2.

 少女から遠慮というものが完全に消えた。

 椅子の上から手一杯、体と腕をのばしてあらゆるものをかき集め、片っ端から「これは何か」と尋ねてきた。

 ヴァールが期待していたような『その辺にあるもので一人遊び』という構図にはならなかったのだ。一つ目を沈黙で応えたら、何倍もの勢いで問い直してきたので、ヴァールは誠実に答えるしかなかった。それでも多少の抵抗はしなければ気が済まない。返す言葉は短く、そして不親切に。

「それはなんだ?」

「時計だ」

 士官学校を卒業した時に支給された腕時計。軍にいた頃は肌身離さず持っていた。

「こっちのはなんだ?」

 ビルカが筒状のものを手にする。

「それは」

「ぐぬぬぬ」

 説明を待たずにフタを開けようと力を込める。止める間もなくフタが開いた。

 二人を包むように舞い上がる白い粉。残っていたのが少量で良かったと心から思った。

「それはフットパウダー」

 ヴァールは口もとを手で保護しつつ、筒ではなく宙を漂う粉末を指した。軍靴を履く上で欠かせなかった衛生用品ではあるが、こんなものまで持ってきていたのかと呆れてしまった。

 どれも必要かどうかなど考える余裕もなく、手当たり次第に詰め込んできた。記憶をなくしたときに何かの役に立つかもしれないと、保険をかけたつもりだったのだろう。全くの無駄になってしまったわけだが。

 それにしても、ものに染み込んだ記憶というものは絶大な力を持っている。それについて交わす言葉は淡泊であっても、ヴァールの中にはそれぞれにまつわる思い出が次々に浮かんできた。

 友人と贈り合ったシースナイフ。懐にしまうばかりで一ページたりとも使うことのなかった革表紙の手帳。ポケットチーフ。穴の開いた水筒。ベスティエ用の特殊なネジ。

 一人であれば思い出しはしなかったものたちを、ビルカは何食わぬ顔で引っ張り出してゆく。

「これは、こうか?」

 ビルカがそう言いながら頭から被ったのは、出撃用のゴーグル。ベスティエに乗る時に必ず使っていたものだった。

 しばらくぶりに目にしたのに、不思議なものだ。

 そのゴーグルはそこにあるというだけで、当時の景色をまざまざと思い出させた。

 操縦席の匂いがする。硬いシート。足の裏にはフットペダルを踏み込む感触がある。自然と体が熱くなるのは、照準を合わせ発射レバーを握るまでの一瞬の緊張と逡巡のせい。しかしその瞬間は熱も興奮も引き冷静になる。また打ち落としたのだと。冷静になる。そのあとに聞こえるのは、皆の声だ。帰還したヴァールを迎えるのは、いつも高らかな歓喜の声だ。一人一人がどんな顔でヴァールに駆け寄ってきたかも……。

 全てを思い出す前に、ヴァールは逃げた。

 ビルカが頭に引っかけたまま装着に手こずっているうちに、ゴーグルを取り上げる。ビルカはああ、と声をあげたが、すでに目星をつけていた次の標的へと手を伸ばした。ヴァールは目で追う。

 そこにあったのは一枚の絵だ。

 手帳に挟んであったらしい、小さな絵だった。

「これはなんだ?」

 ビルカが期待を込めて問う。

「アルタール。……空を泳ぐクジラだ」

 逃げたはずの思い出に一瞬にして引き戻された。


 せめてもの慈悲だったろうか。

 ヴァールを助けるように、雨は上がった。

 ヴァールの記憶をあさっていたビルカも雨上がりに手を止め、差し込んだ光に声を上げた。少女の視線は夕焼けの空に架かった大きな虹に釘付けになっていた。

 景色をいっぱいに映し込んだ瞳。その瞳が自分を見つめることをヴァールは畏れた。石の記憶を見るように、心の内をのぞかれるのではないかと思った。

 ゆっくりビルカの顔がこちらを向こうとする。

「もう帰れ。俺の前からいなくなってくれ」

 ビルカがその言葉をどんな表情で聞いたのか、ヴァールは目を向けようとはしなかった。

 何をしているんだ、俺は。

 あれは八つ当たりだ。

 自分が悪いのはわかってる。ビルカのせいにしたい気持ちももちろんあるが、たぶん一方的に自分が悪い。

 傷つけたかと心配するが、でも、そのほうがいいのかもしれない。理不尽に傷つけられてそれで自分のことを遠ざけたくなるのなら、それはもともと望んでいたことだ。

 アルナーサフの言葉などどうでもいい。変化など望んでいない。

 頼む。頼むから、俺を放っておいてくれ。

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