黒猫の涙

第22話

 幽体離脱を控えるとは明言したが、止めるとは一言も言ってない。

 ルリを引っ掛けた。その事を弁明しようとは思わない。服従したふりをするのがあの時は一番利口だったのだ。無理に抵抗しようものならルリに何をされていたか分からない。

 最も不安だったのは、彼女に僕の演技が見破られないだろうかということ。あんなのは所詮小手先の子供騙しで、僕が何一つ彼女の要求に応えていないのはよくよく考えれば分かることだった。

 しかし幸いにもルリは満足し、そそくさとどこかへ帰ってくれた。微妙に罪悪感も残ったが、少女と逢い続けるための必要経費だと割り切ることにする。

「……今夜、どうしようかな」

 こうしてルリに見付かった以上、もう今まで通りにはいられない。彼女だって、僕の返事を完全に信じ込んだわけじゃないだろう。警戒くらいしている筈。何か策を講じなければ、僕たちはまた発見される。そして二度目のチャンスは無い。

 僕を押し倒した時の気迫から考えるに、今度の彼女は方法を選ばず止めに来る。そうなるのを防ぐために、僕には画期的な作戦が必要だった。人の目も猫の目もかいくぐって、この部屋から神社まで向かい一夜を過ごす、安全で確実な作戦が。

 腕を枕代わりにして、僕は絨毯の上へ寝転がった。

 さっきまでルリが座っていた位置からは、爽やかな柑橘系の香りが微かに漂ってくる。それはあの娘の匂いに似て甘く、けれど僕の胸を高鳴らせないという点で決定的に別物だった。

「……落ち着け、自分」

 考えろ。暗示をかけるようにそう言い聞かせる。

 僕に与えられた時間は、今から時計の短針が一周するまでだ。

 それで十分かどうかは……多分、夜になれば分かっているだろう。



 いつものように風呂と夕食を済ませ、寝間着へと着替えた僕は寝台に横たわる。

 いよいよだ。部屋の明かりを落とすと、僕は迷わず瞼を降ろした。やがて魂が肉体から離れる浮遊感と共に、途絶えかけた意識は再び明瞭なものになる。

 何度目かも分からない覚悟を決めて、僕はゆっくりと身体を起こした。

 世界は凪いで、静けさに満ちていた。本来は心地良い筈の清涼さが、僕の緊張を否応なしに煽り立ててくる。傍に誰かがいて欲しい。そう、こんなにも強く思ったのは初めてだった。

 ふと、半透明の我が身を見つめる。あとどのくらいこれを繰り返せるだろう。今更だが、僕のやっていることはやっぱり異常そのものだ。

 綱渡りって、もしかするとこんな感じかな。まあ僕の場合、その綱自体が切れかけてる状態だけど。

「……よし、行こう」

 まずは玄関から顔だけを出して偵察。左、右、どちらにもルリの姿は無い。安全を確認した僕は足早に階段を駆け下り、そのままアパートの敷地を離脱した。

 靴と動きやすい私服。頭の中でイメージを固めれば、それに合わせて僕の服装も変化する。シャツとジーンズ、スニーカー。万一の場合に備えて、いつもより運動向きのファッションにしておいた。

 周囲の様子に気を配りつつ、僕はこれまでと別のルートを通って神社を目指す。

 学生とはいえ一年半も住んでいれば、この辺りの地理には嫌でも通じてくる。細道、裏道、道なき道。猫のルリには敵わないだろうが、それでもある程度は詳しくなった。

 散々頭を悩ませたが、僕は結局まともな作戦を思いつけずにいた。しかしすべきことは分かっている。まずは神社へと辿り着く。真相を誤魔化しつつ彼女を連れ出す。ルリの目が届かない場所を見つけ、それからはそこで待ち合わせるようにする……こうしてみると、まさしく絵に描いたような無計画さだ。だがやるしかない。

 小道を使って県道を大きく迂回。大学側から坂を下る。三倍くらいの時間と精神を使って、ようやく目的地が見えてきた。

 鳥居の向こうに彼女を見つける。同じタイミングで彼女も僕のことに気付き、揃って僕らは手を振り合った。

「……ごめん、待った?」

「待ってました。ずっとずうっと」

 花の咲いたような笑顔が、殺伐としかけていた僕の心に安心を与えてくれる。愛しの彼女。このままいつまでも眺めていたい。そんな恋情が胸の奥で藻掻き出すのを、僕は理性で押さえ込んで辺りを見回した。

 ……誰もいない。追跡もされてない。その事実に僕は大きく息を吐いた。

 良かった。今のところは何とかなりそうだ――。

 

 ――にゃー。


 確かに聞こえた鳴き声に、僕の身体が完全に固まった。

 視線が彼女の後ろ、大岩の影へ自然と吸い寄せられていく。月光の届かぬ暗がりの中から、そいつは僕を見つめていた。

 何かが煌めく。闇の蠢く気配がして。視線の主はゆっくりと、それでいてどこか妖艶な足取りで、僕の方へと近寄ってきた。

 現れたのは最悪の相手。

 僕が絶対に会いたくない、会ってはならないと思っていた、青い瞳を持つ一匹の黒猫だった。

 震える手で、指差す。

「ねえ、それ」

「ああ、この子ですか?」

 彼女の声は弾んでいた。

「凄いんですよ、何でも私たちの姿が見えているみたいで」

 座ったままそう言って、嬉しげに微笑んだ。当然だ、彼女はその正体を知らない。足下にいる猫がまさか人間の姿も併せ持つ妖怪だなんて、想像すらしていないのだ。

 考えうる限り最悪の状況。全身の血の気が、急速に引いていく。

 僕の気苦労は無駄だった。あの演技も、僕がこうして神社に来ることも、きっとルリには全てお見通しで。確実に僕と対面できるこの場所で、悠々と待ち構えていたわけだ。

 動機が激しくなる。嫌な汗がこめかみを流れていった。

 まずい。このままでは何もかも台無しになる。一体どうすればいい? どうすれば……!

「っ、今すぐそいつから――」

 離れて。僕が叫ぶより早く、黒猫の身体が宙に撥ねた。

 そして。


「――キミなら来ると思っていたよ、青年」

 

 生まれたままの、文字通り一糸纏わぬ姿で、人間体となったルリは軽やかに地面へと降り立った。

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