身代わり
絢瀬
side.加蓮
『会いたい』
軽快な音を立ててメッセージを受け取った私のスマホの画面には、たった一言それだけが浮かんでいた。差出人なんて見なくても分かる。残業明けだという人の事情なんて微塵も考えていないだろう女の、無駄に綺麗な笑みが脳裏に浮かんで思わず顔を顰めた。
『疲れてるんだけど。他を当たって』
私も短く返事をして携帯をベッドに放り投げた。間髪を入れずに再び返信。
『加蓮に会いたい』
文字数にして3文字。ほんの少し増えたその一言に、自尊心が擽られるのを感じる。あの女のことだ。当てなんて他にいくらでもあるだろう。それでも、私がいいと縋ってくれる。その感覚を味わいたいがために行われる、もはや形骸化したやり取り。これじゃあ私が面倒くさい女みたいじゃない。などと自虐的に突っ込んでみるけれど、実際そうなので何とも言えない気分になる。結局、私だって心のどこかであいつに会いたい気持ちはあるのだ。会いたい、と言ってくれる向こうに流されている振りをして自分の面子を保とうとしているのは私の方。なんて器の小さいこと。これで、あいつが会いたいと言ってくれなくなってしまったら…。
「…いや、まずは準備しないと」
思考がマイナスの方面に舵を切り始める前に強引に意識を現実に引き戻す。自分から突き放すような態度しか取れないのに、いざ離れてしまうことを考えると苦しくなるのは私の昔からの悪い癖。こうやって何人も大切な人を失ったというのに学習せずに同じことを繰り返しているのだから笑えない。
連絡が来た瞬間から家を出る準備はほぼ終わっていたも同然だった。持ち帰ってきたばかりの鞄から財布と家の鍵、そして自転車の鍵を引っ張り出してスーツのポケットに突っ込む。
『いま家出た』
簡素な報告には、クマが満面の笑みでサムズアップしているスタンプで返された。キラキラとした装飾のそのスタンプは、なんとなく私たちのやり取りの中で異彩を放っているように感じられた。
『寒いから気を付けてね』
追加で添えられた一言に、思わず頬が緩む。どうやら今日は比較的甘えたの日らしい。コートも羽織らずに出て来てしまった私にその忠告は手遅れと言わざるを得ないけれど、きっと自転車を飛ばせば身体は温まるだろう。そう思って力いっぱいペダルを踏みこむ。
「…っとと、あぶな」
勢い余って自転車が大きく蛇行したが、すぐにスピードに乗って安定し始めた。今日はなんだか足が軽い。この調子だったら、きっといつもより早く着けるはずだ。
ぴんぽーんぴんぽーん。家に着いてひたすらにチャイムを連打する。
『開いてる』
「なるほどね」
メッセージを確認してドアノブに手をかけると、それはあっけなく開いた。
「遅かったね、加蓮」
「これでも自転車飛ばしてきたんだけど」
リビングに入るなり、家主はソファにふんぞり返って私のことを出迎えた。
「知ってる。顔真っ赤だよ、子供みたい」
彼女はそう言って立ち上がると、足音も立てずに私の方へ歩み寄ってきた。頬に手を添えられて、思わず少しだけ後退る。彼女の手は指先まで熱を持って私の頬をじんわりと温めた。
「久しぶり」
「先月も会ったでしょ」
「会いたかった?」
私の言葉なんて何一つ聞こえていないみたいに顔を覗き込んでくる。澄んだ瞳は薄茶色で、月並みな表現だけれど吸い込まれてしまいそうな不思議な魅力を湛えていた。
「…私は会いたかったよ、加蓮」
「…そう」
こんな時まで、会いたかったの一言が出てこない自分が恨めしい。まるでメドゥーサと目を合わせてしまった哀れな人間のように、私はただただ彼女の瞳を覗き込んでいる。きっと彼女は私の何もかもを見透かしているのだろう。会いたかったと言えないことも、本当は会いたくて仕方なかったことも。
「ね、キスしていい」
「…今まで、聞いてきたことなんてなかったくせに」
「確かに。…加蓮が会いたかったって言ってくれなかったからかもね」
「意地悪だね、優子は」
「そうかも」
くすくすと笑う彼女は、まるで余裕の笑みを崩さずに私に口づける。
その唇は、私の身体が冷えていたからだけじゃ説明がつかないくらいに熱くて、ほのかなアルコールの匂いを漂わせていた。
「ゆ、うこ…」
「なぁに」
「会いたかった…かも、しれない…」
「そっか」
言葉こそはそっけなかったけれど、彼女の口角が満足げに上がったのを私は確かに感じ取っていた。気付けば私の体温も彼女と区別がつかないくらいまで上がっていて、耐えきれずにスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。ポケットに入れた財布やら鍵やらが落ちる音が、やけに遠くに感じられる。
「ゆうこ」
「ん?」
「…いどうする?」
「んー、ここでいいよ」
「きょうは、いそぐね」
今度は私から目を合わせにいくように顔を覗き込むと、彼女は曖昧な笑みを浮かべてそっと目を逸らした。
「しつれんした?」
薄々気付いてはいたけれど、抑えきれずに問いかける。
「…っ」
大きく瞳が揺れて、動揺がはっきりと表に現れる。すぐに取り繕ったように視線が安定したけれど、やはり最初の反応が全てを雄弁に物語っていた。
「やっぱり」
「…っち、違うの。でも、それが理由で連絡したわけじゃなくて…」
なおも言葉を続けようとする優子の唇を塞ぐ。
「なんでもいい。それ以上喋ると余計言い訳っぽくなるよ」
「ごめん…」
「抱きたい?抱かれたい?」
「…抱かせて」
「わかった」
体重をかけられるがままにゆっくりと後ろに倒れる。ここでいいなんて言っていたけれど、結局私が下になるんじゃない。ひじ掛けの位置に気を付けながらソファに身体を預けた。
「痛くない?」
「大丈夫」
彼女の長い髪が頬を掠める感覚が妙にくすぐったくて身動ぎする。艶やかな黒髪は、まるでカーテンのように私たちとそれ以外とを明確に仕切っていた。この世界に二人しかいないような気分。彼女の顔が、影になって良く見えないのがなんとなく惜しい。
「ごめんね」
「何が?」
あくまでも私は、何とも思っていないふりをする。この瞬間、私は誰かの身代わりなのだと、強く自分に言い聞かせる。彼女にとって都合のいい女であり続けることは、私にとっても都合が良かった。彼女が私に振り向いてくれることはないだろうから。私を通して誰かを見ていたって構わない。彼女の手が私に触れてくれる。その事実だけが、きっと私にとって必要なんだと。そう思い込むのだ。
「ううん、なんでもない。…触るよ」
「うん」
彼女の手は、いつだって優しい。まるで壊れ物を扱うかのようにの表面をなぞっていく。私はこの時間がたまらなく好きだ。自身の身体が、全部彼女の手によって支配されていく。
「…あ、んんっ」
こらえきれずに溢れ出した嬌声は、そのまま彼女の口内に吸い込まれた。
「ちょ…、ん…っ」
「気持ちいい?」
彼女の問いかけに、無心で首を縦に振る。目は閉じたままだった。彼女の瞳を見ると、そこに誰が映っているのかを考えてしまうから。ただひたすらに、彼女の手の感覚に意識を集中させる。その手が、私の中に入った瞬間。私はいつも背徳感に打ち震える。今、彼女の白く美しい手を汚しているのが自分だと思うだけで快感が高ぶっていく。
「限界?」
二度目の問いかけにも、私はただ首を縦に振るだけだった。彼女の指が一層激しく私の中を蹂躙する。少しでも長くこの感覚をだなんて考える暇もなく、私はそのまま絶頂へと押し上げられた。
「お疲れ様」
生理的に溢れた涙でぼんやりと霞む視界の中、彼女の顔が近づいてくるのが見えた。何度目か分からないキス。すっかりお酒の気配は抜けて、私を労わるような、そんな優しさが感じられた。
「…っはぁ。きもち、よかった」
「なら良かった。お風呂湧いてるけど入る?」
「ん」
「泊まってくよね?」
「ん。…話、聞かせて」
「え?」
「失恋したんでしょ。聞いてあげるけど」
「ほんと?…助かる」
そう言って彼女はふにゃりと笑った。何度身体を重ねていても、私たちは一生友人のままなんだと思う。最初に行為に及んでしまったあの日から、私たちはずっと何かを間違えたままここにいる。いくら私が心の中で彼女に好意を寄せたとしても、それが叶うことはないのだろう。だから私は、この不安定な関係を維持し続けるのだ。ずるいことは分かっている。それでも、私は少しでも彼女に近しい場所にいたい。
『会いたい』のメッセージは、私にだけ届けばいいんだ。その為だったら、私は一生誰かの身代わりで良い。
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