第13話

「優くんのことを教えてくれませんか?」

 数秒の沈黙を前奏に、彼女は意を決したような表情で問い掛ける。

 僕たちが出逢って一ヶ月が経とうとしていた、ある晴れた夜のことだった。

「……僕のこと? 何を?」

「何でもいいです」

 今は駅へと歩を進める途中。しかし彼女の質問を受けて、ついさっき足を止めた。

 人見知りとはいえそれなりの時間を共に過ごしてきたおかげで、ここ最近、彼女との距離も加速度的に縮まってきた。最初は微妙に堅苦しかった会話も、今では気軽に冗談を飛ばし合うようになり。笑顔だって明らかに増えた。少なくとも、僕はそう感じている。

 彼女の心理は読み取れないが、僕のことを憎からず思っていてくれれば嬉しい。……とは言うものの、普段の雰囲気からしてまあ嫌われてはいるまい。多分。自身を持って言い切れないのは、主に僕の性格のせいだ。

 情けないことだが、僕のように内向的な人間は他人から興味を抱かれることに慣れていない。嬉しいが、まごつくのだ。

 今回もそうだった。彼女が初めて向けてきた関心に、僕は少なからず戸惑った。

「……理由を訊いてもいいかな」

「知りたくなったんです。優くんを。毎晩欠かさず私のところに来てくれる、どこぞの優しい紳士さんのことを。普段の恩返し……には、ならないかもしれませんけど」

 大胆だが丁寧な口調だった。顔見知りに近い今の関係から、さらに一歩踏み込むことを彼女は望んでいる。そんな感じがした。

「それにほら、いつも私のことばかり調べてますし。たまには気分転換もいいですよね?」

 正直な所、その申し出には応えたい。そうすれば、僕たちの仲はより一層深まることになるだろう。

 分かっている。この娘に肩入れしすぎては、いつか必ず苦しくなる。いつになるかは不明だが、所詮は彼女の未練を叶えるまでの間柄。そう遠くないうちに別れはやって来るだろう。親しくなればなるほど、その時が辛くなる。

 だけど、それでも……。

「……あまり面白い話は出来ないよ」

「それは、聞く側の私が決めることです」

「話すのだって下手だけど」

「私よりは上手ですよ」

 やっぱり拒絶出来ない。訊いてくれたら、どうしても話したくなるのが僕の性分なのだ。

 それでも何もかもは無理だけど、せめて些細な日常の事くらいは。

「それなら、歩きながら話そっか」

「愉快痛快な物語を期待しておきます」

「どうしてそういうことを言うのかなぁ?」

「あえてハードルを上げてみようかと」

「だったら僕はその下をくぐらせてもらうから」

 脳みそを無駄遣いするようなやり取りを交わしつつ、僕たちは止めていた歩みを再開する。

 僕にプレッシャーをかけないためか、彼女はこちらではなく前方に視線を向けていた。整ったその横顔を密かに眺めながら、僕は話すべき内容について脳内で候補を見繕い始める。

 何でもいい。気楽に聞こえるが、実はこの世で最も難しい注文だ。

 それなりに広がりがあって、なおかつ僕自身の秘密とは関係の無さそうなテーマ。しばらく迷った末に、僕はひとまず無難な話題を選ぶことにした。

「前に本を読むのが好きだって言ってたよね」

「はい」

「僕も好きなんだ。布団にごろりと寝転がってさ、小説の世界に沈み込んでいくあの時間が、本当に至高だと思う」

 読書。ありきたりすぎて、今どきの就職ではものの役にも立たなそうな趣味だ。もう少し活発でもう少し個性的なことにのめり込んでいたら、人生は何か変わったのだろうかと時折考えることもある。

 だが仕方ない。僕はこれが楽しいのだから。

 彼女も同じ趣味だったのは、ある意味で幸運だったかもしれない。多分、好みのジャンルは違う。けれどそれでも、本を読む者同士というだけで親しみが持てるのだ。

「どんな本が好きなんですか?」

 目を輝かせて彼女が訊いてくる。

「雑食性だよ。面白いと感じるのやつなら何でも。だけど……そうだね、恋愛モノが多いかな。ボーイミーツガールは大好物。他には怪奇譚系のホラーも読むし、ローファンタジーも嗜む程度に」

「へぇ、以外と幅広いんですね。いいなぁ。それだけ世の中に好みの本が多いってことですもんね。読書も楽しくなりそう。羨ましいです」

「そ、そうかな。……ありがと」

 心の底からそう感じているような彼女の声色に、僕は少しだけ気恥ずかしさを覚えてしまった。

 僕としては、あくまで自分の嗜好感覚に従っているだけで、あまり深く考えたことはない。だけど確かに彼女の言うとおりだ。心惹かれる対象が多いほど、世界はより一層彩られて見えるだろう。

 すごいな。思わず口元が綻んだ。今までに無かった視点を、さっきの一言で手に入れられた気がする。

「……君はどうなんだい? 教えてよ、何が好きか」

 尋ねれば、彼女は即答した。

「ミステリーです」

「アガサクリスティ?」

「もちろん。他にも古典からキャラ文芸寄りのものまで何でも。上手くは言えないですけど、分からないことが段々と解き明かされていくのが快感でした」

「なるほど。ミステリーにも色々あるんだね」

 彼女は嬉しげに頷く。僕はあまりそういったものを読まないが、好きだと照れずに断言出来るような何かを持つのは、とても大切なことだと思う。

「ていうか、そこは忘れてないんだ?」

「大学の図書館に行ってからしばらくして、一人の時にふっと思い出しました。そう言えばそうだったな、って。すいません伝えてなくて」

「いいよ、気にしないで」

 トラックが僕たちの横を走り抜けていく。巻き起こった風に乱された前髪を、片方の手で掻き上げながら僕は続ける。

「ジャンルとは別だけど、小説特有の言い回しとかも好きだな」

「良いニュースと悪いニュースがある、みたいなアレですか」

「それはハリウッドだけど、まぁ似たような感じ。カッコいいし、粋じゃない? ついつい使ってみたくなるんだ」

 そして実際に使っている。主に冗談の参考として。反応は人それぞれだ。半分くらいは好意的だが、「は?」という表情をされることも少なくない。

「優くんの返答がお洒落な理由、今まさに分かってしまいましたね」

「こんなんだから変人って言われるんだけどさ」

「……誰かから言われたことが?」

「色んな人から。流石にオブラートには包んであったけどね。苦笑いで返すのも、もう慣れた」

 自嘲気味にそう言って、僕は足下の小石を蹴飛ばそうとした。しかし幽霊の身体は目標をすり抜け、僕は危うくバランスを崩しかける。

「……迷ったり、辛くなるときもあるけど」

 他人と違うのは時として気楽で、時として残酷だと思う。

 まず何よりも、目立つ。奇異の視線で見られる。失敗しても誰かのせいに出来ない。

 自分らしい生き方を追い求める一方で、僕は間違ってないだろうかといつも後ろを振り返ってしまう。足踏みし、悩み尽くして憂鬱になって。結局なかなか前に進めず、それがまた苦悩を生む。

 そんな思考の悪循環に陥ったことは、僕の人生において一度や二度ではない。大学に入ってからは減ったけれど、世の中に出ればまた増加しそうな気がする。

 簡単に言えば、自分に自信が持てないのだ。なんとかなるさ。そう、他人に言うのは簡単だけど、自分に言い聞かせるのはその何倍も難しいものである。

 ……辺りが暗いからだろうか。心が自然とネガティブな方向に向かってしまう。僕は首を振って、嫌な気持ちを遠くへと追い払おうとした。

 その時だった。

「間違ってますよ」

「――え?」

「その人たちは、間違ってます」

 思わず立ち止まる。

 刺々しい響きに隣を見れば……彼女はムッとしたような表情で、真っ直ぐに僕を見つめていた。

「優くんのそれは個性って言うんです。変人なんてのは、自分と違う相手を受け入れられない視野の狭い人間が使う言葉です」

「……辛辣だ」

「そもそも、捻った返しを即興で思い付けるだけで凄くないですか。大抵の人は出来ませんよ。私にも無理です」

「う、うん。そうかもしれない」

「話を聞いてるのか分からないような相槌より、私は優くんの返答の方が好きです。知性を感じますし……少し、ワクワクもします。まるで自分が物語の登場人物になったみたいで」

 いつのまにか、彼女の熱弁に聞き入っていた。これまで言われたことのない賞賛に、僕は頬を赤くする。

「――それに優くん、真剣になるときは真剣になるじゃないですか。私が元彼に会ったとき、優くんがかけてくれたのは冗談じゃなく励ましの言葉でしたよね。冗談の使い時をわきまえて使ってます。単なる自己満足じゃなくて」

「それは……当然でしょう。真面目な場でふざけても意味なんてないもの」

「だとしても、それは優くんの優しさの証ですよ」

 一拍、挟んで。

「優くんのそういうところ……私は素敵だと思います」

「っ!!」

 息が止まるかと思った。

 身体が固まり、次いで、かあっと熱を帯びる。胸の奥から温かいものが込み上がってきて、心臓がドクリと撥ねた。

 初めてだった。

 ここまで真っ直ぐに肯定されたのは、生まれて初めてだった。

「そ、それを言うなら君だって」

 感情の波に耐えきれず、僕は口元に手を当ててしまう。彼女の顔を見ていられず、斜め下に視線を逸らした。

 頭の中がごちゃごちゃになりながら、僕は色々な勇気を振り絞って、返答の続きを口にする。

「そういうことを躊躇わずに伝えられるの……本当に凄くてカッコいいと思う」

 すると、彼女から余裕が消えた。

 世界が止まった。そう錯覚しかけた。陸に上がった魚のように、彼女は口を開いたり閉じたり。瞳が落ち着きを失って、あちらこちらにせわしなく泳いでいた。

 車の音も、虫の鳴き声も、風が草葉を揺らす音も、何一つ聞こえなくなって。

「え、え、あ、その」

 声にならない声だけが、僕の鼓膜を優しく揺らしている。

「そ、そうでしたか」

「うん」

 応えて、僕はゆっくりと目線を戻していく。

 ところがそれに気付いた彼女は、もの凄いスピードで身体を明後日の方向に向けた。

「……見ないでください」

「で、でも」

「見ないでくださいっ!」

「ごめんなさい!」

 彼女の顔は髪で隠れている。唯一見えている耳は、半透明でも分かるくらいに赤く染まって。その事実が、僕の胸を余計に強く高鳴らせていく。

 不思議な時間だった。

 どちらも何も話さず、遠慮がちに相手の様子を窺うばかり。気まずくはない。けれど何故だか、お腹の下の辺りがゾクゾクする。二十年近く生きてきて未体験の感覚だった。

 むず痒くなるような沈黙は、それから体感にして数分ほど続いた。

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