第2話

 取り敢えず座って話しましょう。

 無意識の内に質問したげな表情をしていたのか、彼女は僕の顔を見てそう言い、祠の脇にある平らな大岩へと腰を降ろす。僕が自分の場所を求めて辺りを見回していると、彼女は少しだけ端に寄って、出来上がったスペースを手振りで示してきた。手頃なベンチなども無かったので、慎んでご厚意に甘える。

「どうも」

「お構いなく」

 だが目測に反して岩は狭く、僕が座ると彼女と肩が触れ合った。

 初対面の男と接触などしたくなかろうし、落ちない程度に僕は距離を取る。しかしその事に目聡く気付いた彼女から、もっと寄っていいですよ、とのご配慮を頂いた。いやでも。いえいえどうぞ。人見知りが初対面の人と関わったときによくある、あの譲り合い合戦だ。

 最終的に、互いが相手のために場所を空けるという折衷案で折り合いをつけた。頑張れば三人目が座れてしまいそうだ。

 これまた人見知りにありがちな謎の沈黙が、しばし、僕たちの間に流れる。

「……さて、何から話してくれるかな?」

「何から話しましょうか?」

「質問に質問で返すな、って君が習ったのはいつだい?」

 彼女はぽかんと口を開けた。

 数回、瞬き。やがて、固まっていたその表情がほんの少しだけ綻ぶ。

「面白い人ですね。普通、出会って間もない相手にいきなり冗談なんて言います?」

「変人だねとはよく言われる」

 大抵は苦笑と一緒に。適切な返答が分からなくて、こちらも苦笑いを浮かべるのがいつもの僕だ。高確率で気まずくなる。

「ただまあ僕から言わせてもらうと、変なのは僕じゃなくて僕以外の全員だと思うな」

「だったら私も、その“全員”に入っちゃいます。でも……嫌いじゃないですよ、さっきみたいな粋な返事」

 そうですか。僕は短く応える。どうやらこの人も結構な物好きらしい。

 だけどそれはさておき。嫌いじゃないっていう言葉は素直に嬉しいかな。

 二十年と少し生きてきて、少数派に属することにはもう慣れっこになってしまった。だけど他人から認められれば、無条件に喜んでしまうのが僕という人間なのだ。

 少女が人差し指をピンと立たせて、空中に小さな円を描いた。

「それでは第一の質問にお答えしましょう。イメージですけど、どこかの映画で流れてそうな感じがします。カッコいい女の人が言うような」

「ハリウッドかな。朧気だけど観た記憶がある」

「わぁ。“朧気だけど”を日常会話で使っている人、初めて見たかもしれません」

 そうだろうか? 僕は普通に使用するけど。

「綺麗な言葉ですよね。朧気、おぼろげ、オボロゲ。まるで、今の私たちみたい、で……」

 尻すぼみになって言い淀む。そして俯いた。

 自分の死を認識するのは簡単でも、それを受け入れるのはやっぱり難しいものなのだろう。僕は死んだ経験が無いから、その気持ちを想像することしか出来ない。

 そしてどうやら、彼女は僕を幽霊仲間だと勘違いしているようだ。真実はあえて伏せておく。僕は生きてると告げた所で、彼女が喜ばないのは明白だから。

「この際だから率直に訊くけどさ。君って、いわゆる幽霊だよね?」

「……多分。何か他のものに見えますか?」

「いや? だけどそれにしては、らしくないなって思ったんだ」

 僕の声に、彼女は顔を上げた。

「というと」

「幽霊って、この世に心残りがあるから幽霊になるんでしょ。道行く人に必死になって呼びかけて、未練を果たそうとするじゃない。だけど、君にはそんな感じが無い。ついさっきだって、反応が生きてる人のそれだった」

 簡単に言えば、彼女には死人らしさが無いのだ。

 外見にしたってそうだ。映画でも小説でも、幽霊とは不気味に描かれるのが世の常。前髪は異様に長く、眼窩は落ち窪み、垂れ下がる腕は枯れ木の如く痩せ細っている。そして井戸から這い出てくる。最後の一つに関しては必ずしもそうではないだろうが、いずれにせよ、生きてはいないと一目で分かるような容姿をしているものだ。

 しかし彼女はと言うと。身体が半透明でなければ、現世の一般人かと見間違える程に普通の見た目をしている。だから僕はほんの少しだけ疑っていた。彼女は本当に死んでいるのか、と。

「未練。私の未練、ですか。こんな風になったからには、きっと何かあるんでしょうね」

「やけに曖昧な言い方だね。もしかして自覚が無いの?」

「……近いような、遠いような」

 彼女は首を横に振る。そしてまた、例の哀しげな笑みをその顔に浮かべる。

 儚げな横顔から目が離せなかった。溢れ出る憂いを寸前のところで押し留めようとするかのように、彼女は頻繁に瞬きを繰り返す。

 幽霊は涙を流せるのだろうか。

 ふと、そんなことを思った。

「――私、記憶が無いんですよ」

 彼女の言葉に、思わず息を飲む。

「名前も。年齢も。自分がどこに住んでいたかも。家族や友達のことまで全部。こんな姿になる前の事が、なーんにも覚えてないんです」

 もちろん、未練の中身も。彼女は付け加えた。

 辛さを誤魔化すような自嘲気味の口調に、僕は返す言葉を見つけられなかった。

 生きていた間の記憶が無い。それはつまり、自分が何者か知るための手段を、彼女は一切有していないことを意味する。命があれば他人から色々と教えて貰えるだろうが、幽霊なのでそれも不可能だ。教える他人がいないのだから。

 一方で未練が残っている限り、彼女の魂が成仏することも無い。

 要するに、記憶が戻らなければ彼女は詰んでしまうのだ。待っているのは、延々と続く孤独に心をすり減らされていく日々。正気を失うまで終わらない。

 “死んでるみたい”という、曖昧な言い方をした訳はこれだったんだ。生きている時のことを何一つ覚えていないせいで、自分の現状さえ憶測に頼って把握するしかなかったのだ。

 それがどんな気分なのか、僕には想像も出来ない。

「……不安だったでしょう」

 考えて、考えて。そうして僕が口にしたのは、そんな、誰にでも言えるような同情の台詞。自分で自分を呪いたくなる程に、安っぽくてありきたりな言葉だった。

「僕は君じゃないけど。それでも、僕が君の立場なら、寂しいし不安になると思う」

  もうちょっと、マシな言い方だってあるだろうに。

「……ごめん。大したこと言えなくて」

  彼女は慌てて首を振った。

「謝らないでください。こうして他の人と話せてるだけで、私、現在進行形で救われてます」

「ならいいんだけど」

「だから、もっと色んなことを話しませんか?」

 そう言って、彼女が右腕を持ち上げる。細い指が示しているのは鳥居の先の県道。タイミング良く、トラックが一台、力強い駆動音を立ててそこを横切った。

「誰かが通る度に呼びかけて。でも全部、無視されました。誰からも相手にされないって辛いですね」

「……笑いながら言うことじゃないよ」

「でも、一度泣いたらもう我慢出来なくなる気がして」

 ……たしかにそうかもしれない。

 無理矢理にでも笑顔を浮かべていることで、彼女の心は今日まで壊れずに済んだのだろう。水を満杯に注いだコップでも、動かさなければこぼれたりしないのと同じだ。

 あの痛々しい微笑みの理由が、何となく分かった気がした。

 彼女が身体を後ろに傾ける。転げ落ちやしないかと思わず身構えたが、杞憂に終わった。

「もしも。記憶がずっと戻らなかったら、私はどうなるんでしょう」

 分からない。だが、それをそのまま彼女に告げるのは間違いなく悪手だ。故に僕はお茶を濁すことにした。

「それは、“心配ないよ”って答えた方がいい質問?」

「……嘘でなければ」

「そう。なら僕の答えはこうだね。“心配ない、何とかなるって”」

 言えば、彼女は目を丸くして問い返してくる。

「当てがあるんですか?」

「いや、無いよ?」

 肩を落とす。そんな彼女に、僕は囁きかける。出来るだけ優しく、出来るだけ明るい口調で。

「だけどさ。何とかなるって言い続けたら、大抵のことは意外に何とかなるから」

「……魔法?」

「言霊だよ」

 言葉には魔力があるという。曰く、何度も口にしたことは現実になるらしい。

 僕は別に言霊信者ではないが、それでも、前向きな言葉が心をも前向きにすることくらいは知っている。

 他人のことは言えた口じゃない。僕だってしょっちゅうあれこれと悩む。けれど楽観的な思考で物事を捉えることも、時には大切じゃなかろうか。

 パチン、と僕は手を打ち鳴らす。不穏な空気にさようなら。希望の気配にこんばんは。

「考えても仕方ないことなんて、考えない方がいいんじゃない? 辛気くさい話は取り敢えず終わりにしてさ。どうやったら君が記憶を取り戻せるか、その方法を探し出そうよ」

 意味も無く、僕は彼女の体勢を真似してみた。そして気付く。月を観るにはピッタリの角度だ。

「記憶喪失になった人が記憶を取り戻した例はいくらでもある。そしてその大半が、生前に縁のあったものとの触れ合いが切っ掛けになってるんだ」

「ですけど私、何も覚えてないんですよ? 縁があるものと言われたって……」

「思い付かないだろうね。でもここの近くに住んでたことは確実だと思うな。普通、自分と縁もゆかりもない場所に魂が飛んでくると思う?」

「……この辺りを歩き回ってみれば何か思い出せるかもしれない。そういう事ですか」

「そういう事」

 何が引き金になるかはその時にならないと分からないものだ。風景かもしれない。音かもしれない。匂いかもしれない。それを確かめるためには、実際にその場所へ足を運ぶのが一番良い。

「記憶が戻れば未練も分かる。あとはそれを解決すれば、成仏だって出来るじゃない」

 立ち上がり、僕は彼女に手を伸ばす。

「さ、行こう? 善は急げって言うし」

「え。で、でも、まだ心の準備が」

「何を怖がることがあるのさ。戦場じゃあるまいし。それとも、もしかして僕が信用出来ない?」

「……っ、それは違います! ただ、ただ……」

 彼女は両手を握りしめて、落ちつかなげに足を組み替えた。その表情から不安を感じ取った僕は、再び彼女の隣に腰を降ろす。

 しばらく沈黙が続いた後、彼女は不意に口を開いて、独り言のような調子で話し始めた。

「…………前に、一度だけ外に出たんです。もしかしたら何か思い出すかもって思って。でも駄目だった。道に迷って自分の居場所も分からなくなって、こんな身体だから誰かに聞いても無視される。すごく……怖かった」

「そっか」

「それから外に出ようとすると、いつもその時のことを思い出して足が進まなくなるんです」

 消え入りそうな声。

「……そっか」

 思わず疑いを抱いてしまう。彼女を外へ連れ出すのは本当に正しいのだろうか、と。

 どうしよう。彼女に無理をさせるのは良くない気がする。だがここに留まっていては事態が好転しないのも明白だ。

 もしも。ここで我関せずとばかりに彼女を見捨ててしまえば、この悩みからは綺麗さっぱり解放されることだろう。僕らはつい数分前に出逢ったばかりの他人同士、助け合う義理は無い。それに僕は生きていて、彼女は死んでいる。婚姻の契りさえ砕く死で、既に僕たちは分かたれているのだ。

 ……だけどそれでも、僕はその選択肢を選べない。

 そんなことしたら人として終わる気がする。何より彼女の話を聞いておいて、はいそうですかで済ませられる程、僕の心は図太くないのだ。寝覚めだって悪くなる。

 彼女のためにも僕が後悔しないためにも、ここで僕が取るべき道は――。

「……君の気が乗らないなら、無理はしなくてもいいと思う。君のことだもんね。だけどこれだけは言わせて欲しい」

 実のところ、ここで一瞬だけ躊躇した。だけどそれでも口は閉ざさず。僕は勢いに任せてはっきりと宣言する。

「今回は、一人じゃないよ」

 死者と関係を持つってどうなのだろうか。芽生えかけた一縷の不安に、僕は見て見ぬふりをした。まあ大丈夫だろう。多分。きっと。おそらくは。

「……本当に、いいんですか」

「ここまで聞いて見捨てろと?」

「でも」

「安心して。僕この辺に詳しいし、君に貸す分の手は二本とも空いてる」

 わざとらしく両手を広げて、あえておどけた声を出す。丁度そのタイミングで月光が枝葉の間から降り注ぎ、彼女の顔を照らしていった。

 不安を残しつつも、フッ、とその表情が緩む。

 花が咲いたみたいだった。

「なら、きっと何とかなりますね」

 ええ、何とかなりますとも。

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