9話:ファーストステップ
「おー来たか石瀬、こっちこっち」
放課後。職員室に入った僕へと、手と声を上げた。先生達のデスクの間を縫って、その声の主のところへと進む。
散らかったデスクの前に、スーツの上に白衣を来た、長い黒髪の女性がやる気なさそうに座っていた。銀縁の眼鏡に下には理知的な顔があるが、表情は緩い。美人だとは思うが、女子力が皆無なのはデスクの上を見れば分かる。
彼女の名は
「おー聞いたぞ、例の美少女ギャル転校生が入部したらしいな」
「はい」
ちなみに僕は、相手が女性でも歳が近くなければ、普通の会話ぐらいは出来る。千葉先生はおそらく三十代だと思うけど、正確な年齢は知らない。
「どうやって騙くらかした? 稲荷川もそうだが、犬崎もお前目当てだろ? んだよ、シケた顔してるわりにやることやってんな」
「騙したって……人聞きが悪いです」
それに稲荷川が文芸部に入ったの僕のせいではない。多分。
千葉先生が黒タイツを履いた長い足を組み替えた。その艶めかしさは、同い年の女子達には出せないものだろう。
「美少女ランキング上位五人のうち二人が文芸部、しかも両方ともお前の知り合い……偶然だと思うか?」
「千葉先生まで何を見てるんですか……」
「チェックしてんだよ。馬鹿な書き込みしてるアホがいないかな」
千葉先生がニタニタと笑ってデスクの上に出来たゴミの山の中からペットボトルを取りだして、それに口を付けた。
「うげ、炭酸抜けてやがる」
先生がしかめっつらで飲んだペットボトルを足下のゴミ箱に放り投げた。
「で、千葉先生。用件は」
「あー。これ、稲荷川に届けてやってくれ」
そう言って、千葉先生がデスクの上に置いてあったクリアファイルを僕に渡した。ファイルの中にはあれこれプリントが入っている。
「あいつ、ここ2日、風邪で休んでいてな。その間に配布した、保護者の確認が必要なやつだよ。家行って渡してきてくれ。ついで、顔見せてやればあいつも喜ぶ」
そういえば、千葉先生は稲荷川のクラスの担任だったっけ。いくら稲荷川でも、流石に風邪引いてる時は僕を小馬鹿にする元気はないだろう。
「そういうのって、友人とか、クラスの人がやるのでは?」
「お前、家が近所だろ? うちのクラスのやつ、あの辺り住んでねえんだわ。私が行っても良いんだが。ほら、忙しいからな私」
絶対にめんどくさいだけだこの人!!
「ま、そういうわけだから、頼むよ。おら、もう用はねえ、さっさと行って
シッシッと手を払う千葉先生を見て、僕はため息をついた。ほんとにこの人は教員免許持っているのか?
「分かりましたよ。今日、帰りに寄って渡してきます」
「ういー」
もう僕に興味を無くしたのか、デスクの上のPCと向き合う千葉先生。僕は頭を下げて、職員室を後にした。
スマホを取り出し、紫苑へとラインを送った。
『ごめん、先生に稲荷川の家にプリント届けてこいって頼まれたから今日はこのまま帰るよ。ついで、耳のことも聞いておく』
『大丈夫です。あたしも丁度今、友達にお茶を誘われたので、本屋さんはまた今度行きましょう』
『りょ。じゃ、また連絡する』
紫苑とは本屋さんに行くつもりだったが、仕方ない。
少しだけ残念な気持ちになりながら、僕は稲荷川の家へと行くことにした。
☆☆☆
眠気を隠せず、あくびをかみ殺しながら僕は校門へと向かった。この
校門の向こうには長い下り坂が続いており、その向こうに僕の住む街が見える。日が傾きつつあるなか、坂を下り、大通りを左折する。
さらに大通りを直進し、コンビニがある角を曲がる。その後また坂を登っていく。
その先に稲荷川の住むアパートがあった。
稲荷川の親と僕の母さんが親しく、しかも二人とも母子家庭で家も近所ということもあり、僕と稲荷川は、物心ついた頃から良くそれぞれの家で遊んでいた。まるで兄のように僕を慕っていたあの頃の稲荷川は可愛かった。しかし、中学校に上がるか上がらないかぐらいの時に疎遠になった。
そうなってしまった理由に、少なからず僕が影響しているのは分かっている。
もう、稲荷川咲妃とは関わる事はないと思った。だけど、高校に入り、新入生として入ってきた稲荷川は、昔とすっかりキャラが変わっており、まるであの時の確執がなかったかのように、僕に絡んできた。
そして……昔と同じように接する事が出来ない僕を小馬鹿にしはじめたのだ。
仕方ない。僕は甘んじてそれを受けた。ただそれだけだ。
そんな事を考えながら僕は稲荷川の住むアパートの中へと入っていく。オートロックなんてものはない。そのまま二階へと進む。
そして階段から2階の廊下へと進もうと思った僕は――思わず立ち止まってしまった。
ああ。どうして。
廊下の奥から制服を着た背の高い少女がこちらへと歩いてきていた。
同じ高校の制服。アスリートやモデルのようなスレンダーな体型。綺麗な黒髪は無造作に後頭部で結われており、まるで尻尾のように揺れている。
その下の顔は、大人びており、可愛いというよりも綺麗と表現した方が適切だろう。
その大きな瞳がことさらに見開いている。
「いっくん……?」
その言葉で心臓が跳ね上がる。
「なぜ、いっくんがここに?」
彼女の目線が僕の右手にあるプリント入りのクリアファイルへと向けられた。
「ああ、なるほど。千葉先生に押し付けられたんだな」
全てを察したとばかりに彼女が歩み寄ってくる。
その歩みに一変の迷いはなく、自信に満ちあふれた表情を浮かべている。
「奇遇ながら、僕も一緒でね。幼馴染みなら、見舞いでも行ってこいと言われたのさ。だが残念ながら留守のようだ。風邪だというのに外出するとは、咲妃も相変わらずだな」
にこやかに、まくしたてる彼女を前に、僕はまるで蛇に睨まれた蛙……いや、虎に睨まれたネズミとでも表現するのが正しいだろうのだろうか、とにかく身動き一つ出来ずに固まっていた。
「とりあえず、そのクリアファイルはポストに入れるといい。それとも本人に直接渡さないといけないとでも言われたのかい?」
「あっ、いや……」
言葉が出ない。怖い。
「……いっくんは相変わらずのようだね。やれやれ……女らしさの欠片もない僕ですら駄目とは、随分な致命傷を負ったようだ。ほら、僕が入れてきてあげよう」
そう言って、彼女は僕の右手からクリアファイルを取ると、そのまま背を向け、稲荷川の住んでいる部屋がある廊下の奥から二番目の扉へと向かった。
僕は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。はずなのだが……。
そう僕は見てしまった。スカートの裾からチラリと覗く――縞模様の
「え、なんで」
「何がだい? さて、僕はついでに咲妃を探しに行ってくるのが、君はどうする? まあどうせ駅前のマクド〇ルド辺りにいるだろうさ。咲妃の行動パターンは分かりやすい。君が絡まなければ……の前提条件があるがね」
戻ってきた、彼女を何度見ても頭部には耳はない。
だけど僕には、分かる。
間違いなく、彼女も魔獣だ。
「どうしたんだい。さっきから僕の事を凝視して。君は、昔から少々視線が不躾すぎる時があったが、ますます酷くなってないかい? 気を付けたほうが良いぞ。僕だってこんなナリでも一応、女子の自覚は多少あるのだよ」
そう言って、僕を軽蔑するような目で見てくる彼女の名は――
僕と稲荷川の幼馴染みであり、そして文字通り全ての部分において、僕より秀でていた。
何より彼女は……それにどうしようもなく無自覚だった。
自分が出来ること、気付けることは、誰にでも出来るし、気付ける。
だから――それが出来ない他者は皆すべからく怠慢であり、妥協していると考えているタイプなのだ。
いつか彼女は必死だった僕にこう言ったのだ。なぜ、ベストを尽くさないんだい? と。
「……もういい。僕は咲妃を探しに行く。じゃあ、またどこかで」
そう言って、落胆した琥乃美が僕の横をすれ違う。
香るのは、甘い女性特有の匂いと――微かな……ビーストテイマーである僕でしか分からないであろう……獣特有の匂い。
それが、僕を覚醒させた。
おそらく、この世で最も苦手な女性の一人である琥乃美に、僕は自分から声を掛けたのだ。
「待ってくれ。稲荷川を探すのなら――
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