第3話 江戸の祭りと男の未練
「火事と喧嘩は江戸の華」であるが、もう一つ忘れてはいけないのは、祭りである。
祭りとなると目の色を変える江戸っ子達は、夏も終わりだがまだまだ残暑の厳しい中、夏祭りに血を躍らせて噂話をしていた。
「よおよお、そろそろ八幡様の祭りじゃねえか」
「ああ、そうだなぁ」
弥一郎の店では、職人連中が藍甕にまたがったり、漬け終わった布を干すために運んだりしている。
留五郎は祭りに思い巡らせて目を輝かせ、三郎は今やっと思い出したかのように、ぼんやり頷いた。
「けっ、なんだいおめえはよ。いつも本ばかり読んでるからそうだってんだ。いいか、祭りの日にもそんな風にぼさっとしてやがったら、踏み殺されちまうぞ!」
留五郎がそう言っている間も三郎は仕事の手を止めず「分かってるさ、気の荒い連中ばかりが出るんだからな」と、他人事のように甕に向かってつぶやいた。
「どうもおめえは頼りにならなくて困るぜ」
留五郎もそうぶつくさと独り言を言いながら、いい浸かり加減の布をよって甕から取り出し、それを干そうとその場を離れて行った。
富岡八幡宮の祭りの前の晩、弥一郎の店の職人達は、垢を落として祭りに臨もうと念入りに湯屋のぬか袋で全身を磨き上げて、前夜祭だとわっと騒いで酒を飲んだ。
朝起きて飯を食うと褌を締め直して紺の法被に全員身を包み、三尺の手拭でそれを身へ括りつけて鉢巻を締めると、意気揚々と外へ出たのだった。
富岡八幡宮の本祭は、江戸の各町内から一つずつ神輿が出る。町内の神輿を担ぐのに、弥一郎の店からは一番血気盛んな留五郎が出たが、それ以外の者も晴れの日に憂さを晴らすため、神輿の通り道で大声を上げて、担ぐ者に向かって水をぶっつけ、そして江戸の者全員が酒を酌み交わし合えるこの日を喜んだ。
富岡八幡宮の近くは、まるで日本中から人を集めたような賑わいだった。
道の両端には祭り客目当ての屋台がずらりと並び、やっと神輿が通れる幅を残して人が詰めかけていた。
ただでさえ暑いところへ人が多いとなれば、まるで鍋から立ち上がる湯気のような湿気でそこらじゅうが煮えたぎるような暑さになり、ピッピキピッピキと高く鳴るお囃子が人々の心を急かした。
まずは、八幡宮の神職についた者が煌びやかな神輿の上で恭しく大幣を振り、神社の者が厳かに太鼓を叩く。
そして舞姫が人々に良く見えるようにこれもまた神輿の上に乗って慎ましく舞い踊り、それが終わるとおひねりが神輿へ投げ込まれた。
祭りに合わせて着飾った江戸の娘は舞姫の美しさに感嘆し、皆憧れの目で見つめていたし、男達も舞姫のことばかりはまるで人間でない者であるかのように有難そうに見ているのであった。
それから各町内から神輿が一つずつ出る番になる。いくつもいくつも数えきれない神輿が通り、それぞれの町から選り抜きの男達が「わっしょい!わっしょい!」と道中通して担ぎ声を上げた。
男達は八幡に近づく頃になって声が枯れてしまおうとも休むことなく叫び続け、滝のように汗を流していた。
道の両側に居る男達は「しっかり担げー!もう少しだぞー!」と励ました。誰も彼もが神輿を担ぐ者に向かって水を掛けた。
「おお!来た来た!あれだ!あそこに留五郎がいらぁ!」
八幡宮の少し手前に、弥一郎の店の者達は居た。
与助が神輿を担いでこちらへやってくる留五郎をちらりと見つけると、弥一郎も職人達も、おかみさんまでもが大喜びして、暑さに喘ぎながら神輿を担ぐ留五郎と、我が町内の職人達へと、「それっ!」と水を掛ける。
「わっしょい!わっしょい!おお親方!みんな!見てておくんなぁ!」
留五郎はびしょびしょになって陽の光をきらきら浴びながら、にかっと笑って八幡宮へ進んで行った。
昼下がりになると留五郎も戻ってきて、店の者達は親方も残らず「よくやった!」「おめえはほんとの江戸っ子だよ!」と留五郎を労って酒を注いだ。
留五郎は撫でくり回されることに照れながらも注がれる酒を一通り飲むと、「腹が減ったから、俺ぁ飯食ってきやす」と言い、「じゃあ俺達も祭りの屋台でも回るか」と、弥一郎一団は散り散りになった。
「与助!三郎!まずは寿司だな!」
そう言って振り向いた留五郎に与助と三郎はついて行き、近くの屋台で良さそうな寿司を探した。
寿司をつまんでは酒を飲み、天ぷらを手に持って祭りを眺めては水菓子の屋台に飛びつき、最後に留五郎は好物の鰻の串を屋台の親父に頼んでいた。
「ほれ、与助、三郎」
留五郎は屋台から少し離れた二人の元へ戻ってくると、二人にそれぞれ鰻の串を渡した。
「なんでい」
「くれるのかい」
「おうよ!まあ食えや!」
「悪いな留五郎」
「じゃあいただくとするか」
三人はそれから八幡を離れて隅田川へと歩みを進めた。
近くを転げるように走る子供、それを諫める母親や父親。
それから店先の床几に腰を降ろして朝から酔っぱらっていたような真っ赤な顔をしている爺さんや、気怠い呼び声を出しながら食い物を扱う屋台の親父。
茶屋の娘は明るい声で客に返事をして茶や酒や団子を運び、少し遠くでは酔っ払いの喧嘩の声も聴こえてくる。
しばらくすると永代橋が見えてきて、土手を降りた三人は少しずつ夕焼けになっていく隅田の川辺で、葦の生えていない芝生の上を選んで腰を下ろした。
留五郎は座った時にようやく鰻を食べ終えて、一つ大きな伸びをしてから、ごろりと横になった。それを挟んで与助と三郎も寝転がる。
「ああ~、それにしても!くたびれたぜ~」
そう言って留五郎は晴れやかに笑った。
「そりゃあそうだ、神輿担ぎは伊達じゃねえ」
三郎は留五郎の顔を見て、そう言った。
「そうだ、神輿は大変な苦労だからな、食って飲んで寝ちまえよ」
与助は留五郎を励ましていた。
すると急に留五郎はがばと立ち上がって、夕焼けに向かって背を伸ばして両手を上げて叫ぶ。
「俺ぁよ!江戸に生まれて幸せもんだぜ!なぁ!」
与助と三郎も起き上がってそれを見ていたが、「ほんとにおめえはいい奴だぜ」、「ありがとよ、トメ」と言った。
祭囃子が染み渡る夕焼けの真っ赤な空に、三人は笑った。
又吉と紺屋の職人連中は吉兵衛の飯屋でたまに顔を合わせると、顔馴染みとして接するようになっていた。
ある晩吉兵衛が提灯に火を入れる時分になると、またいつものように又吉は現れ、「親方、飯と酒を頂きたいんで…」とはにかむように笑った。
その日は店には人が多く、若侍が一人と、その連れの白髪の混じった髷の、上役らしき侍が奥の座敷に居た。
それからその隣の座敷には、銭が掛かっているわけではないが洒落た身なりをした若い町人が三人居て、店の馴染みで毎日来ている甚五郎爺さんは、その日も着た切りの錆御納戸の甚兵衛で床几に座って飲んでいる。
甚五郎爺さんの座ったのと一本間を空けた、道にはみ出した一番端の床几に紺屋の連中三人は掛けていた。
「おう又吉ぃ!久しぶりだなぁ!ここ座れや!」
与助がそう声を掛けると、又吉は「ありがとうごぜえますだ、失礼するでなぁ」と床几に腰掛け、三郎の隣に留五郎、次に与助それから又吉、の順になった。
店ではいろいろな声がしていて、侍二人は世間話に興じているようで時々笑い声を漏らしたが、至って大人しく飲んでいた。
だが、隣の若い者三人は芝居小屋の帰りと見えて、今度名代になった奴はあんまり見込みが無いだの、いやそんなことはねえ、あそこまで堂々と演る奴ぁ大したもんだだのと、ずいぶん酔っぱらっているようで、声高に議論をしていた。
お花はその座敷へ燗酒を運んでやっているところであった。
「お花ぁ、又吉さんへにごりを三合なぁ!」
「えっ?はい!はいただいま!」
又吉の来たことにお花は気づいて、慌てて酒を汲みに行き、その日は又吉の好物の烏賊があったので、ワタ焼きと、それから吉兵衛が蛸の煮つけを勧めたので、勧められるままに又吉はそれを頼んだ。
又吉と紺屋の連中が近頃までの様子を聞き合ったり、三郎が先の祭りで留五郎が神輿を担いだ話をして、又吉はそれを嬉しそうに聞いていた。
留五郎がさらに詳しく祭りで練り歩いた道の様子や神社での出来事を語ったりなどしているうちに、お花が酒を運び、煮つけとワタ焼きを膳に乗せて運んできた。
「ありがとうごぜえますだぁ」
「いえ、ではまた御用の時に…」
お花は控えめに微笑んでから決まり悪そうに又吉から目を逸らしてすぐに洗い物へ向かったが、去り際のお花の顔を見て三郎は一人でふふっと笑った。
しかし口に出すのは野暮と思ったのか、黙って手酌で酒を注ぐ。
留五郎達は肴は焼き烏賊だったらしい。三郎と留五郎の間の膳の上の皿にはゲソが残っていて、与助は烏賊を串から喰い千切っていた。
又吉は運ばれてきた膳から、まず蛸の煮つけを箸に掛けて口へ運ぶと、二口三口噛んで、びっくりして与助に叫んだ。
「蛸が柔らけえだ与助さん!」
与助はびっくりしてしまって、「はあ?」と素っ頓狂な声を上げ、留五郎と三郎も驚いて笑ってしまっていた。
「おら一回だけ江戸のお寿司の屋台見世で蛸を食っただ!でも硬かったでよぉ!」
「弱い火でな、じーっくり煮込むんだ。そうするとうめえんだよ」
まな板の前に居た吉兵衛親方は嬉しそうにそう言って笑っている。
「そうなんですけえ!こったら柔らけえんなら、はあ、うめえもんですなぁ!」
奉公人で、まして田舎に帰って商売をするという目当てのある又吉には、料理屋で丁寧に作られた品を味わうことなど、滅多に出来ることではなかった。
おそらく屋台の寿司も、思い切って一度だけ、のつもりの贅沢だったのだろう。
それを察した留五郎は「ここに来りゃあ、いつでもうめえもんが食える」と言い、「吉兵衛親方の腕は確かだからな」と三郎が言い添えて、「飯に困ったらここに来て、俺達んとこに来りゃあいい」と与助はいくらか心配そうな顔で又吉の肩を叩いた。
「いえ、そんな…そんなことしてもらっちゃあおら…」
三人が優しくしてくれるので気が引けてしまったのか、又吉はおどおどと落ち着かない様子だったが、「ありがとうごぜえますだ」とまた頭を下げた。
「それでよぉ又吉。おめえ商売の腕は上がったか?」
留五郎が違う話を切り出そうと又吉にそう聞くと、又吉は恥ずかしそうにへへへと笑って頭を掻き、「あんまりうまいこといかねえもんでなぁ、番頭さんに叱られてばっかりだでなぁ」と答えた。
「そうかい、でもよ、番頭なんていい奴悪い奴いくらでも違うもんだ。叱られても気にしねえで、おめえの仕事をしな。それでうまくいくんだ」
留五郎がそう返すと、「へえ、ありがとうごぜえますだ」と又吉は嬉しそうに頷いた。
それからいろんな話をしていたが、与助が酔っ払い始めると、またいつもの調子でぐすぐす泣き出して、昔の女の話を始めた。
「俺ぁ惚れた女が居たんだ…」
「まーた始めたぜこいつぁ!もう勘弁してくれよ!」
留五郎はそう叫んだが、それをじろりと与助が睨んで、「おめえに話してるんじゃねえ、又吉に話してんでぃ!」と酒臭い息で言い返した。
そしてすぐに又吉に向き直って、酒を飲みながら昔の思い出を語った。
「俺ぁ、ある晩吉原へ行ったんだ…気の合う花魁が居て、なじみになって、花魁は年が明けたら必ずお前さんと一緒になるんだなんて言って…紺屋の仕事の話まで、いちいち聞いてきたりしたんだ…でも、ある時俺ぁ金に困って吉原へしばらく行けなかった。その内にぁ花魁の年が明ける日が来るってえのに…それで、俺のところに花魁の店から手紙が来た。花魁からだ。紅衣という名だが、本当はお藍だった。お前さんが紺屋なら縁起担ぎになるなんて花魁言ってたんだ。手紙には「兼ねてより交わした起請の件について御相談有。早急に来られたし 紅衣」と書いてあった。俺ぁ行きたかった。本当に行きたかったのに、金が無かったんだ…そこら中駆けずり回って、知り合い連中みんなから金を借りようとして、みんな断られた」
与助は、まるでたった今、知人から金の無心を断られてきたように、しょんぼりと項垂れた。
又吉はその与助の顔を心持ち覗き込むように不安そうな顔で話を聞いている。
夏の夕暮れの寂しい風が、柳屋の店先にざあっと吹いた。
「それから、二回目に、花魁の年が明ける十日前にも手紙が来た…「今日を限りに逢うこと叶わず 至急来られたし」…そう書いてあった。給金の前借りをしようとしたら、その前の月の前借りがしてあるって言うんだ…わかってた。それに、吉原へ行くために給料の前借りなんか出来るもんじゃねえ。…それで、花魁の年が明ける日から三日経って、ようやく金が出来て、慌てて花魁の店へ行ったら…花魁、居ねえんだ。影も形もねえ。若い者まで「年が明けたので花魁は居なくなりました」なんて当たり前に言いやがる。俺が起請を出して見せて、今どこに居るのか言えと言ったら…そいつぁ「そんなのはわからないし、それを本当に花魁が書いた証拠もないです」なんてすげなく言って、「お遊びにならないんですか」なんてこと言いやがった…俺ぁそいつを堪らず突き飛ばしちまって、店ぇ帰って泣くしかなかったんだよ…」
鼻を啜って下を向く与助に、又吉はその肩を支えようとしたのか片手を上げたが、その手は戸惑って揺れていた。
「約束はほんとだったのに、花魁は居なくなっちまった…今どうしてるのかわからねえ。もしかしたら、俺が行かねえもんで、外へ出てっても生きていくのが嫌だなんて、もうこの世に居ねえかもしれねえ…それか、店への借りを返す金に困って俺を頼ったのに、俺が行かねえから、金が出来なくて首をくくったかもしれねえ…それを思うと…。お藍。そういう名前の女だった…おっかさんに似た、綺麗な女だった…」
そこまでを話す時には与助はぼろぼろと涙を零し、必死にそれを拭っていた。
又吉はいつの間にか一生懸命与助の肩をさすってやっていて、「そうなんけえ、そうなんけえ、それは悲しかろう、さびしかろうなあ与助さん…」と、目に涙を溜めて与助を慰めていた。
しばらく又吉が慰めていると与助の涙は収まってきて、「ありがとな又吉、もう大丈夫だ」と与助は力なく微笑んだが、又吉は心配そうに「ほんとに大丈夫け?」と聞いた。
それがあんまり真剣に聞いたもんだから、与助が「大丈夫だ。こんな話は良くあるんだぜ」と、冗談ごとにして話を終わらせようとしたくらいだ。
その後又吉は、三合の酒を飲んで肴を食べ終えると、「門限があるでなぁ、失礼します。親方、馳走になりまして、お花さん、お代です」と銭をお花の手に握らせて、帰って行った。
与助は又吉の背中を見送りながら、「あいつぁいい奴だが…」と言い掛けて、独り言だったかのようにまた酒を飲んだ。その様子を、三郎は注意深く見つめていた。
つづく
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