蒼を知る少女は赤に染まる

リュウタ

蒼を知る少女は赤に染まる

 人一人が横になるには十分な大きさのソファーに、仰向けに寝転んでいる40代の男がいた。

 濁った目、ボサボサで短い髪、十数日は剃ってないであろう髭、徒歩通勤でこんがり小麦色に焼けた肌に白衣の上から見ても分かる隆々とした筋肉。そしてソファーのひじ掛けには首と両足のかかとがあった。

 この男、勤務中だというのに汚れなどお構い無しに、靴を履いたままクーラーの効いたフロアで電子タバコを吸っていた。


 そんな男の周りでは対照的に看護師があちこちへ移動していた。ナース服を着こなせてない20歳過ぎの初々しい女性から、幾ばくの戦線を乗り越えたか計り知れない兵士のような風貌を纏った五十路の貴婦人が、この一フロアだけでも十数名、ドタドタと給料を稼ぐ音を出している。

 その音は男にとって不思議なものであった。急いで働こうが仕事がすぐに終わる訳でもないし、給与明細書に書かれる数字が上がる訳でもない。

 なのになぜ、息を切らしてまで走り、額に汗をにじませながら働いているのか、と。

 男だって金は欲しい。だがそれは己の娯楽に費やしたい、生活水準を上げたいなどの理由ではなく、暮らしていくには金が必要、というただそれだけの説明で事足りてしまう呆気ない物であった。

 うならば男にとって働くというのは金を稼ぐ手段なのだ。

 故に自発的に働こうとはせず、患者と必要以上にコミュニケーションを取ろうとはしない。名前を呼ばれなければ永遠にソファーでタバコを吸っている、だらしない男であった。

 エレベーター付近にある、今も男がタバコを吸っているそのソファーは、陰で男専用のソファーと揶揄やゆされていた。

 男はバカにされているのを知っていたが、言わせておけばいいのだ、直接言われなければ知らないと同義だ、と意味不明な論理で乗り切っていた。



 なんでこんなこと考えてんだろう。

 気にしてないふりをするも、内心傷ついている男は疑問をていする。他者ではなく自分へ。

 どう考えても生産性のない疑惑は、男の思考をジャックし、やがて自死へと追い込む。


 あぁ、死にてぇ。

 男はタバコを吸い、蒸気と共に気鬱を吐く。


 男がふと横に目をやると、病衣で車椅子に座った少女が一人、エレベーターへ向かい中へ入ろうとしている。

 一体誰だ? なんとなく気になり、目を凝らしてみる。するとその少女は自分が担当している患者の一人だと気がついた。

 それと同時に少女はエレベーターの中へ入っていく。

 自分は少女に対して外出許可は出していないし、病室からもほとんど出ない子だからほかのフロアに親しい友人もいないはず……。どこへ出かけるんだ? と、男は再び別の疑問を抱く。


 エレベーターの階数表示に着目する。

 ──5、6。

 数字は上がっていく。どうやら外に出るようではなかった。

 数字はまだ止まらない。

 ──7、8、R。

 数字ではなく英語で表記された階数のランプが点滅する。それと同時に嫌な予感がした。

 本来R──屋上Roofは基本的には立ち入り禁止区域で、患者が屋上へ行く場合は看護師や医者など、病院関係者の付き添いが必須である。

 しかし、先程の少女の周りには誰も居らず、一人であった。屋上で待ち合わせしていることも考えられるが、そんな不確かな事で見て見ぬふりをするのは、いくら自堕落に働いていた男でも出来なかった。


 患者の行動を知っておくのも自分の仕事の範囲内だ。万が一事故があってはたまったもんじゃないし仕方ないから見に行くとするか、と男は重い腰を上げる。





 エレベーターのランプは変わらずRを橙色とうしょくに光らせていた。

 押しボタンでエレベーターを呼ぶ。勿論下ではなく上へ行くためだ。

 ──8、7、6、5、と順調に降りてくる。しかしエレベーターは男がいる4階を通り過ぎ、一階へと戻る。


 チッ! うざったい!

 男は心の中で悪態を付き、舌打ちする。


 先に下にいた人を拾いに行ったのではない。このエレベーター、使用後、再使用すると必ず一階へ戻る仕様なのだ。元からではなく、長年使い尽くされ、故障した結果である。

 致命的な故障ではなく、また他のエレベーターがほとんどど全てこうなっているため、直すのにも莫大な費用がかかる。そのためこのまま放置しているのであった。

 また、このエレベーターの不具合はもう一つある。

 男が暫く待った後、エレベーターに搭乗し、行先を屋上へ指定する。

 そして扉が閉まる時、


『ドンッ』


 と激しい衝突音を上げる。

 このエレベーターは老朽化が進み、何処からかこのような音が聞こえるのだ。

 耳をつんざく音はエレベーター内にいる人に不快感を与え、また初めて乗る際は防ぎようのないため、先程の故障より深刻な問題となっている。

 大音量で奏でるその音はさながら──男が思案を巡らせていると、ポーンと間の抜けた到着音が流れる。




 屋上。どこまでも吹き抜けた美しい青い天井に男は思いがけず、


「おぉ……綺麗だ」


 と、感嘆する。美しい気色の代償にか、天井から浴びせられる強い熱を帯びた光が男の頭皮を焼く。それと同時に太陽の眩しさに男は目を細める。

 細めた男の目先にいたのは先程の車椅子の少女。少女は男と向き合っておらず、反対側、際限のない広大な青空を一人でぼーっと眺めていた。



 そんな少女に男が見惚みほれるまで五秒前。



 五。



 四。



 三。



 二。



 一。少女がゆっくり振り返り、目が合う。

 晴天。どこまでも広い蒼天、そこにある巨大な積乱雲。

 その積乱雲をバックに少女がこちらを見て微笑んだ。



 零。男は少女に見惚れた。

 

 真っ先に男が魅入ったのは少女の目だった。目が合った時に見惚れたので自然だといえば自然である。

 黒色の瞳孔に茶色の虹彩こうさいという日本人に多く見られる色彩。なのに何故か彼女の瞳には男に美しいと思わせる何ががあった。

 こんなに美しかったのか、とまともに少女の顔を見てこなかった男は驚き、じっとほうけていた。

 次に男の目に入ったのは髪の毛であった。少女の髪は長く、黒く、平安時代の貴族を彷彿ほうふつさせるものがあった。少女の自慢であろう黒髪は、車椅子の外から真っ直ぐ地べたに向かっている訳ではなく、右肩の方へ流れて緩やかにカーブを見せながら髪束は膝へ降りていた。

 髪を追っていると、少女が着ている服から露出していた首元、二の腕が見えた。

 首元は全体的にうっすらと影がかかっていた。

 鎖骨の窪みは特に濃く写っており、その中は少し汗が溜まっていた。

 その汗は、露草にすがるように留まっている一滴の雫のようで、妙に色っぽかった。

 肌は透き通っており、肌と蒼い空が眩い程に映えていた。何度も病室で会ったことがあるというのに、今の今までその透き通った美しい肌に男は気づいていなかった。

 細く、丸みを帯びたむっちりとした二の腕は、世間を知らない気品溢れる箱入り娘のようだと感じさせられた。無垢無知な無色透明の腕に、男は汚してやりたい、と無意識下に自分より半分以上歳下の女性に欲を抱いていた。  

 男に情欲をそそらせる程、少女は官能的で、エロティックであった。


 そこで男はこんな若い少女に発情しているのか!? とはっとする。


 そして男は気づくことが出来た。少女が持つ妙な違和感に。


 髪は一応はかされているももの、毛先が整っておらず、また髪自体に艶がなかった。  

 それは少女がまともに美容院に行けてないことを証明しているようであった。

 二の腕は肉こそ付いているがそこに筋肉はなく、また肌は白く、外に出て運動していないことがうかがえた。

 これだけでも少女が病人であり、長い間入院生活を送っていることがわかる。しかし男が特筆して違和感を覚えた所は、最初に見惚みほれた目であった。


 確かに第三者から見ても少女の目は美しい。そして男にとっては何故だか惹きつけられるものがある目。

 その瞳には、希望や何かを諦めきれないといった感情が浮かんでいるように見えた。

 それがなんなのか男には分からなかったが、蒼くんでいて、尚且なおかよどみがない気持ちに見えて、それは何かに縋り付いているようであった。

 しかし、一度ひとたび目を閉じると、その瞳は赤く、絶望やなんらかの悟りという様相が見てとれた。

 またもやそのなんらかを見抜くことは出来なかったが、少女がそれを強く熱望していることが見てとれた。

 希望と絶望、執念と諦念、蒼と赤。相反あいはんする感情を持ち合わせた少女は、誰が見ても明らかに歪であった。


 そんな少女のしっとりとした佇まいとは裏腹に、少女から受け取る印象は全て受動態であった。

 自分が感じているのではなく、感じさせられている。そんな感覚に陥っていた。


 先程その壮大な情景で男の心を動かしていた後ろの背景でさえ、一つの独立した物ではなく、少女のたった一回の微笑で少女を綺麗にかたどるための小道具の一つに過ぎない小さなモノへ成り代わっていた。

 それはまるで世界が少女中心に回っているように錯覚させられるようで、それはとても暴力的であった。


「先生……? どうしたんです? ずっと黙ったまま私のことジロジロみて……」


 暴力家で傲慢な水彩画の中の淡い主人公は、男を先生と呼び、首を傾げて不思議がっていた。

 その動き一つとっても可愛げがあり、思わず守ってあげたくなるなるような保護欲をグッと湧き上がらせる所作だったが、男は堪える。


「い、いや……特に意味はないんだ」


 少女をじっと眺めていたことが恥ずかしかったのか、男はしどろもどろになりながら答えた。

 まばたきは多くなり声は裏返った。視線は四方八方へ目まぐるしく動かしながら答えていた。

 この一部分だけを切り取り小説にするならば、男の肩書きは不審者の三文字がよく似合うだろう。


 しかしそんな挙動不審さが功を奏したのか、目線があちこちへ動いたおかげで周りの様子がよく見えた。

 そうして男はやっと少女が一人である事に気づく。


「ん? あれ、君一人かい?」


 一人、を強調して発する男。その言葉の中には病院の関係者はいないのか、という意味が含まれていた。


「……ここは一人じゃ入れないはずだよ。説明は受けてるよね?」


 たじろいでいた男の姿は消え、打って変わって強気に少女に詰め寄る男。

 虚をつかれたのか少女は口を少し開け呆然とした。

 つかれた場所が痛かったのか苦虫を噛んだように眉をしかめて渋い顔をした。

 しかし、次の瞬間には悪事でも思いついたのかイタズラげな顔をして、


「……忘れてました。でも先生がここに居るから問題ないでしょう?」


 と抜かしたことを言う。

 早く戻りなさい。なんて叱ろうとしたが、まさかこんなアホな事を言われるとは思わず、先程の少女よりもっと口を開け、男は呆然としていた。


「……はぁ。君はこんな所で何やっているんだ?」


 全身に溜まった呆れを吐き出し、問う。


「……」


「……」


 少女はどう答えたものかと真剣な相貌そうぼうで、男は気を抜いているのかアホ面をさらして少女の返事を待つように黙っていた。


 全くもって、この二人はよく表情が変わる。


「先生はドラマとか映画とか……見ます?」


「おやおや、まともに会話が出来なくなったのかい?」


 と、老婆のような口調で少女を心配する男。

 それもそうである。男が聞いたのは何故ここにいるかであって、テレビの話ではない。


「……まあ、人並みには見てると思うが」


 それが何か関係してるのか? と言いたい気持ちを堪えて少女の話の続きを聞く。


「そのドラマとか映画の中で、高層ビルの屋上から飛び降りて自殺するとか、病弱な主人公が精神的に病んじゃって死んじゃうとか、そういうシーンってよくあるじゃないですか」


 少女は続ける。


「あれってなんで少年や少女、若者なんだと思います?」


「……」


 暫くの沈黙の後、少女が自分に何を言いたいのか、男は勘づいた。

 少女から発せられた少しばかりのヒント。

 それは手のひらですくってもしわと皺から零れ落ちてしまう程に他愛のないものだった。

 男の気が逸れていたら、少女が世間話をするような雰囲気で話していたら、少女が病弱でなければ、ここが屋上でなかったら。

 どれか一つでもなかったら気づけなかった些細なもの。

 パズルの一ピース一ピースのように大事で、一つでも欠けてしまえば永遠に完成しない、少女の違和感に気づけなかった程、大切なものだった。


「……っ待て待て。もしかして自殺しようとしてのか!?」


 医者としての使命感に駆られ、男は声を荒げた。

 しかし男とは真逆に少女は穏やかに諭す。


「まあまあ、落ち着いてください……それで私なりに考えたんですよ。なんで若者が死ぬ物語が売れるのか」


 少女はひと段落つけるため目を閉じ、すぅ、と軽く息を吸う。

 目を開け、話し出す。


「……その方がドラマ的だからとか、ウケがいいからとかそういう理由もあると思うんです」


 少女は続ける。


「でもそれって若者じゃなくても良いじゃないですか。なんで若者だと売れるんですか?」


「……」


 男は黙ったまま、少女の話を聞いている。


 少女の話している内容について考えているのか、饒舌じょうぜつに語る少女に惚けているのかの判断はつかない。


「新しい疑問が出てきて、またもや私、考えました! なんせ時間は潤沢じゅんたくにある訳ですから」


 自嘲じちょう気味に笑う少女。そして、また話し出す。


「私が思うに少年少女が死ぬのって、演出家が若者を殺すのって、


 少女は続ける。


「大人には決してない、尊くて、初々しくて、青々しくて、輝かしい未来があるから!

 そしてそんな未来を呆気なく奪うから、悲劇的に喜劇的にドラマチックになって人は感動するんです。

 感情の沼に陥るんです。……そして私に同情してくれる」


 男は心を見透かされた気がして、ドキッとする。



「…………だから私も盛大に、なるべくドラマチックに死んでやろうと思うんです」


 言い切ったぞ、と満足気な雰囲気をかもし出す少女。

 一方、男は声を荒げていた時から大分落ち着きを取り戻していた。


「やっぱり自殺する気だったんだな」


 男がそう言うと、少女はニカッとはにかみ、人差し指で頬を掻く。


「えへへ……だって先生に言ったら止められると思って……まあ、結局言っちゃいましたけど」


 すっかり冷静さを取り戻した男は今の状況を少女に伝える。


「それで、一体どうやって死ぬんだ?

 ここから飛び降りようにも君は車椅子だ。

 さくが低いからって、君がのろのろと移動しているのを俺が黙って見ているとでも思ったか?」


「そうなんですよね……。

 じゃあ、もう一つ質問しますね?」


 少女はこの状況を目にして、耳にしてもあっけらかんとしていた。


「先生は死のうと思ったことありますか?」


 そう問われた質問に、男は糸口を見つける。


「…………あるさ、何度もある。

 朝ベッドで目が覚めた時も、朝食を取っている時も、出勤中も、働いている時も、家に帰ってぼーっとしている時も、考え事をしてる時もふとした時に死にたくなる。

 そんなこと、誰だって一度や二度、死にたいと思ったことはあるもんだ」


 少女の堅く閉ざされた思考の扉を、無理矢理バールで開けようとする。


 死にたいと思ったことはある。男の発言は嘘偽りのない真実だ。

 事実、先程まで電子タバコをふかしながら死にたいと考えていた。


 男はふうっと大きく息を吐いて、区切りをつける。少女の美しい瞳と自分の濁った目をあわせて、


「君が今、何に戸惑って何にぶつかって何故死にたいと思っているかは俺には分からん。でも人間はそれを乗り越えて行くもんだと思ってる」


 男は続ける。


「だから君は死ななくていい。生きるんだ」


 いつものだらけた男とは想像もつかない程、真摯な態度で少女と対面した。

 いつの間にか男の心の中には、この少女の自殺を止めたい、という感情が芽生えていた。

 普段ならこんなに必死にならない男。

 その理由は分かっていないようであった。


「あははっ。私、先生と初めてまともに話した気がします! 病室で話しかけてもいつも適当だったのに……嬉しいですよ、私!」


 少女は突然笑いだし、満面の笑みを浮かべる。


 全くもって、その二人はよく感情が変化する。


「先生、私も思うんですよ。何度も何度も何度も何度も死にたいって。

 私、入院する前は運動神経抜群で勉強もそれなりに出来て、友達も沢山いて、彼氏は残念ながら居なかったんですけど……まあ、とにかくなんでもできたんです」


「凄い自信だな」


「まあまあ、聞いてくださいよ。

 ……あの頃は周りの色が全部灰色で、でも私が手をつけた瞬間に色づいていたんです。

 私がそれに手をつけることで意味がもたらされる……みたいな?」


 少女はクスッと笑い、続ける。


「そのぐらい私がここにくる前は毎日が充実していて、傲慢かもしれませんが、世界は私中心に回っていたんです」


 男は少女の過去と言葉を飲み込む。

 少女は男に背を向けるように車椅子をくるっと回転させ、表情を見られないように顔を隠した。


「今じゃ全くの逆になってしまいました。私が灰色で世界が色づいて見えます」


 少女は続ける。


「この車椅子がないと生きていけない体で出来ること全てがつまらなくて、楽しくなくて……。

 友達が、先生が羨ましいよ……!」


 男から少女の顔は見えなかったが、少女の表情は決して笑顔ではないことは容易く想像できた。



「今でも目を閉じると、あの頃の楽しかった記憶がよみがえってくるんです。

 その度に昔やってたことがやりたくなって、でもこんな体だからやりたくてももう出来なくて……いっつもこの悪循環。ねぇ、先生。私何度も何度も何度も何度も何度も何度も死にたいって思ったよ……!」


 少女の言葉には重みと嗚咽おえつがこもったいた。

 そしてそれら全ては少女の苦悩そのもので、とてもじゃないが生半可な態度で返事をしてはいけないものであった。


 ずずーっと鼻をすする音が聞こえ、少女が男の方へ向く。


「……えへへ。本当はこんな感じになるつもりじゃなかったんだけど……思い出しちゃったら、つい」


「……そうか」


 再びへらへらとおどけて見せる少女。しかし、まぶたの周りはほんのり赤く、まだ涙が少し残っていた。



「……でもね、先生。私、死にたいと思うのと同時に生きたいって思うんです。

 自分の身体が恨めしくて世界が憎くて先生が羨ましくても。

 ううん、そう思うからこそ私も、まだ自分も、って期待しちゃうんだと思う」


 少女は……少女はまだ続ける。


「ねぇ、先生。……先生は生きたいって思ったこと、ある?」




 男は言葉を失った。落とし物をした。男と少女、積乱雲があるだけのこんな屋上で、こんな屋上だからこそ落とし物をした。


 生きたい、なんて当たり前なこと考えたこともなかった。

 生きる、なんてもの自ら願うものではなく当然にあるものだと思っていたから。

 生きている、なんて世界から当たり前のように享受されているものだと思っていたから。


 男は反射的に目を逸らしてしまう。


「昔のことを思い出す度、自分の死期に気づく度に死ぬのが怖くて、気が狂いそうになっちゃうんです。そうして早く死んで楽になりたいって思うんです……でもそれと同時にもっと生きたい、まだ生きていたい、って思うんです。

 将来のことを考えるんです。自分はどんな大人になるんだろうって、お嫁さんになれてるかなって、どんな仕事をしているのかなって」


 男はただ黙っていることしか出来なかった。

 それでしかこの空間で生き残ることが出来なかった。


「先生は何で医者になったんですか?」


 少女に問いかけられ、ゆっくりとそちらを向く。すると少女と目が合った。黒色のはずなのに、蒼色や赤色に見えたりする瞳。希望や絶望、正の感情から負の感情までさまざまな感情が混ざった瞳と目が合った。


 その時、男は少女の歪な瞳の感情の正体に気づいた。

 これは……生だ。同時に死でもある。両方を同時に、信じられない位強く渇望かつぼうしていたから生まれた瞳なのだ、と。

 そして男はこんな瞳に惹かれる程憧れていたんだなぁ、と気付く。

 ただただ自堕落に生きていた男。死んだように生活をして、最低限の金があって、不自由な生活を送らなければ良いと思って生きていた男。

 そんな男とは正反対の人間が少女だった。

 どれだけ死に追われ、生を熱望したか分からない少女。毎日がつまらなくて、恐怖で仕方がなかった少女。その少女の考えは男にはないものだった。

 それを無意識の内に少女の瞳の中から見つけて、憧れていたのだ。



 なら。だったら、少女をこのまま見捨てて良いのか?

 生きたいと願っている少女をみすみす殺して良いのか?


 そんなの決まってる。



「俺は、君を救うために医者に……」

「だったら助けてくださいよっ!」


 男が言い切る前に、少女は今まで聞いたことのない声量で叫ぶ。


「大人はいつだってそうだ!

 助けるだの救うだの都合のいいことばっかり言うくせして何もしてくれない、誰も助けてくれない!

 私の何が変わったんだ! 日に日に体は動かなくなっていくし、起きている時間だってどんどん減っていく。

 記憶もどんどん消えていって、楽しかった頃の思い出がもう楽しかったとしか思い出せないんだ!」


「私は、私はもう自分が生きているのかわかんないよ。……私を助けてよ……先生」


 先程までの少女とは全くの別人のように、大量の涙を頬に垂らし、一心に感情を刺すようにぶつける少女。その気迫に押されて、無意識に一歩後ずさりする。


「それでも先生はまだ私に生きろって言いますか……?

 誰よりも生きたいと思った私の考えを先生は否定しますか?」


 男は自分が吸う空気が全部毒のような気がして、上手く息が出来なくなっていた。大きく吸うとその毒が体中に回った気がして、吸う息が震えていた。




 少女は空が、生きるということが蒼く尊い事だと知っていた。

 だから自分から日に日に蒼さが、命の灯火が消えていくことに気づき、絶望し赤に染まろうと決意した。

 男は少女の目をまともに見ることができず、うつむく。瞳孔は開き、体は硬直していた。

 何も言えなかった。不可能だった。誰より生に執着している少女に薄っぺらい言葉で説得してはいけなかった。


「先生、私から一つお願いがあるんです」


「……なんだ」


 男は何も言えないほど打ちのめされているというのに、少女はお願いがあると言った。


「少しの間だけ目を瞑っていてくれませんか?

 ……そうですね、一分でいいです。一分間だけ目を瞑っていてください」


 男は少女が自殺することが瞬時に理解できた。

 しかし、少女の過去を聞いて、考えを話され瞳を見つめていたら、止める言葉は出てこなかった。


「……」


 男はただまぶたを閉じた。瞼は震えており、手は強く握り拳を作っていた。




















「…………それでも、俺は、君に生きて欲しい」


 先程まで息も吸えず少女に打ちのめされていた男はそう言った。


 それは男のエゴだった。

 短く吐き捨てるように言ったそれは男のエゴだった。

 立場や状況に関係なく、ただの一人の人間として感情を吐露とろした。




 つむいだ言葉にどれだけの効果があるかは分からない。しかし少女の目は見張り、少しばかり口角が上がっていた。



「そう……ですか……。ありがとうございます。…………それでは、さよなら」


 しんみりとした声でそう宣言された。

 ゴロゴロと車椅子を動かす音だけが響く。

 眼前がんぜん、灯りはひとつもなく、聴覚だけが少女を感じられる唯一の五感だった。

 その頼りない五感を研ぎ澄ませ、少女がまだ生きている証を縋るように聞いていた。

 やがて車椅子の動かす音は消える。暫くした後、


『ドンッ』


 と激しい衝突音が聞こえる。さながらこの音は人と地面が激しく衝突して生じたような音。

 いや、さながらではない。きっとそうなのだ。


 一体もう何分何時間いたか分からない暗闇を抜けると、目の前にいた少女は居なくなっていた。

 晴天が、巨大な積乱雲が、男を貫くような熱い太陽の光がこの屋上の主役になっていた。

 頬をつたう涙、背中ににじみ出ている嫌な汗、握り拳を戻した時に感じる血液の流れ、嗚咽、どれもが生を感じた。


「……仕事に戻らなくちゃな」


 男は少女の元へ向かうわけでもなく、見るわけでもなく何故か仕事のことを思い出す。

 いつもはなるべくサボろうと思っている仕事を、何故かしなくてはいけないと男は思った。

 いや、違う。これは現実逃避だ。

 少女が死んだという現実に目を逸らしたいだけのただの防衛反応だ。


 荒い息遣いと覚束おぼつかない足取りでエレベーターの前へと辿り着く。


 エレベーターの階数表示は一階を指していた。

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