第3話
大口を叩いておいて何だが、僕にも当てがある訳ではない。
少なくとも、彼女は僕と近しい関係には無かった。友人の友人が亡くなったという話も聞かない。どこかですれ違ったことはないか、と必死に記憶を探ってみたが、そんな細かいことを覚えていられるほど僕の頭は優秀ではなかった。
記憶喪失の範囲が、どうやら彼女自身の情報のみに留まっているらしいのが不幸中の幸いだろうか。一般常識まで忘れていたのでは、ただの会話自体にまで支障が生じてしまう。
二人で話し合った結果、ひとまず大学に向かうことが決まった。
僕も含めて、この付近の住人は大半がここ九鳥大学の学生だ。彼女も生前、その中の一人だった可能性は十分にある。
文系学部、理系学部、そして教養課程棟が一同に介している都合上、九鳥大学のキャンパスは実に広大だ。在学中の僕でさえ全貌を把握仕切れていない。大多数の人も同じだと思う。
「全部を回るのは時間がかかる、けど」
情報が皆無な現状、しらみつぶしにいくのが良さそうだ。
「……不思議な感じです」
「何が?」
「だーれもいないじゃないですか。まるで私たち以外の人間が全滅したみたいで」
「単語チョイスが物騒だね」
緩やかな坂を上っていけば、その先に直方体の建物が待っている。教養課程棟。学部は関係無く、一年生の間はここで授業を受ける。彼女が九鳥の学生であるなら、絶対に一度は訪れている筈だが……。
「どう? 何かピンと来たりしない?」
「う、うん……うん? んん……」
……駄目っぽいな。
「ここが大学なんですよね」
「あそこから、向こうの方までずっと」
「すごい。広い。しかも新しい」
オープンキャンパスに来た高校生が言いそうな感想だ。でも気持ちは分かる。僕も初めて来た時は、高校とは桁違いの広さにテンションが上がったものだ。
坂を上り終えた所からいよいよ敷地内である。昼間なら数え切れないほど大勢の学生が行き交っているが、今は誰もいない。人気の無い大学は不思議な雰囲気を纏って、まるで夜の中にひっそりと身を潜めているように思えた。
「どこから行きましょう」
「どこからにしましょう? あっちに行くと文系棟。こっからはまだ見えないけど」
「はい」
「このまま進むと理系。ほら、あれがそれだよ。理学部棟」
「わ、大きい」
巨大な石畳の道の先、キャンパス内でも最大であろう、十階建ての建物がそびえ立っている。泊まり込みで研究に勤しむ教授先生や院生がいるため、深夜でも煌々と明かりが点いていた。その様子を表し、誰が呼んだかあだ名は「バトルタワー」。最上階には主が住んでいるともっぱらの噂だ。
少し考えた後で、僕は彼女に問い掛ける。
「もしここに入学するとしたら、君はどの学部を選ぶ?」
「…………文学部、だと思います。本を読むの、好きなので」
少し考えた後で彼女は答えた。ならそこから回ってみよう。
「エスコートする。……付いてきて」
※
それから僕は彼女を連れて、キャンパスをぐるりと一周した。文系棟。次いで、理系棟。休憩を挟みながら食堂、大講堂。体育館に部室棟。果てはテニスコートから農学部の農場に至るまで。相当な時間をかけて思い付く限りの場所を全て巡ったが、ついに手掛かりは得られなかった。
ただ一つ、最後に訪れた場所を除いては。
図書館の前にさしかかった時、彼女が不意に足を止める。そしてそのままガラス張りの入り口に顔を近付けて、中の様子をまじまじと見つめ始めた。
「ここ、来たことがあります……!」
「……詳しく」
僕が声を掛ければ、彼女は脳内でその事実を再確認するかのように瞑目する。
「本を借りたり、机に座って……何かを勉強してたような気がします。私は……多分この場所が好きで。暇な時はここの三階で過ごしてました」
「もしそうなら、君が大学生なのは確実になるね。図書館がどんな構造だったか覚えてる?」
「……四階建ての筈です。どの階にも勉強用の個室があって。階段を使えば屋上にも上がれる。地下の書庫からの貸し出しは全部コンピューターで行われた、かなと」
「そこまで言えるなら……間違いないか」
重要な事実が一つ分かった。彼女はここの学生だ。
勿論、これは失われた記憶の極一部に過ぎないが、それでもあると無いとでは大きな違いがある。彼女の身分が定まれば、住んでいる範囲と行動パターンもある程度絞り込んでいけるからだ。記憶探しが闇雲でなくなり、必然的に効率も上がることだろう。希望が見えてきた。
手頃なベンチを発見したので、僕たちはそこに腰を落ち着ける。
いつのまにか東の空が白みを帯びていた。眠っていた世界がゆっくりと覚醒していく。どこかからか聞こえる鳥たちの声に癒やされながら、僕は力を抜いて背もたれに身体を預けた。
「……だいぶ歩いたね」
「疲れました」
幽霊にも疲労はある。これもまた一つの発見だ。
大学が小高い丘の上にあるおかげで、ここから麓の平坦な地域を一望出来る。湾の向こうには福岡の街並み。じわりじわりと、陽光の先端が空気中に溶け込んで、世界は魔法をかけられたかのように煌めいていた。
「観て、靄がかかってるよ」
指差してそう言えば、彼女は「わぁ」と嬉しそうな声を上げる。
「ダイヤモンドダスト、って言うんでしたっけ」
「それは冬のやつじゃなかったかな」
「ではあれは?」
分からない。適当に答えよう。
「今は冬の反対だから……真珠ダスト、とか」
「吸い込んだら肺に悪そうですね」
「ダイヤモンド原石ダストかもしれない」
「大変です。街が研磨されてしまいます」
実に馬鹿らしくて生産性の低いやり取りだった。
僕はそのことを自覚していたし、きっと彼女もそうだったのだろう。僕たちは顔を見合わせ、それから揃って、苦笑と失笑を足して二で割ったような奇妙な笑い声を上げた。
胸の奥が暖かくなる。今の僕には身体なんてないのに、不思議とそう感じる。
「あの」
「何だい?」
彼女が僕の方に身体を向けていたので、こちらもそれに倣う。数時間ぶりに真正面から見た彼女の姿は、記憶にあるよりも幾分か生き生きとしている気がした。
艶やかな睫に縁取られた瞳が、スッと、細くなる。透明感のある微笑みに、僕は目を奪われた。
――こんな顔も出来るんだ。
「案内、ありがとうございます。助かりました」
出逢った当初の儚げな笑みが、まるで嘘か幻のようで。花は散り際が美しいと言うけれど、彼女の場合、朗らかな今の表情の方が何倍も似合っているように思えた。
どういたしまして。微妙に滑舌を悪くしながら僕は応える。
改まった風に言われると、何だか気恥ずかしいのだ。普段の生活ではあまり抱かないような感情に、心をグラリと揺さぶられる。精神的な余裕を現在の値で保持するべく、僕は彼女から適度に目線を逸らした。
「誰かと一緒にいるのって、やっぱり楽しいですね?」
「……迷惑だったらどうしようと思ってた」
「私、そんなに薄情じゃないですから」
知ってる。一緒にいたのはたった数時間だけれど、彼女はこれまでに出逢った誰よりも律儀で、丁寧だ。悪い人じゃないだろう。どれだけ僕に人を見る目が無かったとしても。
「あ、そういえば」
「そういえば?」
「今更かもしれないんですけど。……名前、訊いてもいいですか?」
「そういえば! まだ言ってなかったね」
彼女の名が不明なことも相まってすっかり忘れていた。空中に指で字を書きながら、僕は己の名前を口ずさむ。
「優。早乙女 優。優しいって書くやつ」
彼女はそれを、謎の真剣さを纏わせながら口内で転がす。優くん、優くん、優くん。やがて納得がいったのか、反復を止めて首を縦に振った。
「名前の通りですね」
「光栄です」
実はそんなに優しくないよ、と添えるのは、取り敢えず延期としておこう。好意はありがたく頂戴するのが一番良い。
「優くん、って呼んでいいですか?」
「お好きなように。ていうか、今さっきそう呼んでたじゃない」
「早乙女くん、より語感がいいんです」
「なら仕方ないね」
僕は大袈裟に肩を竦めた。
手で目元に影を作る。夏だからだろうか、夜が短い。ついさっきまで真っ暗だったのに、もう朝日が眩しいのだ。世界が灼熱地獄になるまでそう長くはあるまい。
そういえば。僕はふとあることを思い出した。僕の肉体が眠ってからもう結構な時間になる。そして、今は朝。これまでの経験からして、普段の僕ならもうじき目を覚ます頃合いだ。だが僕の魂は、こうして現在進行形で身体を抜け出して、彷徨っている。
大丈夫なんだろうか。
気付いたら戻ってた、と友人は言っていた。ならば僕もそうなる筈だ。強制的に戻される筈だ。もしも時間制限や距離制限があった場合は……どうにかするしかない。彼女を言いくるめて一人で家に帰り、それから、こう、上手いこと頑張って……。
「優くん?」
彼女の声で意識を引き戻される。
不安げな視線が僕へと向けられていた。どうかした? そう問いかけた僕に、彼女は震える手を差し伸べてくる。僕もまた応えようと手を伸ばして……そして気が付いた。
「――身体が」
薄くなっている。
気のせいなどではない。神社にいた頃はもっと輪郭がはっきりしていた筈だ。なのに今は、光に透かせば存在が見えなくなってしまうほどに身体が希薄化している。末端部分が特に顕著だった。
戻される。
そう、本能的に悟った。
視界が急速にぼやけていく。意識が朦朧となっていく。抗うことは出来そうもなかった。多分、しても無意味だろう。ならばこのまま変に抵抗せず、自然の摂理と成り行きに身を委ねて……。
「優くん? 優くん!」
……いや、流石にそれでは彼女に悪いか。
気合いで意識を引き留め、心の中で神様に頭を下げる。お願いします、もうちょっとだけ時間をください。すると、祈りが届いたかどうかは分からなかったが、言葉を話せるくらいには思考が回復した。
「ごめん。もう、時間みたい」
「え……消えちゃうんですか?」
泣きそうな顔。胸の痛みに目を瞑って、僕は何食わぬ顔で「そうだよ」と返す。
「僕ね。実は特別な幽霊で、明るくなると消えちゃうんだ」
嘘だ。僕は特別じゃないし、幽霊でもない。死んですらいない。
「でも暗くなれば戻ってこれるし、戻ってくるよ。言ったでしょ、君の記憶を一緒に見つける。成仏するまで手を貸すって」
だけど本当のことを伝えれば、僕は彼女を悲しませてしまうだろう。僕なら悲しむ。それどころか、とっくの昔に心が壊れている筈だ。たとえそうでなかったとしても、裏切られた感じがして、何もかもが嫌になると思う。
彼女に……そんな絶望を体験させたくはなかった。今日まで何十日もの間、長く苦しい孤独に彼女は耐えてきたのだ。これ以上はあんまりだ。
自分を正当化したいだけだろう、と。責めるなら責めればいい。
「約束するから、ね?」
最後の方は諭すような口調になった。彼女はしばらく押し黙った後、決心したような表情で僕の手を取ろうとする。だがそれは、消失寸前の僕を突き抜けて、虚しく宙を掻くに留まった。
流石に、時間切れらしい。
「……約束ですからね」
「破ったら針千本飲んでもいいよ」
……これは、本気だ。物理的に可能かはさておき、それくらいの覚悟はある。自分から手を差し出しておいて、途中でリタイアするのはあまりにも無責任じゃないか。
「だから今夜、また、あそこで――」
言い終わらない内に意識が途絶え、僕は自分が何を告げようとしていたかさえ分からなくなった。
一面の白に自分が溶け込んでいく。心地よい酩酊感。延々と続く流れるプールにいるみたいだった。
体感にして数分か、あるいは数十分それが続いた後。唐突に僕は我に返る。
懐かしい質感。身体ってこんなに重かったっけ、とボンヤリする頭で僕は考えた。
そして、朝が来る。
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