第77話 嘘

 美しい薔薇の花が咲き乱れる大阪駅の結界内。その一角にあるカフェスペースで、椿は金の縁取りがされたティーカップを持ち上げた。ゆっくりと口元へ運び、中に注がれている琥珀色の紅茶を飲み込む。

 鼻から抜ける仄かな薔薇の香りを堪能していると、正面に座る駅神が問いかけてきた。


「体調の方は如何かね?」


 椿はまだ半分程度中身の残っているティーカップをソーサーに戻すと、駅神へと視線を向けた。出勤して早々結界内へ来るよう神田を通じて伝えられた時は何事かと思ったが、どうやら体調について尋ねるためだったらしい。


「問題ありませんよ。この駅へ来たあの日と何も変わりありません」


「そうか? それならばよいのだが……」


 駅神は椿に怪訝そうな視線を送りながら呟くと、自身のティーカップに新しい紅茶を注いだ。強くも心地よい薔薇の香りがふわりと周囲に広がる。


「最近、蠢穢が活性化しているだろう? 数や強さが以前のように戻り始めていることから、君の力が弱まっているのではないかと皆が考えているんだ」


「そうですか。私は昔の大阪駅の状況を知っているわけではありませんが、確かにまだ駅を持っていた頃に見た個体が現れ始めたように思いますね」


 大阪駅で目覚めた時、自らの駅とはまるで違う蠢穢の大人しさに驚いたことを覚えている。動きが鈍く、攻撃性の低い蠢穢達。それらをこの駅独特の物と思い込んでいたのだが、そうではないと知り何が起きているのかを察した。

 そんな、駅神が二柱存在することにおける最大の恩恵が失われつつある。そのことが意味するのは、本来の大阪駅への回帰。つまりは過剰な駅神の消失だ。


「例え体調に変化がなくとも、最後の時が迫っていることは間違いない。いつその日を迎えても後悔のないようにな」


「ええ。分かっています」


 椿はそのように答えると、ティーカップに残っていた紅茶を飲み干して席を立った。テーブルの上に置いていた制帽を手に取り、頭に被る。


「何か変化があればお話しに来ますから。ご心配なく」


 少々早口気味に伝え、椿は足早に駅神のカフェを後にした。




***




 椿は祠に通じる鉄扉をしっかり施錠すると、冷え切った地下道を駅務室の方向へ歩き始めた。地下水が流れる水音と反響する自身の靴音を聞きながら、真っ直ぐに歩みを進める。

 だが突然、それらの音が不快な耳鳴りによって上書きされた。


 思わず立ち止まり、割れるような痛みを訴え始めた頭を押さえる。激しい目眩によって立っていられなくなり、その場に屈み込んだ。湧き上がる吐き気によって自然と呼吸が荒くなる。

 薄いガラスが割れるような音と、汚泥を掻き混ぜているかのような湿り気のある不快な音が耳鳴りに混じって響く。前回よりも質量のある塊が体内を掻き分けながら落ちていく。吐き気が一段と強まり、椿は咄嗟に口元を抑えた。


 駅神に対して虚偽の申告をした罪悪感が、じわりと胸の奥に広がり微かな痛みとなる。体調の変化はとっくに始まっているが、それを口に出すことはできなかった。

 本当のことを話せば、大阪駅神を始めとした駅の皆は自分を心配するだろう。自分が最後に見たいの顔は、そんな悲しみに満ちた表情ではない。いつも通りに過ごし、楽しく笑っている顔なのだ。

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