時に、「本当にすっかり治って、良かった。又吉さん。今夜はたんとあがって下さいね」と、店の自慢の、江戸前の刺身を置いていった。
又吉は「こ、こんなこつしてもらっちゃあ、はあ、ありがとうごぜえますだ、本当に、嬉しいだぁ!」と、酔っ払っていたところへの刺身に喜んだのか、お花の健気な眼差しへの返事だったのか、嬉しそうに笑った。
宴の席は大いに盛り上がった後、今度は皆が酔いが回って留五郎は眠たげに、与助は鼻を啜って、又吉は快さそうに刺身で酒を飲んでいて、ふっつりと全員が黙り込んだ時があった。
「又吉ぃ、おめえよ、本に興味ぁあるか?」
三郎がそう切り出したのはあまりに唐突で、その場に居た全員が怪訝そうな顔をした。
又吉も、出し抜けにそう言われたので、驚いて目を丸くしている。
それから、どうやらあまり本は読んだことがないんだというように顎を引いて恥ずかしそうに笑い、「おらぁ、字は読めても、本を買ったり借りたりする銭はねえだで…」と頭を掻いた。
三郎は微笑んで自分の懐に手を突っ込むと、その手でずっとそこに忍ばせていたらしい「おくの細道」を取り出して、又吉の前に差し出した。
「又吉、俺ぁおめえにこの本を貸してやろうと思うがどうでい。おめえはもしかするってえと自分の店に居る時にゃあ商売のことで頭がいっぱいなんじゃねぇかと思うんだがな。なんかに夢中になりゃあ、その苦労もねえと思うしよ」
そう言って三郎はにこりと笑い、それから一言、「おめえも忙しい身だ。無理とは言わねえ」と付け加える。
「へ、へえ、ありがとうごぜえますだ…でも、なんの本だでな」
又吉はなぜ自分が本などというものを勧められたのかよく分からないといった顔をしているようでいて、図星を刺された人間らしく頬を赤らめて控えめに笑っていた。
「「おくの細道」ってえもんだ。旅の本で、景色の様子や、そん時に読んだ俳句なんかが書いてある。ちいとむつかしいが、読めねえもんじゃねえだろう」
「へ、へえ…」
「商売にゃ関係はねえが、おめえさんはどうも根を詰める奴に見えるからな」
又吉はおずおずと手を出して本を受け取ると、座ったままで三郎に向かっていつものぴょこっとしたお辞儀をした。
「ありがとうごぜえますだ。ほんじゃあ、読んだら返しにぃ、またここに来ますでなぁ、今日はもう帰りますだぁ」
そう言いながら又吉は一同を見回してぺこぺこと顔を見てお辞儀をして、立ち上がった。
「うん、もう帰るのかい」
「門限がありますでなぁ」
重ねて礼をして、それから「お先に失礼しますだぁ」と、又吉は帰って行った。
又吉が行ってしまってから、留五郎が三郎を見る。
「おめえもよ、思うことがあるか」
留五郎が切羽詰まったような目でそう言うと、三郎は留五郎を見ずに「なんだ」と返す。
「又吉を見てて、よ」
三郎は、留五郎にあまり気のない目をちろっとくれてやってから、膳の上に乗った、又吉が残していった空の皿を見ながら、「そりゃあな…」とつぶやいた。与助も酒を飲むのをやめ、黙って顔をしかめている。
誰も又吉についての話なんかしたことがないのに、もう皆暗黙の了解を前置いて話をしているように、空気は一様に重く、ほかの席から響いてくる笑い声は、そこには届かなかった。
紅葉の見ごろもとうに過ぎ、それから厳しい冬が迫っていた。弥一郎の店でその朝いつもの通りに目覚めた留五郎は、布団を畳んで押し入れに仕舞い、井戸まで来て顔を洗おうとしていた。
「おお冷てぇ、ったく冗談じゃねえやい」
井戸から汲んだ盥の水は氷のように冷たく、顔に当てているだけで全身が痺れてくるようだった。
さすがの留五郎も愚痴をこぼしているてころへ他の職人がやってきて、「早くあったけえ味噌汁が飲みてえよなぁ」と付け足し、「おうよ」と留五郎はそいつに手桶を渡してやった。
店の者の食事は、さほど職人が多いわけではないので飯炊きに雇われてくる女もなく、店のおかみであるおそのが一手に引き受けていた。
おそのはなかなか料理が上手かった。
更によく気のつく人物で、咳き込む職人には「大事にしなよお前さん」と声を掛け、職人達が暮らしやすいようにと目配りを怠らないようにしていた。
弥一郎と一緒に歳を重ねはしたがおそのは美しさの面影を絶やさず活き活きとしていて、「まだまだ捨てたモンにゃ見えねえ。傍目にゃ本当の歳より五つは若えよなぁ。俺もいつかあんなカミさんもらって、親分やりてぇなぁ」と、職人達から憧れられてもいた。
そうしておそのは職人達に半ば崇拝される形で、皆が母親の手助けをしたがる子供のように、おかみの仕事である掃除や洗濯、水汲みなどを進んで手伝った。
留五郎は顔を洗い終わって、おそのが台所から膳を運んでいるのを見つけたのでそれを手伝った。
他の職人も幾人かそうして全員の膳やおひつを運び終わると、朝飯だ朝飯だと喜んで旨い飯を頬張った。
留五郎は浮かない顔で、又吉のことを思い出していた。
弥一郎は職人達をいつも言葉で労った。そして、若い職人などがまずい仕事をした時などでも、ただ叱りつけて終わりにはしなかった。
どうまずいのか、どうしたらそうならないのか丁寧に説明し、良いところがあればそこも取り上げて褒めた。
その上で、また同じように信頼して仕事を任せる。そうすると職人は奮起して、「次こそは」と腕を磨くので、皆がどんどん上手くなっていった。
弥一郎はそれを満足に思っていることを皆に伝えた。そうして弥一郎の店は上手くやっている。
「商売ごとだって人と人との関係が上手くなきゃあ上手くならねえ。俺が親方を張るなら、職人がやる気がねえとか、仕事がまずいなんてえことがあったとしたら、そりゃあ俺のやり方もまずいんじゃねえかと、一度振り返れないようじゃなきゃあ、本当の親方じゃねえ」。
弥一郎が一度、店の者全員で飲んだ席でそう言った時に、留五郎は「この親方は本物だ」と確信した。
どの商売人も同じように良い心掛けを持っているわけではないことくらいは、十や十一になれば分かってくる。又吉が散々殴られて「吉兵衛」に現れた時も、又吉は自分を殴った番頭の肩を持った。
よりにもよってそんなに優しい奴が、心無い商売人にいいように殴られているのかと思うと、留五郎は我慢がならなかった。とはいえ、自分にはどうしようもない。
それが歯がゆくてやるせなくて、友達を助けてもやれねえことも、それなのに自分は十分過ぎるほど恵まれていることにさえも、一瞬腹が立った。
だがすぐに、親方の名を汚すかもしれねえと思い止まり、「何か出来ることはねえのか」と、悶々と悩み続けていた。
つづく
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