二人の夜が明けるとき

第27話

 自分が誰なのか分からなくなった時、人はどんな思いを抱くのだろう。

 私の場合、まず初めにやって来たのは恐怖だった。

 あの日、神社で我に返った直後、私は必死になって我が身に何が起きたのかを知ろうとした。

 事態を冷静に分析する余裕など有りはしない。日が沈み、また東から上って西へ消えるまで。身体が半透明な理由をなるべく考えないようにしながら、私は道行くありとあらゆる人に呼び掛け、ひたすら助けを求め続けた。

 全て無駄だった。

 高校生らしき少女。会社員らしき男性。農家のご老人、エトセトラ。皆が皆、恐ろしいほどに私を無視した。彼らに私の声が聞こえていないと悟るまで、そう時間はかからなかった。

 だけどそれでも諦めない。この辺りを彷徨ってみれば何か分かるんじゃないだろうか。そう思い、神社から外に出た私だったが……すぐに、酷く後悔させられることとなった。

 知らない町。知らない場所に一人きり。四方から人が、自転車が、私に向かってきては突き抜けていく。勇気を出して伸ばした手は、誰かの肩を虚しくもすり抜ける。お互いに干渉出来ず、世界が自分をいないものとして扱う。

 もの凄く怖かった。

 自分は死んだ。そんな無慈悲な結論へと行き着いた時から、私の世界は絶望に染まっていった。

 自分は誰。どうしてこうなったの。どうして誰も助けてくれないの。どうしてこんな目に遭わなきゃならないの。どうして、どうして、どうして……!

 散々に悩み、苦しみ、心を砕き。ついには考えることを止める。涙はすぐに涸れた。己の運命を果てしなく呪い続けて、いつしか日の巡りを数えることさえしなくなった。

 私が“彼”と出逢ったのは、そんな時だった。

『……こんばんは?』

 おそるおそる。そんな感じの一言目。私に向けられた初めての言葉に、心臓がどくんと鳴る。胸の奥に詰まっていた氷が溶けて、自分がようやく人間へ戻れた気になれた。

 一夜を共にする間、私と彼は色々なことを話した。夜明け前に教えて貰ったその名前は、私の魂に心地良く刻み込まれて。そして翌日も逢う約束を交わす。

 その日から、優くんは私の光になった。

 惹かれ始めた時期は思い出せない。けれども多分、すぐだった。いくばくかの素っ気なさを内包した彼の優しさは、疲れ果てた私の心を急速に癒していった。

 優くんといれば自分が自分になれていく。何気ない仕草。曲がりくねった冗談。憂いを帯びた横顔や、柔らかな微笑みがいつしか宝物になって。やがて私は恋に落ちていた。

 だから優くんが生きていると知った時……私は悩んだ。

 試しに一人で出歩いてみよう。そんなささやかな勇気を出し、訪れた大学図書館の中で、調べ物に勤しむ彼の姿を偶然にも見つけてしまったのである。

 他人の空似かとも思ったが、私の心が本物だと叫んでいた。好きな相手だ、見間違える筈は無い。優くんも幽霊なのだとばかり考えていた私は、自分でも驚くほどに動揺してしまって、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 そして同時に疑問も生まれた。

 優くんが生きているなら、夜にやって来る彼はどうして半透明なのだろう。

 どうして毎晩、嘘を吐いてまで私の元へ来てくれるのだろう。

 期待してもいいのだろうか。

 死人が生者に、想いを寄せることは禁忌だろうか。

 いつまでたっても答えは出せず、やがてその日の夜が来る。いつもの優くんの顔を見た時、私は素直になろうと決めた。自分の心と欲求に、どこまでも真っ直ぐに。

 それが失敗だったかと訊かれれば、私は迷わず首を横に振る。

 抱いた恋は誤魔化せない。たしかに多少は不安だった。告白の夜、最後まで一緒だと囁かれたあの夜も、心の片隅に怯えがあった。優くんと過ごす楽しい時間は、永遠じゃないと知っていたから。

 けれどそれ以上に、得られたものの方が多かった。

 明言しよう。私は幸せだった。優くんと出逢えて良かった。仲良くなれて良かった。両想いになれてこの上なく嬉しかった。

 だから。

 ……だから。



「やっぱりそうだったんですね」

 私がそう答えると、優くんは驚いたように目を見開いた。それから優しく私の手を取って、扉の先、彼の部屋へと入るよう頼んでくる。

 深呼吸してから彼の後に続いた。優くんの匂いに鼻をくすぐられて、心臓の鼓動が段々と加速し始めていた。

 私は後悔しない。

 たとえこの先に待つものが、彼との永遠の別れであっても。

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