別れの日

世上石亥

第1話 別れの日

とうとうこの日が来てしまった。今日は美咲が出て行く日だった。本当は一週間前に出て行ってしまうはずだったのだが、女々しくも引き留めて今日まで一緒にいてもらっていた。


「彰、起きて。朝食を作ったよ。最後の朝食だから、心して食べなさい。」


彰はベッドから這い出ると、洗面所に行って顔を洗い、寝巻きのままちゃぶ台の前に座った。すでに飯が並べられていた。ご飯と味噌汁から湯気が立ち上がっている。


「いただきます。」


彰は呟くように言って並べられたご飯に口をつけていった。この料理も最後なのかと思うと食べ終わるのがもったいなく感じられて、箸が思うようには進まなかった。


「ご馳走様でした。」


美咲は早々に食べ終わり、自分の分をテキパキと片付けている。彰はその温度差が少し寂しかった。


「いつも通り洗い物はお願いね。さて、最後の準備をしなきゃ。」


そう言って美咲は茶の間に隣接した自身の部屋に入っていき、昨日のうちに纏められていた荷物の確認をしていた。


「ねえ、本当に出て行くの?」


すでに決まっていることなので今更変わることは無いのだが、彰はつい不貞腐れるように言ってしまった。


「当たり前でしょ。身の回りのことが心配ならあの可愛い彼女にやってもらいなよ。舞花ちゃんだっけ?」


美咲に舞花のことを言われると気まずい気持ちになる。それ以上は何も言えず、ただご飯を食べた。


ご飯を食べ終わってしまい、食器を片付ける。そのまま鍋とフライパンと美咲の分の食器と自分の食器を洗い、水切りケースに入れていった。


ふとリビングを見ると、美咲との思い出が蘇ってくる。随分と長い間を二人で過ごした家だった。美咲の世話焼きの性格のおかげか、ケンカは殆どなく二人で上手くやってきたと思っていた。キチンとした職につけてキチンとした生活が送れたのは美咲のおかげで間違いなかった。


美咲に舞花とのことがバレてから、美咲は帰ってくるのが遅くなったり休日に出かけるのが増えた。それは彰と二人の人生ではなく、美咲自身の人生を考え始めたということなのだろう、変わっていった美咲の行動からいつかこの日が来るという予感はあった。


複雑な気持ちを胸に抱きながら、彰は洗い物を終えて自分の部屋に戻り、ベッドに転がって宙をみた。どうしようもないことはわかっている。ただ気持ちに整理がつかないだけだ。


「そうそう、彰は明日の準備は終わったの?もう今夜は私はいないからね、手伝えないからね。頼むよ。」


美咲は彰の部屋のドアを開けて覗き込んで言った。


「大丈夫。なんとかするよ。」


「なんとかじゃ困るんだってば。頼んだからね。」


そう言って美咲はまた自分の部屋に戻って行った。


明日・・・か。彰は憂鬱な気持ちになった。


纏めていない荷物があったのか、廊下をドタバタと走る美咲の足音が家に響いていた。やがてその音が消え、「よし!」という美咲の声が聞こえた後に、「彰、荷物を車に積むのを手伝って」という呼び声が聞こえてきた。


彰はそそくさとベッドから起き出し、寝巻きを着替えて玄関に降りて行った。玄関には沢山の荷物が積まれていた。


「まだこんなにあったんだ。」


「そうなのよ、もうだいぶ運んだと思ってたのにね。置いて行っても仕方がないから。」


「車に載るかな。」


彰は一つ一つを美咲の車に運び入れた。思い出の整理という気がして足取りが遅くなってしまった。


「終わった。」


「ありがとう。じゃあ行くね。これから一人だけど、ちゃんとしたご飯を食べるんだよ。掃除もしっかりね。一人には広い家だから引っ越してもいいと思うけど、それは彰が決めてね。今までありがとね。なんか永遠の別れみたいなことを言っちゃったけど、えへへ、泣いてちゃダメだよね。」


美咲の目は赤く染まり、涙が溜まって溢れそうになっていた。溢れる前に手で拭い、笑顔を作って彰の両肩を挟むように叩いた。


「明日ね。」


美咲が言った。


「うん。」


彰が応えた。


美咲は車に乗り込み、手を振りながら行ってしまった。見送った後に戻った家の中は、騒がしい気配がなくなって孤独の色を見せていた。


——


「さて、この楽しい宴も最後を迎えまして、ご両家の代表者様よりご列席の皆様へお言葉を頂戴したいと思います。まずは新婦美咲さんの弟様であります崎山彰様よりお言葉を頂戴致します。」


司会の丁寧な言葉遣いのおばさんが彰を紹介し、スタッフがマイクを渡した。一般的な結婚式では新郎の父親のみが挨拶をするのと思うのだが、高校一年生の頃に両親を亡くし、両祖父母もいないという特殊な家庭で育った美咲は、叔母の助けを得て学業とまだ小学四年生だった弟の親代わりを両立させ、働き出してからも弟の学業を支えるという、普通の若者では経験しない青年期を過ごしており、その唯一の身内である息子のような弟に区切りとしての挨拶をお願いしたのだった。


大きく育った弟の隣に立ち、逆側には新しく増えた身内がいて、美咲は言い表せない感情が自分の中に沸き上がっているのを感じていた。


「新婦美咲の弟の崎山彰です。本日は皆様、姉と正志さんの門出にお集まり頂きまして、誠にありがとうございました。先程姉からも説明があった通り、私達の両親は私達が小さい時に他界しまして、若輩者ながら、本日は私が新婦側の代表者を務めさせて頂きました。」


美咲は、意外にも堂々と喋り出した彰にビックリして、思わず隣に並ぶ顔を見上げてしまった。いつの間にこんな立派なことを言える大人になっていたのだろう、弟のことは何でも知っているはずなのに、近くにいても気付かないことってあるんだなと思った。


「姉は両親が亡くなるまでは本当に無鉄砲で、生前の親から聞いた話では、姉が小学校のころに仲のよかった子が隣の県に引っ越したことがあって、姉はその子に会いに地図を片手に自転車で隣の県まで行こうとして結局辿り着けず、パトカーに乗って帰ってくるなんてことがあったそうです。他には、小さかった私を泣かせた近所の男の子の家に殴り込み、親同士が揉める原因を作ったこともありました。」


おい、ヤメロ。美咲は心の中で唱えた。


「でも、両親が亡くなってからは突如しっかり者に変わってしまって、家のことは全部一人でやり、私の面倒まで見た上で大学に進学し、更には大学院まで出るという偉業を成し遂げます。でも、性格が変わるというのはやはり相当な無理をしてたんでしょうね。私に対して親代わりの責任みたいなものがあったのでしょう、部活やサークルをやることなく、友達と遊びに行くことも稀で、いつ息抜きをしているのか分からないほど、姉は家にいました。大学院に進んだのも、もしかすると働くよりも私の身の回りのことがしやすいからという判断だったのかもしれません。小学校四年生から昨日まで、ずっと姉と二人で両親が残してくれた家で過ごしました。そのおかげで私は寂しい思いをすることなく、自分で言うのも何ですが、そこそこ立派に育ったと思います。これは全て隣の姉のおかげです。」


美咲は、彰の言葉に二人で過ごした日々を思い出していた。大変だったけど、楽しい思い出のほうが多かったと思う。遊べなくて辛いと思ったことも無かった。思い出していると視界がぼやけてきて、ヤバいと思った。さっきの天国の両親に向けた手紙でも泣くのは我慢したのに。


「その姉が嫁ぐと聞いたとき、正直なところ、この場には相応しくない言葉なのですが、私は喜べませんでした。それはつまり、家から姉が出て行くことを意味したからです。祝福しなきゃ、感謝を伝えなきゃという想いの裏側で、上手く言葉にすることができない感情もあって、素直になれませんでした。一度言いそびれると伝えるのが難しくなるもので、実は今日までまだちゃんとした話ができていません。ですから、ここにいる皆様の前でキチンと姉に伝えたいと思います。」


美咲は無意識に彰の礼服の裾を握っていたが、彰に振り解かれてそのことに気付いた。そして、その彰が目の前に来るのを涙を溜めた赤い目で追った。


「ねえさん、両親が亡くなってから今日まで、一生懸命に俺を育ててくれてありがとう。色々なことがあったけど、ねえさんの弟で良かったです。そして今日からは正志さんを大事にして、幸せな家庭を築いて下さい。正志さん、ねえさんをよろしくお願いします。」


彰が新郎に深々と頭を下げる。その姿に美咲は涙が溢れ出して、俯いて両手で顔を塞いでしまった。実は不安も葛藤もあった。自分が弟を一人前に育てられるのだろうか、弟は寂しいと思っているのではないか、親代わりなんておこがましいのではないか、本当は私の方が弟に依存し過ぎているのではないか。言葉にしたことがない気持ちが溢れてきて、涙が止まらなかった。


「ねえさん、結婚おめでとう。」


そして彰は元の位置に戻って話を続けた。


「皆様、暖かく見守って頂きありがとうございます。今日この日より姉と正志さんは新たな門出を迎えます。皆様には二人に今まで以上のご支援を頂ければ幸いです。本日は誠にありがとうございました。」


彰は深々と頭を下げた。それを見て新郎と新郎のご両親も頭を下げ、最後に美咲が塞いだ顔を解き放ち、涙を拭ってから泣き腫らした目ながらもしっかりと前を向いてお辞儀をした。美咲が頭を上げても、彰は頭を下げたままだった。会場は拍手で包まれていた。


彰が頭を上げて美咲を見ると、美咲も彰を見ていた。


「彰、あなた一人でやっていけるの?」


美咲が小声で言う。


「なんとかするよ。」


彰も小声で答えた。



Fin.

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