第80話 失われた記憶
乃々華は自室のベッドの上で目を覚ました。ぼんやりとした頭が覚醒するのを待つ。随分と深く眠っていたような気がするが、今は何時だろうか?
目をこすりながら体を起こした乃々華は、自身が掛け布団の上に体を横たえていたことに気がついた。今までしたことがない寝方を不思議に思い、首を傾げる。
だが、しばらく考えても眠る前に何をしていたのかを思い出すことはできなかった。夕食の調理をしていたことまでは思い出せたのだが、それ以降の記憶はすっぽりと抜け落ちている。
何とも言い難い気持ち悪さを抱えたまま、乃々華は寝室を出てキッチンへと向かった。現在時刻は十九時過ぎ。間も無く帰宅する父のために、夕食の準備を整えなければならない。
IHコンロの前に立ち、フライパンに被せていた蓋を外す。その時、乃々華は思わず「あれ?」と声を漏らした。
家政婦さんが辞めて以降、この家では父と二人で暮らしてきたはず。にも関わらず、フライパンの中には何故か三人分である六つのハンバーグが並んでいた。
「何だろう? 変だな……」
特に母の命日が近いというわけでもない。無意識的にこのような行動に出てしまったのだとすれば何か理由がありそうなものだが、まるで思いつかなかった。
母を失ってから長い時が経ち、寂しさのあまりに求めてしまったとでもいうのだろうか?
哀れな自分の姿に、ついため息が漏れる。
「もう……お母さんはいないのに」
乃々華は余分な二つのハンバーグを皿に避けると、ラップを掛けて冷蔵庫に仕舞った。
冷蔵庫の扉を閉め、改めてフライパンへと向き直る。その時、廊下へと通じる扉が開かれる音が耳に届いた。スーツの上に黒いコートを着用した父が「ただいま」と言いながら姿を見せる。
「乃々華、玄関の鍵が開いたままになっていたよ。不用心じゃないか」
「本当? ごめんなさい……」
乃々華は父から受けた思いもよらぬ指摘に驚いた。玄関の鍵を開けた覚えなど全くないというのに。
気づいたら眠っていたり、知らぬ間に玄関の鍵を開けていたり、普段よりも多い量の夕食を作っていたりと、今日の自分は何だか変だ。疲れているのか、それともストレスが溜まっているのか……。
もしかすると、脳に大きな病気が隠れているのでは? そんな考えが
一体自分はどうしてしまったのだろう。行き場のない不安と不気味さを、乃々華はため息として外に放出した。
「どうしたんだ?」
心配そうに声をかけてきた父に、「ちょっとね」と言葉を返す。
「何だか今日は変だなって。いつの間にか寝ちゃってるし、鍵は開けちゃってるし、ハンバーグの数は多いし」
「ハンバーグの数?」
「うん。六つも作っちゃってて……」
乃々華はそこまで話したところで、こちらを見つめる父の顔がいつにも増して真剣であることに気がついた。思わず、続けようとしていた言葉を止める。
「……乃々華。お父さんが帰ってくるまで、家では一人だったのか?」
「そうだけど……どうしたの?」
乃々華の問いかけに、父親は何も言葉を返さなかった。僅かに俯き、考えを巡らせるような素振りを見せるのみ。
何か変なことを言っただろうかと乃々華が思い始めた時、父が真剣な表情のままこちらを見据えてきた。真一文字に結ばれていた口が、ゆっくりと開かれる。
「少し、駅に電話をかけてくる。直ぐに戻って来るよ」
「……うん、分かった」
乃々華はそう小さく声に出すと、急ぎ足でリビングから出て行く父親を見送った。
自分の身に一体何が起こっているのか。それを知りたくはあったが、同時に何故だか知ってはいけないようにも思えた。
この奇妙な感覚がどこから来るのか。乃々華にはまるで見当がつかなかった。
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