三十一話 怨み

 先程まで見る影もなかったのに、突如として現れた老婆に驚きが隠せなかった。それだけではない。虚ろな眼。

 あまりにも不気味な雰囲気にカイトは目を細めさせ、一つ深呼吸をする。

「……いくぞ」

『え、大丈夫なんですか……?』

「大丈夫もなにも、本来は俺たちの仕事だろ」

『そうですけど……』

 躊躇するミリの尻目に、カイトは老婆の方へ歩み寄っていくと、虚空を眺める視線の前で大きく手を振った。

「おぉい……ってどこ見てんだ?」

 老婆の視線を追うと、生前住んでいた家の二階窓。話によれば、彼女は二階の自室で晩年を過ごしたらしい。おそらく、そのためだろう。

 思い入れのある場所こそ、居続けたい気持ちが強くなるものだ。それは彼女に比べて非常に若い自分でも分かる。数十年となれば尚更、この場所に対する想いは強い筈。

 だが、このまま彼女をここに居させる訳にはいかない。

 どんなに想いがあっても、その想いがこの場所を蝕んでいく。申し訳ないが、還ってもらわなければならない。

「……悪いな。生まれ変わったら、またここに来いよ」

 そう告げ、右腕を横に振るう。

 しかし、そこで動作を止めることになる。

 こちらの動作に反応すらしなかった老婆の目がぎょろりとこちらの姿を捉えた。そして、小刻みに揺らいだ後、一言告げる。

『入らないで』

 その言葉の意図を瞬時に掴む事が出来なかったが、彼女の目からある一つの感情は読み取れた。

 怒りだ。

 老婆は自宅からカイトへと視線を向けた後、じりじりと歩み寄ってくる。その一歩が地面に生える雑草を少しだが弱らせていく。

 その光景があまりにも異様だった。

 同じ場所に居続ける事によって物の老朽化、草木の朽ちる早さが通常よりも上がる。だが、早まるのはあくまで数日、数十日程度だ。一瞬にして弱らせる程の早さを、見た事がない。

「こいつ……っ」

 あの時のミリを見ているようだった。記憶の一部が戻り、彼女の生きてきた道、憎悪を見た。無意識とはいえ、誰かを傷つけてしまう程に危ない。

 それが目の前に存在している。

『カイトさん!!』

 ミリの悲鳴に近い超えに反応し、カイトは腕を振り上げようと動かす。しかし、動作に入る直前、老婆の指先がカイトの体に入り込む。

 その瞬間、まるで全ての筋肉の機能が停止したような錯覚に陥り、地面に伏してしまった。

「くっそ……っ!」

 この似た感覚をあの時体験したものだ。

 ミリが暴走した時。

 やはり、負の感情が生身の人間に多大な影響を与えている。人間が一番恐ろしい生き物だと言うが、よく言ったものだ。この身の毛のよだつ感覚を覚えさせるものをぶつけてくるのは人間くらいだろう。

『わたしの家に……入らないで……』

「――悪かった。もう……はいら……」

『大切な花瓶……飛んできたボールで……あぁぁ……許せない……。勝手に入ってきて、謝りもせずに出て行く! なんてなんてなんて!』

 ぽつりぽつりと呟いていた言葉の語気が強くなっていき、目と眉が吊り上がる。

 家に入った自分達に怒りを覚えているのではなく、生前起きた事に対するものなのか。

大切にしていた物が壊されたのなら怒るのも無理はない。だが、怒りよりも憎しみという感情が上回っているのが引っかかる。

 その花瓶が老婆にとって、どんなに大切なものだったのかまでは分からない。

 人にぶつける感情ではない。

 まごう事なき殺意だ。

『し、し、しし……』

 呂律の回らない口で呟き、こちらを指差す。

『許さない! 死ねばいい! わたしの大切な大切な大切な大切な大切な大切な大切な!!』

どうやら、彼女には自分がその時の何者かに見えているようだ。

 カイトは鉛の様に重くなった体を腕立て伏せするように起こし、無理矢理仰向けへと移行させる。そして、後退りする形でゆっくりと距離を取っていく。

「悪いが……そんなことしたら謝るくらいの常識はあんだよ……。人違いだ……っ」

 鼻から伝う何かを拭うなり、振り払う。

 二回も同じ感覚を味わえば何なのか分かる。口の中に広がる鉄の味に不快感を抱きつつ、還す動作に入る。

「猶予は無しだ。還れ」

 そうは言うが、腕が思うように動かない。自分の意思とは裏腹に揺れる腕が非常に気持ち悪い。それにこの不細工な動きでは相手を還すことすらままならない。

 このままこの感覚に襲われ続ければ、最悪死んでしまいかねない。

そう思えてしまう。

『やめてください!』

 すると、怒声と同時にミリの老婆へと体当たりする姿が目に飛び込んできた。

 同じミストであれば干渉しあえるようで、ミリはそのまま老婆の体を押さえ込む。

『カイトさん、今です! 還してください!』

「……何言ってんだ?」

『私は大丈夫です。だって、私は生きているんですから!』

 確かに、カイト達の還す力は亡くなってしまった者にのみが対象となる。その為、何処かで眠っているミリの体の機能が停止しない限り、消える事はない。

 だが、それは理論としての話だ。実際は生きているミストも対象であれば、ミリも還され、消えてしまう。死んでないから問題ないと安易に巻き添えなど出来ない。

「どけっ! あぶねぇだろ!」

『それだとカイトさんが危ないじゃないですか!』

 そう言葉を発した時、ミリの体が老婆の力によって弾き飛ばされる。筋肉というものがあるのかさえ思わせる痩せた体とは思えないくらいだ。

『きゃっ!』

 ミリの短い悲鳴が耳に届いた時にはもう老婆の顔が一メートルほどにまで迫っていた。だが、最初の動作が済んでいたカイトにとって、その距離でも十分に還す事が出来る。

「悪く思うなよ」

 そう言い、空高く腕を振り上げた。

 つんざくような老婆の悲鳴に顔を顰めさせた後に残ったのは僅かな残照だけとなった。

予想にもしていなかった出来事に肝を冷やしつつもなんとかやり過ごせた。だが、問題はミリだ。

 カイトは重い体を起こし、こめかみを揉むと、駆け寄ってくるミリに目を向ける。

『カイトさ――』

「お前、自分がやったこと分かってんのか?」

『え、それは……』

「生きてるから還らない保証なんてねぇんだよ。そのせいでお前が死んじまったら、取り返しつかねぇんだ」

『す、すみません……」

「次、そんなふざけた事したら絶交だからな」

 これ以上、大切な人を失うのを感じたくない。

「もう誰か居なくなるのは見たくねぇんだ。分かってくれ」

 両親と目の前のミリ、自分にとって大事な人だ。失うのはもう両親だけで止めておきたい。友人のミリだけはこれからも共に行動したいと思うし、還し屋になる夢を持っているなら、助けになりたい。

『……ごめんなさい』

「ったく、帰るぞ。風呂ってさっさと寝る」

 カイトはミリの頭を叩くように振るい、鼻を鳴らした。

「明日はクリスと今後の話するからな」

『は、はいっ』

 ミリの表情が少し明るくなり、頷いた。

身を呈して護ってくれるのは非常にありがたい。だが、それで自分が危なくなってしまうと意味がない。夢を持っているのなら尚更だ。

 体力を使い果たしたような重い体に鞭を打ち、一歩ずつ進む。その都度、疲労のため息が漏れ、いやになってくる。

 ここから自宅まで二〇分程度。本来ならなんてことない距離だが、今の調子では倍以上の時間が掛かってしまうかもしれない。

『だ、大丈夫ですか?』

「あぁ……まさか、触れられただけでこんなになるとは思わなかったからな…」

『……恨み、ですかね?』

「恨み?」

『はい。恨みとか嫌な感情があると、カイトさんみたいな生身の人達を傷付けちゃうんではないでしょうか?』

 負の感情が人を傷付ける。

 ミリの記憶を取り戻そうした時の光景が脳裏に浮かんだ。突如流血。ミリの件でも気を失っている。下手をすれば、命を落としかねないものであり、ただの体調不良として片付けられない。

「……そうだとして、お前はそんなことしねぇだろ? それで十分だ」

『私じゃなくて、他の方達のです。こういう事はこれからも起きるかもしれません。もしかしたら、カイトさんが――』

「俺のことより、一般人だろ。野放ししてたら、視えない奴らが軒並み倒れちまう。そうならないようにすんのが、俺達の仕事の一つになんだろ」

 ミストを視る事が出来る還し屋だからこそ、先程のような暴走したミストを押さえる事が出来る。襲われたとしても、視えのであれば対策しようがある。

『そうかもしれませんけど……』

「お前も、体に戻ったら頼むからな」

『恐ろしいですけど……頑張ります……』

 顔を引き攣らせながら頷くミリにカイトは小さく笑い、家路に着く為に、重い足を一歩進める。

 そこで、一つの物音が聞こえてきた。

 日付が変わり、周囲の生活音が無くなっている時間帯であるので、その音を聞き逃す事はなかった。

「なんだ?」

 音のした方向へ目を向けると、それは無造作に転がっていた。

 

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