猫派⑨
カミールはムルジャーナの案内で、近くの民家に入った。
「それがセネトに使う道具か」
テーブルの上には、天秤のような物が置いてあった。
天秤の片一方の皿には水が張ってあり、下の方へ落ちていた。
ムルジャーナはその横にじゃらじゃらと硬貨を散らかした。
「セネトのルールを説明するわ。この天秤の空き皿の上に、お互い交互に順番に硬貨を置いていく。そして、硬貨を置いて天秤の水が零れた方の負けよ」
「相手に対して攻撃を加えることは?」
「ダ、ダメに決まっているわ! 硬貨を置くことを邪魔するのは禁止よ」
ムルジャーナは透かさず否定した。
「仕方ない、条件を飲もう。他にルールはないのか?」
「一度皿の上に乗せた硬貨を落とすことも禁止よ。そうじゃなければいつまで経っても勝負がつかないわ」
「当然だな」
「水に触れるのも禁止よ、スキルで凍らせたりするのもね。後は硬貨を置いたら、次の人は一分以内に硬貨を置くこと。ルールは以上よ」
「随分と慎重なのだな」
カミールは余裕の笑みを浮かべた。
「当たり前でしょ。ルールの間を縫ってイカサマされたら堪ったものじゃないわ」
ムルジャーナはつんけんといった。
「ほう。それでは、真っ当な勝負を望むのだな」
「えぇ、そうよ」
「いいだろう。受けて立とう」
「成立ね。私から持ちかけたセネトだから、ハンデとして一枚目の硬貨は置いてあげるわ」
ムルジャーナは50マネー硬貨を指で摘まむと、そっと皿の上に置いた。
反対側の皿、水面に小さな波紋ができたが、零れる気配はなかった。
カミールも硬貨を摘まみ、慎重に皿の上に置いた。
やはり、皿から水が零れる気配はなかった。
勝負は天秤の釣り合いが取れた時か、もしくは皿の上に積んだ硬貨が崩れて弾みがついた時か。
となると、硬貨を積む位置も考えなければならなかった。
「……」
不気味な静けさの中、互いに硬貨を積み上げていった。
皿の中には既に十枚以上の硬貨が入っており、皿の底が見えなくなっていた。
それはカミールが1マネー硬貨を皿の上に乗せる、意識を集中させている瞬間だった。
「――堕ちろ!」
突如ムルジャーナは右足を上げ、テーブル目掛けて前蹴りを放った。
カミールは特に驚いた様子もなく、ムルジャーナの蹴りとテーブルの間に、すっと自身の足を滑り込ませた。
ムルジャーナの前蹴りはカミールの足を蹴りつけ、弾かれたカミールの足はテーブルにぶつかり、天秤を揺らして皿の水が零れた。
「ずるいわ! あなた、私にわざと蹴られにいったでしょ!」
「先にテーブルを蹴ろうとしたのは貴様の方だ」
「い、言いがかりよ!」
「その発想に至る時点で、貴様は自身の敗北を認めているようなものだ」
「いいえ、私は負けていないわ!」
「いずれにせよ、裁定をするのはセネトの意思だ」
直後、天秤から黒い霧が立ち上り、瞬く間にムルジャーナを包み込んだ。
「いや、やめて! こっちに来ないで!」
ムルジャーナは黒い霧を振り払おうとするが、どうにもならなかった。この世界の呪いとは、そういうものである。
「貴様が初めから正々堂々と勝負をしないことはわかっていた。嘘をつく人間特有の気の流れを纏っていたからな。そして、ルールを聞いた時点で何をしてくるのか凡その察しはついていた」
「くっ、やるなら早くしなさい」
ムルジャーナは観念していった。
「その前にいくつか質問させてもらおう。このセネトはどうやって手に入れた?」
「もらったのよ」
「誰に?」
「知らない男からよ。フードで顔を隠していたわ」
ムルジャーナは嘘をついていない。今は嘘をつける状態にない。
「その話はいつの話だ?」
「あなたたちに見付かった後すぐよ」
「何ということだ」
カミールは険しい表情で呟いた。
ムルジャーナにセネトを渡した何者かは、カミールたちに感知されずに、ムスタラの遺跡前でのやり取りを盗み聞きしていたということである。
つまり、ファハドに敵意を持つ何者かは、カミールの気配察知の外側からこちらの情報を得ることができるということだった。それはカミールにとって屈辱的だった。
「その男に何といわれた?」
「セネトでファハドの従者を奪えっていわれたわ」
「他には何かいわれたか?」
「いいえ」
ムルジャーナに素性を明かしているはずもなかった。
「わかった、そろそろ楽にしてやろう。我が主は血が流れることを望まない。さらには、どうしようもない貴様の身すらも案じていた。しかし、外道にまで手を染める貴様を野放しにしておくことはできない。故に、セネトの力を持って貴様を生まれ変わらせ、改心させることにする」
「あなたもファハド君に似てお人好しね」
ムルジャーナは眠るように目を閉じた。
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