夜を歩く日々

第12話

 八月十七日。

 九鳥大学の東、湾に面した夜の砂浜に彼女を連れて行く。

 僕は極めてインドアな人間なので、夏であっても、大勢の友人達と連れ添って海水浴に興じたりはしない。しようとも思わない。そんな訳でここは、距離こそ近いが初めて訪れる場所だった。

 林道を抜けて海岸に着くやいなや、彼女は軽やかな足取りで波打ち際まで降りていった。

 本人曰く「海派なんです」。寄せては引いてくさざ波の音を聞くと、不思議と心が安らぐらしい。

 情報面での収穫こそ無かったものの。解放感に満ちた表情で砂の上を歩く彼女の姿は、無邪気さを帯びていて可愛らしい。言い方は悪いが、とても絵になりそうな感じがした。

 水面に指を這わせてみれば、濡れはしないが冷たさは感じる。

 珍しく先行する彼女の背を追っていたら、不意に彼女は腕を後ろで組み、片足を軸にして振り返った。

「ゲームをしましょう、優くん」

「ゲーム?」

「ギリギリまで波に近付いた方が勝ち、触れてしまったら負けです」

「よかろう、受けて立つ」

 しかし無残にも三連敗した。



 八月二十二日。

 徒歩で行けそうな場所を網羅し尽くしたため、電車を使って遠出することにした。

 自転車もバスも使えないので、気持ち早足で駅まで急ぎ。ひとつまみの罪悪感と、たっぷりの背徳感に口元を歪めながら改札をすり抜け。僕たちは終電にタダ乗りを敢行する。発車時刻にはギリギリ間に合った。

 もちろん、自分たちの行動を正当化することは忘れなかった。なるほど確かに、我々は適正な運賃を支払っていない。しかしだ。今回の場合、幽霊の利用を想定しなかった鉄道会社に問題があるのではないか。

以上のような暴論を彼女にも伝えてみた。

「価格は六文より安くして欲しいですね」

 その返事がこれである。

 博多で降りた僕たちは、賑わいの消えぬ眠らない街を散策して回った。

 生前の彼女もここには何度か来たことがあるらしい。要所要所で立ち止まり、首を傾げ。時には「あっ」と声を漏らし。しかしどれも、彼女の核心に迫るような類の記憶ではなかった。

 ただ、彼女が気になった場所の特徴から推測するに、彼女はどうやら落ち着いた佇まいのカフェが好みだったらしい。僕と趣味が合うね。そんな話で盛り上がった。

 夜明けまでに神社へと戻るのは不可能だったので、博多駅の屋上で朝を迎える。実はここには展望台があって、福岡の街から遠く博多湾までを一望出来る。

「……綺麗ですね」

 風が吹き、彼女が前髪を掻き上げた。

 薄闇の下、目を細めて終わりつつある夜景を見下ろす、その横顔は妙に凜々しくて。普段とは違う雰囲気に思わずドギマギしてしまったのは……僕だけの秘密だ。



 九月一日。

 早く寝ればそれだけ彼女と長く過ごせる。そんな至極あたりまえのことにようやく気付いた。

 別にこれは、彼女と一緒にいたいとかそういうのじゃない。多くの時間を確保すればそれだけ沢山の場所を回れる、ただそれだけだ。

 迷惑ではないだろうか。少しだけ不安になりながら神社に足を運べば、彼女はまず驚き、それから笑顔になって駆け寄ってくる。

 喜びを全力で表現したような仕草に、僕は内心でホッとしてしまった。

 それと同時に、悟ってしまう。

 彼女と夜を歩くこの日々に、楽しさを感じている自分がいることに。



 九月上旬。

 夏の暑さは盛りを過ぎて、日中に外を歩くのもだいぶ楽になってきた。

 しかしやっぱり暑いものは暑い。強烈な西日に僕は呻き声を漏らす。最悪なことに、今日は日傘を忘れてしまったのだ。服が黒いせいで、余計に熱を吸って苦しい。

 いつもの惣菜屋に辿り着いた僕は、迷わずガラス戸を引き開けて中に入る。そして一つ、大きく息をついた。ここは涼しくて快適だ。

「久しいね、青年。おおよそ二週間ぶりかな」

 見慣れた黒髪が空調にはためく。微笑みと共に僕を出迎えたお姉さんは、ガラス棚の上に肘を着いてその首を傾げてみせた。

「随分と疲れてるみたいね」

「バイト終わりなんだ。しかも単発の肉体労働。もう自炊する気力が残ってなくて」

「納得。表情がくすんでるもん」

 お姉さんが僕を指差す。そんなにひどい顔をしているのか僕は。たしかに体力を使った自覚はあるが……。まあいい、帰ったらゆっくりしよう。

 タイミングが良かったらしい。僕が夕食を選んでいる横で、空のトレイが引っ込んだかと思えば。狐色の唐揚げと共に再登場した。

 香ばしい匂いに鼻孔をくすぐられる。しかし悲しいかな、あまり食欲は湧いてこない。遅めの夏バテか、最近はいつもそうだ。今夜もあっさりしたもので済ませよう。

「迷ってる迷ってるぅ」

 店内に僕以外の客がいないからだろう。ゴム手袋を外し、水道で丁寧に手を洗った後、お姉さんはレジの横を回り込んでこちら側にやって来た。そのまま僕の方に近付いて来るのを、僕は腕を上げて制する。

「あんまり寄らないで」

「……どうして?」

「今の僕、絶対に汗臭いから」

「ああね。お姉さんは気にせんよ?」

「だけどマナーってものがある」

「マナー! たしかにそうかも。青年ってば紳士的だねぇ」

 お姉さんがニヤニヤしながら言った。

 彼女のことは放って置いて、僕はガラス棚からパック詰めされた惣菜のコーナーへと視線を向ける。

 こっちの方が胃袋に優しそうだ。豚の角煮。レバニラ炒め。きんぴらごぼうにシーザーサラダまで。おそらく業者から仕入れているのだろうが、それにしても種類が豊富である。

「――おや、お客さんがもう一匹」

 ふと、お姉さんに肩を叩かれる。

 ビクリとなりつつ振り向けば、彼女は細長い指を入り口の方に向けていた。その延長線上を辿り、僕はようやくその存在に気が付く。

 茶色の猫が店の前に座って、催促するように前足で戸を叩いていた。

 思わず、口元が緩む。

「可愛い」

「時々おこぼれを貰いに来るの。味をしめちゃって」

たしなめるような言葉、しかし口調は穏やかだった。

「猫、好きなんだ?」

「好きだよー。小さい頃から色々と縁があったし。猫のことなら何だって分かっちゃうよ。例えばあの子……本日はビーフよりフィッシュの気分だ」

 お姉さんは奥から小魚の切り身を持ってくると、猫の目の前に置く。それから僕にウインクを送った。

「裏のオバサンには秘密ね?」

 店長さんのことだろう。

「気にしないよ。僕だって似たようなことしてるし」

「あら、キミのとこにも来てるんだ?」

「別の子がね。三ヶ月くらい前、道端でずぶ濡れになってたのを拾ったんだ。翌朝には逃げられたけど、ちょくちょく会いに来てくれる」

「へぇ」

「野良にしては綺麗な黒猫でね。僕はルリって呼んでる。目の色がブルーなんだよ。手を出すと頭を擦り付けてきてさ。甘えてくるのが本当にもうめちゃくちゃ可愛い」

「……へぇ」

お姉さんは目を細めた後、「嬉しいな」と独白するように呟く。

「どうして?」

「……キミとあたしと、似たもの同士みたいだから?」

「ちょっとよく分かんないんだけど」

 お姉さんはそれには応えず、カウンターの内側に戻って作業を再開した。片手にプラスチックのトレー、もう片方にはトングを持ってカチカチと打ち鳴らす。威嚇をしているようだ。早く選べということか。

 少し迷って、僕はお姉さんに注文を伝える。予定通り油っこいものは控え、ポテトサラダとレバニラ炒めに決めた。

 袋詰めをしながら、お姉さんがふと口を開く。

「きっと、その黒猫はキミのことが好きなんだろうね」

 多分それはない。僕は苦笑いを浮かべた。

「体の良い餌場扱いされてるだけじゃない?」

「そうかなぁ。猫から甘えてくるってよっぽどだよ」

「媚を売ったら食料が出て来るって、きっと分かってるんだよ」

 代金と料理を交換。次いで、お釣りを受け取る。レシートは不要だと告げれば、お姉さんは指に挟んだそれをゴミ箱へと放った。

「青年は夢がないねぇ」

「最近、夢を見ないから」

「そういう意味じゃないんだけど」

 いつのまにか窓の外が暗くなっていた。灰色の雲が空を覆うように広がっている。やがて惣菜屋のガラス窓にも、ポツリポツリと水滴が当たり始めた。

 折りたたみ傘は……忘れたんだった。舌打ちをする僕の後ろで、「雨は嫌い」と、憂鬱そうに嘆くお姉さんの声が聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る