2.
「そういえば、お前の着ているものは、なぜ村の人たちのとは違うのだ?」
やっとのことで追いついた少女が、ぜーはー肩で呼吸しながらヴァールの服の裾をつかむ。
「村の人間じゃないからだ」
ヴァールは少女の手を払わなかった。
この無駄に活気あふれる態度のせいで忘れがちだが、ヴァールが見る限り、体力も筋力も人並みのはるか下にありそうな体だ。その体でなんとかついてきた頑張りに免じて、ほんの少しだけ歩く速度も落としてやった。だが岩場に差しかかると、一段の大きさは変えようがなく、またしても距離が広がる。
それでも少女が服をつかむ手を離さないので、一段上がるごとにぐいと引っ張られ、ヴァールは体勢を崩さぬようにといちいち踏ん張る羽目になった。
そんなヴァールの努力に気づくこともなく、少女は必死にうしろをついてきた。
小さな手のひらがつかむ服。
少女は自分が着ている『カナズの民族衣装』とヴァールの衣裳とがあまりに違うと気になったのだろう。かたや彩りを楽しむ刺繍だらけの、美術品のような衣服。かたや飾りなどない、色も緑がかった灰色のみというつまらない衣裳。
カナズで目覚めた少女がここに至るまでに目にした人間の中に、ヴァールのような服を着た人間は一人もいなかった。
「村に住んでいるのに、村の人間ではないだと。なんだ、またなぞなぞなのか?」
「そうじゃない」
どう答えようか。できれば答えずに済ませたいところだが、はぐらかせば納得いくまでしつこく質問攻めにあいそうだ。ヴァールを見上げる期待たっぷりの眼差しもそう警告している。
ああ、どうしてこんな面倒なだけの子どもになってしまったのか。記憶を失う前の少女の方がまだいくらか接しやすかったのではないかと、今さらどうしようもないことを考えてしまう。湖の少女の姿を稜線の彼方に思い浮かべようとした時。
見上げたところに、一匹の獣がいた。
確実に獲物を捕らえるための筋肉質の肉体と、その強さを隠しきらぬ長さの黄金に輝く毛並みが、遠目にもその獣の正体を知らしめる。
槍の先のような二つの耳をぴんと立て、神獣カラカルがこちらを睨んでいた。
まずいタイミングで遭遇したな。
ヴァールは獣から目を離し、その周辺を追った。カラカルがいるのだから『やつ』も必ずいるはずだ。そしてヴァールと少女の会話を聞いていたのなら、加わりたくてうずうずしているはずだ。
「なぞなぞなどではない」
ヴァールの予想通りだった。
しわがれた声、しかし目の前の獲物に活き活きとしている声が頭上から降ってきた。
山道の脇、壁のようにそびえる岩場のてっぺんに人が立っているのが見えた。
「やっぱり聞いていやがったか」
ヴァールは舌打ちを一つ。心の内で愚痴をこぼす。本当にいつも人が厭がるタイミングで現れる男だ、と。
「こやつはなあ、新しい世界に染まることもせず、もとの生活に戻ることもせず、他人のままでこの村にとどまっているだけなのじゃ。――とカラカル様は言っている」
カナズの村長、アルナーサフは意地の悪い笑顔を見せた。村長というような肩書きから思い浮かべるような老君ではなく、ヴァールより若くさえ見える容姿の男だった。だが実のところの年齢は村の誰に聞いてもわからない。
「あいつがアルナーサフだ」
アルナーサフの言葉で自分のことを語られるのはごめんだと、ヴァールは少女の関心を男と獣に向けさせた。
思惑通り、少女は新しいおもちゃを見つけた子どものように、目をキラキラさせてヴァールの指す方向を見上げた。眩しそうに目を細めたのはほんの一瞬。見つけた嬉しさによって、すぐにまん丸の目に戻る。
「いたぞ! なんだか、すごいとこに立っているぞ!」
ぐいぐいとヴァールの服を引っ張っている。
ヴァールが誘導せずともついでに獣の姿もとらえたようで、いっそう興奮して頬を紅潮させた。
「なんだアレは。キレイな毛だな。気持ち良さそうだな。触りたいぞ」
うっとりした表情で駆け出そうとする少女の襟首をひょいとつまみ上げた。
「やめておけ。今はあっちだ」
ヴァールはアルナーサフを指す。
「記憶を失くしたものに道を示してくれるらしいぞ」
ヴァールの言い方には明らかにトゲがあった。アルナーサフの助言など微塵も信じていないのだ。
ヴァールは、岩の上に立ちカラカルと二人組とを交互に見遣るアルナーサフに声を投げた。
「言われた通り、連れてきたぞ」
「ご苦労。それで、じゃ。たしかに記憶は失くしてしまったのじゃな」
「ああ。すっかりな」
「そうかそうか。では、ちょっと待っておくれ」
アルナーサフはそう言ってから岩の壁を下り始めた。瞬時に足場を見極め、ひょいひょいと跳ぶように下りてくる。一つの石の欠片も崩すことなく二人の前に到着すると、汚れたわけでもないのに衣服の埃を払うような仕草を見せた。
「お前はワタシやカムラと同じだな」
少女は刺繍を見せつけるように、指先で裾をつまんで広げてみせた。
アルナーサフも、ボロ布にしか見えない『賢者のマント』とやらをめくって、同じ紋様の衣裳を着ていることを確認させる。
少女とアルナーサフ。
一目で打ち解けた二人が、そろってヴァールに視線を向ける。
「おぬしだけ違うのお」
「お前だけ違うな!」
言って、ケラケラ笑う。
アルナーサフはともかく、少女の方は深い意味など考えずに、ただ仲間の後に続いただけなのだろう。悪気はない無邪気な笑顔に見えた。
そうとはわかっていても、怒りが沸いた事実は消えない。少女の脳天に軽めのゲンコツを落とし、仲間だ何だの話はこれで終わりにさせる。
「余計なことはするな。さっさと道とやらを示してやれ」
「おお、それが村の長に対する口のきき方かのお。――とカラカル様も嘆いておられる」
存在しないあごひげでも撫でているかのような仕草を加えて、アルナーサフは実に無念と声を震わす。しかしヴァールの反応が薄いとわかると、悪ふざけをやめて少女の前に歩み出た。
膝を折り、同じ目の高さになって、あらためて笑顔を交わす。
「儂はアルナーサフ。カナズの村人にカラカル様のお言葉を伝える村長じゃ」
そっと右手を差し出す。
少女はすぐさまその手を取って、一段と明るい笑顔で言った。
「ワタシは……名前は知らん。どこの生まれのどんな奴かもまったくわからん」
何の紹介にもならない自己紹介だ。
「お前はワタシに『道を示す』ということをしてくれるのだろ? あと、名前をくれるのだ。カムラが言っていたぞ」
「そう言われておるな。そして儂が幸せを与えると」
「なに? 幸せか? 幸せもくれるのか?」
少女は輝く眼差しでアルナーサフに迫る。
アルナーサフはふふと微笑んで、つないでいた手をほどいた。そのまま右手は少女の頭の上に置かれる。
「それは少し違うのお」
アルナーサフの言葉に少女は首を傾げた。
「なんだ? 幸せにはしてくれんのか」
「儂はそのきっかけと祈りを授けるだけじゃ。無論、幸せになるようにと願いは込める。だが本当に幸せになれるかはそなた次第じゃ。――カラカル様もそう言っている」
「うむ。よくわからんぞ」
少女は元気いっぱいに答えた。
ヴァールは頭を抱え、アルナーサフはただただ笑う。
「そうじゃな。わからんな」
笑顔のままそう言って、神獣カラカルの方を見た。カラカルは立ち去ることもなく、黙ってそこにとどまっていた。
「カナズで記憶を捨てたものには、カラカル様が新しい名前をくださる。その名に恥じぬように生きれば、おのずと幸せが訪れるということじゃ」
「ハジヌヨウニ? オノズト?」
少女の理解力の限界をとっくに超えてしまっているようだった。アルナーサフは「すまんすまん」と笑いながら、ポンポンと少女の頭を叩く。
「つまりは良い子にしておれば、良いことが起こるということじゃよ」
さすがにこの程度の言葉ならば理解できたようで、すっきりしたという顔つきでヴァールを振り返った。
「それならばカンタンだな。な」
自信満々。
「俺に聞くな」
少女の顔を無理矢理むこうに向かせる。
戻ってきた少女の視線に、アルナーサフは「おかえり」と笑った。
「では名前を授けるとしよう」
アルナーサフが言い終える前に、カラカルが高く啼いた。遙か遠くにいる何者かに届ける声のように、高く、長く。
三人がそろってカラカルを見上げた。
カラカルは二つ目の声を上げた。
同じように、高く長く。
そうして啼き終わり、谷間を渡る残響が止む前に、カラカルは稜線の向こうへと消えていった。
「よし。そなたはこの日より『ビルカ』となった」
「ビルカ?」
「ビルカよ。湖に溶けた過去が羨むほどの幸福がそなたの体に舞い降りてくることを祈って」
そう言ってアルナーサフは腰に結わえてあった布袋から何かを取り出し、空に向けて放り投げた。
「うわあ」
少女は両手を広げ歓声を上げた。
広げた手のひらに、頭の上に、鼻先に。アルナーサフが投げた何かが舞い降り、やがて少女の体にたどり着いて、刺繍の衣裳をいっそう華やかに飾る。
白。青。赤。黄。橙。紫。緑。黒。
それはジャバルの山域に咲く全ての高山植物の花弁だった。これから旅立つ者への餞のつもりなのだろうか。少女の――いや、ビルカのまわりを飛び交って、彼女のこれからの人生を祝福しているようだった。
キレイな色は喜びや希望を。
ところどころにアクセントのように存在するどす黒い色やくすんだ色の花びらは、いつか経験するであろう苦しみや悲しみを。
お前の未来は、こんな姿をしていると言わんばかりに、色とりどりの花が舞う。
「うわあ。キレイだな……キレイだぞ!」
ビルカはその中から希望ばかりを見出して、輝く笑顔で腕を広げた。。
まさに今、ビルカという名の少女がこの世に生を受けたのだろう。
ヴァールは思う。自分はどんな顔でその光景を見ていただろう、と。ビルカに笑顔を向けられて、歓喜の声を聞かされて、それでも自分は、無関心を装った顔で立っているのだろうか。
『だから関わりたくなかったんだ』
面倒だからというだけではない。こんな瞬間が来るのを怖れていたのかもしれない。
心の奥が沸き立つのを人ごとのように感じながら、ヴァールは奥歯を噛んだ。
ひととおり落ちきった花びらに、ビルカは残念そうに息を吐く。最後の一枚がヴァールの服の袖におりてきた。
灰緑色に映える、鮮やかな赤のかけら。
ヴァールはそれをそっと指でつまんだ。
「そなたにも名を授けようか? さすれば新しい人生に羽ばたいてゆけるやもしれんぞ」
そう言って村長はヴァールの様子をうかがった。
「この景色を見せつけるために、案内役を押しつけたのか」
当然のように隣りに立っていたアルナーサフに問う。
アルナーサフはすぐに笑った。呆れたというような笑い方だった。
「相変わらず、ひねた考え方をするのお。カムラから言われなかったか? 暇なのはお前だけなんじゃと」
「お前が指名したとはっきり言った」
「人に指図されて、聞いたことがあったか?」
「寝床を取り上げられると言われた」
「そなたなら、家ぐらい力づくで奪えるじゃろ。家どころか、やろうと思えば村ごと占領できると思うがいかがかな? つまりは、そなた自身が選択して今ここにいるということじゃ」
「……どうして、俺に案内させた」
問いへの答えは、一拍の呼吸と、一瞬の笑みを挟んで。
「なぜ連れてきた」
短い問いで返ってきた。
アルナーサフの言葉にヴァールは黙った。
「そなたも感じているのかもしれんの」
続けて意味深な言葉が投げられる。自然と視線がビルカへ向いた。
「戻らぬ男。進まぬ男。儂が示す道を拒む男」
言いながらアルナーサフはフフと笑う。
「動かぬそなたに何かをもたらす――と、カラカル様は言っている」
「もたらす? ……あいつが、か?」
ヴァールはあらためてビルカを見た。
一時は花弁が降り止んだことに肩を落としていたが、今は花溜まりで遊んでいる。
不意に目が合って、ビルカは無邪気な笑顔を返してきた。
「何をもたらすって」
「何かを、じゃ。容易に人に聞いてはならぬ。真理とは己が手で掴み取るものじゃ――とカラカル様は言っている」
アルナーサフは声を上げて笑った。
何のことだかわからないはずなのに、ビルカも真似て笑い出す。
この少女が、自分にいったい何をもたらすというのか。それによって何かが変わるとでもいうのか。
湖の力でさえも自分には何の意味もなかったというのに?
だいたい『カラカル様は――』と、まるで神獣の言葉を代弁しているかのようなことを言うが、もう姿も見えなくなった獣の声をどうやって聞いているというのか。どうせでたらめなのだ。すべて、信じる必要はない。
「あいにく無神論者なんでな」
ヴァールはそう言ってアルナーサフに背を向けた。
「どこへ行く」
「ワアダへ」
「ビルカを連れて行ってくれるのか?」
白々しい口調と表情に腹が立つ。
「まさか」
自分の用を済ませに行くだけだとヴァールは言った。了承したのは村長のもとへ少女を届けるまでだ。その先はヴァールには関係のないことだ。
「行き先は同じだというのに、つれないのお」
「なんとでも言え」
「では、勝手について行く分には構わんな?」
そう来たかと、ヴァールはアルナーサフを睨みつけた。
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