第26話

 戦いは、ルリの予想よりも長引いていた。

 迫り来るパンチを掻い潜りながらルリは膝蹴りを放つ。数発目にしてやっと直撃を果たしたそれに、彼方は呻き声を上げて身体を折り曲げた。そこへ上から追撃の拳をくらわせる。肩甲骨とうなじに一発ずつ。そこまでしてどうにか、ルリは屈強な彼の身体を地面へと叩き伏せることに成功した。

 素早く腕を掴み、捻り上げる。青年の時より二回りは強めに。

「いっ、てぇなぁっ……!」

「動かないで。折るよ」

「ぎっ……がぁあ!」

「動くなと言っているでしょう?」

 この台詞、実は今ので二回目だった。

 一度目はなまじ手心を加えたせいで拘束から抜け出され、反撃のキックを受けて色々と面倒なことになった。

 鍛えているのか、思いのほか手強い。そう悟ったルリは、彼方に大怪我をさせない程度まで手加減を緩めた。それから持ち前の素早さで彼を翻弄し、徹底的に打ち伏せ、叩きのめしたのだった。

 己の下で藻掻く男に対して、ルリは取り返しの付かなくなる寸前まで腕に力を込める。

 彼方は目を見開いて苦しげに喘ぎ。それでも十秒以上耐え抜いた後で、ようやく観念したかのようにその顔を伏せた。

「……そう、それでいいの」

 彼は完全なる邪魔者だ。

 既に到来しつつあった計画の崩壊は、この男の登場でついに不可避となった。正直に言って憎たらしいことこの上ない。だが恨みに任せて人殺しを犯すほど、ルリの心は荒れ果ててもいなかった。

 理性と怒りが共存した結果、自分はここまでの時間稼ぎを彼に許してしまった。そう思えばもう何もかもが虚しくなってきて、ルリは大きくため息を吐き出した。

 夜風が戦闘の熱気を奪っていく。もはやあの二人には追いつけない。向かいそうな場所の心当たりはあるが……今夜だけは、見逃すことにしよう。しぶとく抵抗してきたこの男に免じて。

「……ホント最悪。誰かのせいで何もかもめちゃくちゃ」

 悪態をつきつつ彼方を解放する。微妙に苛立ちが抜けきらなかったが、彼を虐めることで発散するのは流石に憚られた。こいつは別に悪人ではない。

 肩を叩いて呼び掛ける。

「起きて」

「いっ!?」

 痛かったのだろう、彼方の身体がビクリと撥ねた。

「……おい、何すんだわざとだろ!」

「失礼な、偶然よ」

「この野郎……!」

「おっと、悪いけど殴り合いはここまで。これ以上は流石に無意味なだけだぞ、青年の友人」

 戦うつもりはない。両手を上げて降参の仕草をすれば、相手も握り締めた拳をしぶしぶ解く。

 彼の頬には青紫の痣が出来ていた。頭部と急所はなるべく狙わないようにしていたのだが、間違えて一蹴りだけ決めてしまったのである。我ながら痛そうだ。しばらくは目立つことになるだろう。

 そのことに微妙な罪悪感を覚えながら、ルリは大岩の上で細長い足を優雅に組みあわせた。

「……アナタってバカだね」

 呼び掛けてみたが、彼はあぐらをかいたまま無視をしている。

「普通、友達のためにここまでする? アタシのこと化け物だって分かっててさ、よくもまあ立ち向かってこれたよね。殺されるとか思わなかったの?」

「……」

「ねえ理由を聞かせて? 黙秘権はここじゃ認められない」

 ルリがしつこく言い寄ると、彼方はあからさまに面倒くさそうな表情を浮かべて答えた。

「……初めて見たんだよ」

「何を」

「あいつがあそこまで覚悟決めた顔」

 その口調はどこか誇らしげで。顔だけをルリの方に向けた彼方は、肩を竦めてから朗々と続ける。

「お前の言い分もまあ分かるぜ? 死んでもいいから一緒にいるなんて、俺でも真似出来ねえし、馬鹿で無鉄砲だと思う。だけどそれはよ、そこまでしてもいいって思えるくらいにあいつが好きな相手と出逢えた証拠だろ? 祝いこそすれ、俺たち第三者が難癖付けるのは駄目なんじゃねえの?」

「っ……それは、確かにそうかもしれないけど。でもアナタが妨害してくる理由にはなってない」

「そんなの簡単だ。親友の恋は応援するもの、だろ?」

 不敵な笑みにルリはあることを悟った。彼と自分はこうして対立しているけど、根っこの部分はきっと同じなのだろう。どちらとも青年のことを大切に思い、青年のために行動を起こした。単に矢印の向きが真反対だっただけだ。

「類は友を呼ぶって本当ね。お人好しの友達はお人好し、か」

「優の方が格上だけどな」

「……へえ。彼、そんな名前なんだ?」

「ちなみに名字は早乙女だ。……知らなかったのか?」

「うん。だけど……ここまで来たら知らない方が良かったかな」

 辛くなるだけだもの。口にしかけた言葉をルリは寸前で飲み下し、代わりに想い人の名前を舌で転がす。優。早乙女優。ずっと前から訊くに訊けなかったその響きは、彼から貰ったホットミルクと同じ味がした。

「はぁーあ」

 胸元をさらけ出すことも気にせずに、ルリは大きく身体を反らす。そのまま大岩に上半身を預ければ、視界には果てしない天空が広がった。

 綺麗な星空。彼も自分と同じように、美しいこの景色を見ているだろうか。決して届かぬ無限の想いを、そんな小さな願望に託す。

「ねえ、どうしてそっちを選んだの、優くん?」

 問いへの答えは返ってこない。

 端から求めてもいなかった。

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