三話 所長と先輩
朝。
窓から照らされる太陽の日差しに、カイトは目を覚ました。差し込む光が、瞼越しに伝わってきては、じわじわと眠気と拭いとっていく。目を閉じながら上半身を起こし、大きく伸びをした後、漸く瞼を開いた。
カイトの部屋は一人で暮らすには広い。寝室からリビング、台所と数人で暮らすのが得策と思える程である。本人はこの部屋に住むつもりはなかったのだが、所長であるクリスによって渡された部屋の為、断るという選択肢は最初から存在する事が無かった。
彼に、両親は居ない。理由があっさりとしている。
事故死だ。幼い頃、家で両親の帰りを待っていたのだが、家に訪れたのは知らない人達だった。そして一言、『お父さんとお母さんが死んだ』である。当時の彼には、その意味が瞬時に理解できるものではなかったのは必然であった。身近な者の死を実感するのには、まだ早い年代なのにも関わらず、彼から肉親を奪い去ってしまった。親類も居なかった為、強制的に孤児院へと入る事となって数年間、何の不自由も無く過ごす事は出来た。特に人間関係に不都合が無く、少しばかり距離を取っているだけで、喧嘩や確執が生まれる事は無かった。
一五歳の誕生日の時、孤児院の院長に自宅へ一日だけ帰りたいと申し出た。理由は、親との思い出の回収である。現在、カイトの部屋には、生前の両親の写真立てなどが大切に立てかけられ、保存されている。その回収だ。
だが、院長からは住んでいた家には行かない方がいいと告げられた。悪いものが居座っているとだけ言われて納得出来る事も出来ず、院長の進言を無視して自宅へと戻った。そこで、出会ったのが、クリス・サリウスだ。
『君がローレンスの息子か』
彼女はカイトに向け、笑みを浮かべた。
当時の彼女に対する印象は、只の不審者だ。
しかし、親が彼女と交流があった事を知ってからは自分も交流が始まり、気がつけば、彼女の還し屋という職業に魅力を感じ、いつの間にか還し屋になっていた。
「何思い出してんだよ……」
『何をですか?』
不意に頭上から声が聞こえ、天井を見上げると、ミリが中に浮いてこちらを見下ろしていた。
「……は?」
『え?』
常識外れな出来事に顔を歪ませ、思わず喧嘩腰に言ってしまった。
人間が何の支えも無く浮くなど有り得ない。ミストなのだから仕方のない事だと言われてしまえば、それまでなのだが、昨日までその正体を知らなかったカイトにとって、全てが驚愕に値するものとなっている。
「何で浮いてんだよ」
『えっと……、何ででしょう……?』
自分の状況を把握しきれていない彼女に、カイトは溜め息を吐くとベッドから降りて洗面所へと向かう。鏡を前に歯ブラシを持ち、磨き始める。その後ろでゆらゆらとミリが、こちらの様子を窺うようにして浮いていた。
「降りろ。気になるだろうが」
『す、すみません……』
ミリはしょんぼりとした表情を浮かべ、ゆっくりと床に足を着けた。
出来るなら最初からしろ、と言おうとしたが、これ以上言うのは止めた。
洗面所から出ると、愛用しているジャケットを羽織り、玄関へと向かう。そんなカイトに、ミリが首を傾げさせる。
『朝ご飯は食べないんですか?』
問い掛けてくるミリに、カイトはドアノブに手を掛け、振り返る事もせずに答える。
「朝は食わねぇ」
『健康のためにも食べましょうよ』
「食欲はない」
それだけ答えて外に出た。
時刻は九時を回ろうとしている。外には、仕事場に向けて行き交っている男女、買い物に向かう主婦らしき女性が見られた。仕事に向かう者は身形を整え、清潔感を保っているのが殆どである。それとは逆に、同じ仕事を行う身であるカイトは、普段着と変わらぬ服装であり、他人からは朝っぱらから遊びに勤しんでいる若者と見られがちで、何も知らない老人からは『怠け者』と蔑称された時もあった。
『皆さんお勤めご苦労様ですね』
行き交う人達を見回しながら、ミリは一人にしか届かない労いの言葉を投げかける。
「お前はどうなんだよ。働いてなかったのか?」
『どうでしょう? 思い出せません。けど、何かと動いていたという感覚はあります』
歩を進めるカイトの後ろで、彼女は自信なさげに答えた。
カイトは様々な色で建てられた建造物達を見上げると、窓から見えるせっせと仕事の用意に勤しんでいる女性が見えた。その女性に、傍に居るミリと重ね合わせてみるものの、妙な違和感を覚えてしまい、すぐに遮断させる。
「さすがに働くイメージが湧かねぇな」
『きっと働いてましたっ。現に、ずっと家に居る事を想像してげんなりしています』
「なら良かったよ、穀潰しの面倒なんざ見る気はないからな」
そんな会話を繰り返しているうちに、カイト達はクリスが居る事務所に辿り着いた。階段を上っていき、開きづらいドアを抉じ開ける。
「クリス、言われた通りき……」
そこで、カイトの言葉が打ち切られた。
何故なら、生きてきた中で唯一の天敵がコーヒー片手にソファに座っていたからだ。
「うっわ、カイトだ」
少女がドアの方を振り返る事もせず、鬱陶しそうな声を上げた。
セレカティア・アテライト。金髪をツーサイドアップにした髪形、歳はカイトよりも一つだけ下なのだが、実年齢よりも幼く見られる事が多い程の顔つきをしている。しかし、彼女はそんな自分の顔がコンプレックスとなっており、少しでもそれを緩和しようと眉間に皺を寄せている。ただ、その状態は維持する事も出来ずに十数分でいつもの表情に戻ってしまう。
「それよりも姐さん、この革服どうでしょう? 姐さんの色違いなんですよぉ」
セレカティアはフードの付いた服に羽織られたオレンジ色のレザージャケットを広げ、ご満悦な表情を浮かべて見せた。それに対し、クリスが親指を立てる。
「いいと思うよ。けど、高かったんじゃない?」
彼女はクリスの事を『姐さん』と呼んで慕っている。そうなった経緯がカイトは知らないが、同じ所属となっているという理由だけで嫌われている。クリスの事を心の底から尊敬しているが故に、自分に対する扱いが気に食わないようだ。
「今日も休みじゃなかったのかよ?」
「用があって来てんの。あと、先輩には『さん』づけでしょ?」
「それは失礼しましたよ、先輩」
「年上の癖に礼儀ぐらい弁え――」
セレカティアがこちらを振り向き、毒を吐こうとして口が止まった。
その理由は明らかだ。
人の姿をしたミスト、ミリ。
「なんだ、初めて見るのか?」
カイトは軽く見下した風に彼女に言った。実際、昨晩見たばかりなのだが、その事は知らない筈だ。仕事仲間であり、敵であるセレカティアの一歩前を進めた事による優越感を持ちながらの問いかけだ。
だが、
「はぁ? そんな訳ないじゃない」
と、逆に見下された発言を受ける事となった。
「あたしを誰だと思ってんの? 最年少で還し屋になったセレカティア・アテライト様よ。そんなの当の昔に見た事あるわよ、何回もね」
セレカティアは一つ年下なのだが、一五歳から取得可能である還し屋の資格を、弱冠一ニ歳の特例で取得している。その特例は、両親が名の知れた還し屋という事もあっての許可であった為、少しばかり批判を食らったという噂を聞いた事があった。
「正確には、今ので三回目だよね」
そうクリスが付けたし、こちらを憐れむ様に目を細めさせられる。
「でも、珍しいのは変わりないわね。姐さんの言った通り」
ミリの顔、体と視線を移していき、
「綺麗ね」
と呟く。
『え……っと……』
顔を赤らめさせるミリだったが、そんな彼女にセレカティアは否定する様に手を振った。
「可愛いとかの感想じゃないから。顔つきがいいって事」
『あ……はい……』
さらに顔を赤らめさせるミリを後目に、カイトはその言葉について質問を投げかける。
「どういう意味だそれ」
しかし、セレカティアは目を細め、問いを突っぱねる。
「見習いさんには関係が――」
「私が説明するよ。ミストの事で来たんだしね」
険悪な雰囲気をこれ以上作らない為の配慮なのだろう。カイトにとって、それは余計なお世話と思うも、本当に知りたいのはミストについてだ。文句を言っては余計な時間を食うだけである。
「ミストって何でそこに居座るか分かる?」
「知るかよ。昨日、正体知ったばっかなんだぞ?」
「だよね。正解はそこで、死んだか思い入れのある場所だったかの二つ。で、その思い入れについてなんだけど、単純に考えて二つあるのよ。良い思い出と悪い思い出、即ちトラウマ。それらが強いと、その場所に居座る原因になっちゃうの」
「じゃあ、発光体とミリみたいな奴の違いって?」
「記憶の濃さ、よ」
クリスは深く座っていたのを座り直し、人差し指を立てた。
「神と人間の話に、死んだ人間が新しい人間に生まれ変わる話って知ってる?」
「あぁ。孤児院で嫌って程聞いた。けど、あんなの本だけの話だろ」
「死んだ人間は生前の記憶を全て消去してから次の人間に生まれ変わる機会を待つってのが、話の過程にあるじゃない? 形を保っていないミストは殆どの記憶を消去されたもの。けど、執着するなにかが原因で生まれ変わる事も出来ず、半永久的に留まる事を強いられてしまうのよ。放っておけば、全部消えると思えちゃうけど、人間なんて気にすると原因が知ろうとするもの。逆に、留まる要因となる記憶を持ってるのが、ミリみたいな人の姿をしたミスト。記憶の中に、生前の自分の容姿も覚えてるしね」
そこで、ミリが小さく手を上げる。
『私、何でミストになったのか分かりませんけど……』
「そこなんだよねぇ……」
クリスは少し困った様子で肩を竦ませ、ミリに視線を向けた。
「ミストになる要因になった事をどうにか出来れば、いくらでも対処出来るんだけど、それすらもないと還すのも気が引けちゃうし」
それ以前に、と言葉を続ける。
「君の本体は生きてるから還せない」
そう言われたミリの表情が明らかに沈み、最終的には俯いてしまった。
自分がどの様な人物だったのか分からない事が不安なのだろう。一体、どこで生まれ、どんな生活をしてきて、どういった経緯でミストになったのか。それらが忘れてしまうという事は彼女にとって死活問題とも言える状況だ。
「ま、まぁその問題をどうにかするのかが私達なんだけどね」
クリスは苦笑いし、自分とカイトを交互に指差した。そして、次にセレカティアを指差す。
「あなた達、ミリちゃんの記憶については掘り下げる様な事はするんじゃないわよ? 急にいくつもの記憶を思い出させるのは、思い出す本人に負担が掛かるんだからね。するなら、ちょっとした助言程度。いいわね?」
それに対し、セレカティアは軍人が行う敬礼を行う。一方、カイトは落ち込んでいるミリを一度見、数回頷く。
「分かった。なるべく控える」
「よろしく。ミリちゃんも、焦らなくていいからね。ゆっくり、よ」
椅子から立ち上がるクリスがミリに向けて笑みを浮かべさせると、ミリは複雑な面持ちで頷いた。
「はい。ありがとうございます」
「相談はいつでも乗るからね。じゃ、カイトとセレカ、あとは頼んだ」
突然、頼まれた覚えのない事を頼まれ、カイトは目を丸くさせる。
「は? どこいくんだよ」
すると、彼女は人差し指と中指で挟んだ一通の手紙を見せてきた。差出人の所は指で見えないが、達筆でクリス宛に署名されているのだけは確認出る。
「お誘いの手紙。ちょっと行ってくるわ」
「……あっそ」
「じゃあねぇ」
クリスは事務所から出ていくと、階段を下りていった。その際に、リズミカルな音が聞こえてきて、彼女が如何に上機嫌なのかが伝わってくる。
カイトは開いたドアを閉めるなり大きく溜め息を吐く。
『クリスさん、デートに出かけたという事ですか?』
「あぁ、そうだな」
『綺麗な人ですから、男性の方々は放っておかないでしょうね』
手を頬に当てて、クリスについて思いを馳せるミリだったが、それを慕っている筈のセレカティアがばっさり切り捨ててしまう。
「いや、それは最初だけ……。姐さん、還し屋としては尊敬できるんだけど。異性として見るのは……ないかな」
『え』
まさか、セレカティアの口からその言葉が出るとは思わなかったのだろう。彼女の口からは間の抜けた声が漏れる。
「あいつ、最初はちゃんとするみたいなんだが、酒が入るといつもの性格が出ちまうんだよ」
『それがどう、セレカティアさんまでも――』
「片づけもしねぇ女に男が振り向くか?」
カイトはソファとクリスの机に積まれている書類の山を親指で指し示す。それを見たミリが数秒固まった後、現実から目を逸らすように、再びカイトを見つめ直した。
『これは指導すれば治る範疇で――』
「最初に来た奴は、もれなくあいつの風呂上がりでコーヒーをがぶ飲みする姿を拝む事になる。そんな女が生活面を根本的に叩きなおす事が出来るか?」
悉く反論する手段を絶たれてしまったミリは、諦めの溜め息を吐くと、静かに彼から視線を外した。
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