第21話

「……つまり君が言いたいのはこういうことだね? このまま幽体離脱を続けていたら、僕の魂はやがて肉体へ戻れなくなる。だから今すぐ止めろ、と」

「その通り。あたしの見る限り、キミの身体は限界寸前だよ。一刻の猶予もない」

 部屋の壁にゆったりと背中をもたれかけながら、彼女はどこか不安げに、それでいてきっぱりと言い切る。いきなり受けた衝撃的な宣告に僕は頭を抱えた。

 数分前。話を聞こうと決めた僕は、警戒しつつも彼女を室内へと招き入れていた。どうやら本当に害意は無かったらしく、彼女は少し遠慮がちな仕草で腰を降ろした後、事の詳細をつまびらかに説明してくれた。

 曰く。キミが幽体になって真夜中に出歩いていることを、自分は知っている。おそらくそれなりの期間続けてきたのではないか。本来なら肉体と共にあるべき魂が、単独で行動するのは明らかに危険だ。ビニールテープと同じで、剥がれ続けた魂はいつか身体へ戻れなくなるだろう――。

「……信じてないような顔だね?」

「信じられると思う? あまりにも荒唐無稽だよ」

「そうね。だけど信じて貰うしかないの。他ならぬキミ自身のために」

 この上なく真剣な声色。青の瞳は縦に見開かれ、決して揺れ動くことなく真っ直ぐに僕を見つめていた。

 迫ってくるような圧力に抗いつつ、僕は紅茶のカップを手に取る。話が始まる前に二人分用意したのだが、これまで口をつけたのは僕だけだった。蜂蜜の渋みがやけに強調されて感じられる。

 彼女が嘘を吐いているようには見えない。

 僕が幽体離脱をしているのは事実だし、それは確かに通常の生命活動ではない。だが死に繋がるとまでは思えなかった。現に一ヶ月以上続けても、そのような兆候は一つとしてなかったのだから。

 しばらく黙っていると、彼女の口調に苛立ちが混ざり始めた。

「まさかシラを切るつもりじゃないよね?」

「……分かった。認めるよ。君の言うとおり、僕は毎晩幽体離脱をしてる。目的は……もしかするとそこもお見通しなのかな?」

「好きな相手に会うため。違う?」

「……当たってる」

 なるほど、あの娘の存在も既に知られているのか。

 答え方から察するに、丸々一夜、あるいは複数の日を跨いで僕たちは観察されていたらしい。具体的にいつ頃からかは分からないが、おそらくはここ最近だと思われる。八月の段階でバレていたなら、もう少し早く行動に出てきていた筈だからだ。

「質問をしてもいいかい?」

「いくつ?」

「複数」

「……どうぞ」

「このままだと魂がいつか戻れなくなる、それは本当?」

「本当」

「証拠が欲しい」

「証拠か……そうだね、キミは奇妙に思ったことはない?」

「何を?」

「幽体離脱、あまりにも簡単に成功しすぎてるんじゃないかって」

 ハッと息を飲んだ。

「図星かな。その訳はね、抜けグセが付いてるから。回数を重ねる内に身体と魂の結びつきが段々と弱くなってるからなの。異常な筈の状況が、次第に通常へと移り変わっていく……最終的にどうなるかは想像出来るでしょ?」

 離ればなれのままになる、そういうことだろう。

 自覚はあった。幽体離脱とはこんなにも容易であるのかと、不思議に感じる時もあった。だけど当時の僕は深く考えず、これはこういうものなのだと受け入れることしかしなかった。

「ただ、最初の一回だけは偶然だろうね。それで終わらせとけば良かったものをさ」

 皮肉っぽく言い、腕を組んだ。

「あとは体調が崩れたりとかしてるんじゃないかな。風邪ではない、理由不明の不調が長―く続いてたり」

「……そういえば、たしかに最近そんな日が多い。頭痛がしたり妙に身体が重たかったり」

「他には?」

「熱中症で倒れた」

「キミが弱ってる証拠だよ」

 そこで初めて紅茶のカップに手を伸ばす。とっくに冷めているだろうそれへ、彼女は念入りに息を吹きかけてから、包み込むように持って美味しそうに啜った。

「なるほど蜂蜜入りか」

「甘いのは嫌い?」

「好きだよ。……ニュージーランド?」

「カナダ」

 自分の命が危ういなどと、信じたくはなかった。

 だが願望に反して、彼女の言い分には筋が通っている。実際に僕たちを見ていなければ知らないようなことを知っている。そして何より彼女の表情が、突拍子もない筈の言説に一定の信頼性を持たせていた。

「……もしも魂が戻れなくなったら、僕はどうなるの」

「普通に死ぬより辛い目に遭うよ」

 脅すような声色。

「生きてる人間の魂は未練が無いからね。成仏も出来ない。誰にも振り向いて貰えないまま世の中を彷徨って、果てしない孤独を味わい続ける。多分、正気を失うんじゃないかな」

「……っ」

 それは、ともすればあの娘が辿るかもしれなかった運命だ。

 僕にはそんな経験がないため、どれだけ苦しいかは想像に任せるしかない。だが仮に僕がそうなった場合、きっと長くは耐えられないだろう。僕の心は……そんなに強くないから。事前に覚悟をしたとしても、果たして一年持ちこたえられるかどうか。

「……どうして僕にそれを伝えに来た?」

「キミをそんな目に遭わせないため。不満?」

「……いいや。その善意は嬉しい」

 複雑な思いが僕の返事を曖昧にした。

 教えてくれてありがとう、そう言えば半分は嘘になる。けれど知りたくなかったかとなれば、これも半分くらい嘘になるのだ。

 紅茶の残りを僕は飲み干す。カップの奥、底面の縁に沿って残った茶渋は、鎌の刃に似たような形をしていた。

 鏡を見るまでもなく、自分でも表情が険しくなっていると分かる。

「……それじゃぁ最後の質問」

「いいよ」

「君は何者なの?」

 すると彼女は可笑しそうに笑った。

「とっくにバレてると思ってたんだけどな」

「おおかたの察しは付いてる。それでも、この目で見るまでは信じられない」

「分かったよ。なら……特別に見せてあげる。あたしのもう一つの姿。あたしの秘密。キミになら知られてもいいもの」

 彼女がするりと立ち上がる。白色に近いしなやかな太股が、窓からの朝日に照らされていた。頭の後ろで両手を組み、艶めかしい声と共にのびをして。全身の力を抜いた彼女は短く息を吸い込むと、それから軽やかに床を蹴った。

 空中で一回転。身体は圧縮されたように体積を縮め、着ていた衣服が重なるように落下する。その上に降り立った彼女を見た時、僕の予想は現実に変わった。

「やっぱり君だったんだね。――ルリ」

 流石に人の声は出せないのだろう、僕が名前を呼べば、黒猫の喉からはにゃんという鳴き声が上がる。

 目をこすってみたが、光景に何ら変化はない。これは夢でも幻でもないのだ。信じたくないが信じるしかない。僕はこれまで化け猫と触れ合っていた、と。いや、あるいは猫娘だろうか。

「今朝まで全然分からなかった。君みたいなのが……まさか本当にいるなんて」

 驚く一方で、どこか納得している自分もいた。

 ルリとお姉さんが同一人物。そう仮定すれば、彼女の奇妙な言動にも全て説明がつくのだ。

 ルリなら僕の家を知っている。

 ルリなら昨晩、僕と会っている。

 そしてルリなら……僕やあの娘に気付かれず、僕たちの様子を窺うことだって可能だろう。そもそもの身体が小さいし、神社の周りには竹藪が生い茂っていて隠れるのにうってつけの場所ばかりだ。

 彼女と戯れる際に僕が鼻の下を伸ばしまくっていた件については……ひとまず忘れることとして。

「人の姿に戻ってくれる? 会話が出来ないのは困るし」

 念のため明後日の方向を向いておく。今更な気もするが、女性の裸は必要以上に見るものでもない。

「服を着たら教えて」

 猫の身体が床板を蹴る音と、それに続いてより重たいものが着地する振動が伝わってくる。布と肌の擦れ合う気配に対して、僕はなるべく変なことを考えないように精神を落ち着かせていた。

「……ありがとう、もう大丈夫だよ」

 振り返る。惣菜屋のお姉さん、もといルリはさっきのように腰を降ろして、くつろいでいた。

「意外と反応が薄かったなぁ、青年?」

「これでも驚いてる。まあでも、玄関で君の目を見た時にもしやって思ってたからね。店では黒だった筈だけど?」

「あれはカラーコンタクト。あんまり好きじゃないんだけど、ブルーだと無駄に目立つから」

 だろうね。僕は呟いた。青い瞳の持ち主は日本にほとんどいないと、大学の講義でも聞いたことがある。僕だって、実際に見るのはルリが初めてだ。

「さてさて、あたしが話せることはこれで全部。その上で改めて言わせてもらうね」

 前のめりに、ルリが顔を近付けてくる。僕は反射的に仰け反った。けれど構わずにルリはにじり寄ってきて、ついには鼻先が触れ合いそうな距離にまで僕らは接近する。背中がベッドに当たって、これ以上の後退が出来なかった。

 縦長の瞳孔が、カッと見開かれる。

「もう、幽体離脱はしないで」

 押し潰されそうな圧力を前に、しかし、僕は頷くことを躊躇った。

 問題を簡単にすればこうだ。あの娘を一人にして僕が日常に戻るか、タイムリミットが来ないよう祈りながら最後まであの娘に付き添うか。

 出来る事なら後者を選びたい。約束したのだ。彼女が成仏するまで一緒にいる、と。

 だけど下手をすれば僕は、果てしなく続く孤独へと我が身を沈めることになる。寂しくて苦しい地獄のような時間に少しずつ心を削られ、誰にも知られぬまま正気を失っていく、待っているのはそんな未来だ。

 ……どうすればいいんだろう。

「青年? どうかしたのかな?」

 身体が震える。死ぬのは恐ろしい。僕が彼女との日々を楽しめていたのは、朝になれば元に戻れるという前提があったからだ。それが揺らぐのは、どうしようもなく怖い。

 だけど……。

 首を縦に振りかけた僕の脳裏に、少女と越えてきたいくつもの夜がフラッシュバックする。

 一緒に眺めた世界の目覚め。

 二人で分かち合った失恋の痛み。

 並んで歩いた砂浜の道。タダ乗りした終電。博多の街の夜景。

 何の変哲も無い、けれど楽しくてしょうがなかった彼女とのやり取り。

 そして。

『……好きだよ』

『……私も好きですよ』

 互いの想いを確かめ合った、あの瞬間の喜び。


 それはある意味で呪いだった。

 我が身さえ犠牲にせしめる程の。


 一人になるのは嫌だ。けれど彼女を一人にする方が、僕にとってはもっと嫌だった。

 出逢って一日目。彼女が初めて浮かべた笑みは、自身の境遇を嘲笑うかのような哀しげなものだった。他人の僕ですら心が痛くなってしまうくらいに。

 もう二度と、彼女をそんな表情にさせたくなかった。

 記憶を失い、自分が何者なのかさえ分からない状況に置かれ、彼女は十分苦しんだ。

 だから次に孤独を背負うのは……僕でいい。

 そう考えれば、今すぐ幽体離脱を止めるなんて到底実現不可能な要求だった。しかしどうやら、目の前のルリはそれを許してくれそうにない。

「……嫌だと言ったら?」

「言えるとでも思ってるの?」

 ルリの顔から感情が消えた。人間とは明らかに別ものの、異質な気配を感じて僕の背筋が寒くなる。

「させないよ。力尽くでも止めるから」

「っ、そんなこと」

 瞬間、視界全体が上に飛んだ。

 後頭部に衝撃が走る。引き倒された。そう気付いた時、ルリがのしかかってくる。咄嗟にもがいて抜け出そうとするも、手足が異常な力で押さえ込まれていて、僕はまともな抵抗すらさせてもらえなかった。

「“そんなこと出来っこない”って? 出来るよ、あたしなら」

 間違いなく、彼女は本気だった。

「あたし、いわゆる妖怪だもん。キミが幽体離脱をしたところであたしには見えるの。この姿になれば触れられもする」

 いつのまにかその手には、実に切れ味の良さそうなかぎ爪が生じていた。鋭く尖ったその先を、ルリは僕の喉元へ撫でるようにして這わせた。

「幽霊だって傷つくし、傷つけられるんだよ」

 全身から汗が噴き出る。身動きが取れなくなった僕に対して、ルリは諭すように語りかけた。

「青年があの娘を好きなのは分かる。だけどあたしにも譲りたくない線があるの。キミには生きていて欲しい……。だから、ここは大人しく言うことを聞いてちょうだい」

 説得は無理。物理的にも敵わない。彼女はものの見事に、僕から不必要な選択肢を奪い取っていた。

「さあ、頷いて?」

「くっ……」

「頷きなさい」

「……分かっ……た」

「……本当に?」

「幽体離脱は……控える」

「よろしい」

 たちまち、拘束が解かれる。緊張から解放された身体が、本能的に息を吸い込んだ。

「それでいいんだよ。夜を歩き回るより、ベッドでゆっくりと眠った方がずっと健康的だからね」

「手荒な真似……してくれるな」

「だって青年、あのまま断りそうになってたじゃない」

 淡白に告げると、ルリはいきなり立ち上がって足早に玄関へと向かい始めた。用は済んだ。とでも言いたげな背中を、僕は慌てて追いかける。

「お、おい! ちょっと」

「……ごめんね、強引な真似して」

「え?」

「身勝手な話だけど、良かったらまた店に来てくれると嬉しいな。今日のお詫びに、オマケする」

「ちょ、ルリ!」

 名前を呼べば、その肩がピクリと動いた。けれどルリは振り向かない。そのまま僕が伸ばした手をすり抜け、扉を開けて外へと出てしまった。

 素足で後に続く。けれど彼女の足は速く、階段で踊り場の向こうに消えたのを最後に、僕は姿を見失ってしまった。

 呼び止める暇も無かった。

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