第38話 愛しさは降り続く雪の様に

 そんなまさかと思い、もう一度ビデオテープに書かれた文字を読んだ。


『2000年 6月9日 殺し』


 見間違いではない。

 2000年の6月9日とは、新郷禄先輩が殺された昨日の事だ。

 だとすれば、この『殺し』の文字が意味するものは?

 ビデオテープには、何が記録されているのだろうか。


 近くにあった『1991年 4月 小学校入学式』や、『1993年 8月 海』等とタイトルが書かれた8mmビデオテープが目に入る。

 顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。

 心臓の鼓動が全身の血管から感じられるような気がするほど激しく、深い呼吸が出来ない。


 僕は自分に落ち着くように言い聞かせ、伸ばした手でそのビデオテープを棚から引き抜いた。

 このビデオテープは、8mmフィルムのテープではない。

 ビデオデッキに挿入する規格のビデオテープで、僕の手よりもずっと大きい物だ。

 昨日、ハンディビデオカメラで何かを撮影して、このビデオにダビングした物なのか。

 考えた瞬間、僕は全身の毛穴から汗が噴き出すのを感じながら、もう一度、手にあるテープのタイトルを見た。


『2000年 6月9日 殺し』

 

 恐怖が僕を襲っていた。

 初見では見落としていたが、タイトルが書かれたシールの下に『夜9時』と書かれていたのだ。

 瞬間的に一条さんとした話が甦る。


『彼女の死亡推定時刻は昨日だ。昨晩のことらしい』

『昨晩、ですか? 何時くらい』

『午後の9時前後だ』

『9時?』


 ……もし、ビデオテープに記録されている映像が僕の想像する通りの物であったとして、僕は耐えられるのだろうか。

 その映像の内容を見れるか以前に、ガオちゃんがそのビデオを持っていたと言う事実に対して。

 そして、そのガオちゃんが、僕を家に連れて来たと言う事の意味に。


 だがその瞬間。背後からガオちゃんの「おまたせさん!」と言う声が聞こえて、僕は振り返った。

 ガオちゃんが、湯気の立つ料理を乗せたトレイを持って立っている。


「ん? どうした? 変な顔して」


 固まったままの僕を見て、ガオちゃんがジッと僕の目を見つめた。

 僕は、何と言えば良いのだろうか。

 だが、言わなければならない。確かめなければならない。

 カラカラになっている喉を自覚しつつ、僕は絞り出すようにして言った。


「ガオちゃんが、犯人、なのか?」


 ガオちゃんは、一拍、間を置いて答える。


「はぁ?」


 ガオちゃんは料理が乗ったトレイをテーブルに置くと、僕を見たまま少しだけ口角を上げた。


「何をいきなり変なこと言ってんだよ。犯人って、殺人事件のか?」


 ガオちゃんの視線に耐え切れず、顔を逸らす。

 ガオちゃんはあくまで強気だった。


「オレが犯人のわけないだろ?」

「じゃあ、この、ビデオは」


 僕はビデオテープをガオちゃんに見せる。

 そして、たどたどしくはあったが、はっきりと言葉にして言った。


「2000年の、6月9日って、昨日の日付で、殺しって書いてあって、だから」


 ガオちゃんはビデオのタイトルに視線を移すと、ニヤリと笑った。少しイラついた時の、いつもの顔だった。


「それで疑ってんのか? なら、良いぜ。それ、ビデオに入れて再生ボタン押してみろよ」


 言われた僕は動けず、ガオちゃんは「貸せよ、ほら」と言い、僕の手からビデオテープを奪うと、ビデオに挿し込んだ。


 ガチャッと言うプラスチックの軽さを感じさせる駆動音が聞こえ、映像はすぐにテレビに映し出された。


 ――最初に現れたのは、黒いドレスを着た女性だった。

 目の大きな美人。

 髪は緩くウェーブのかかったボブカットで、色は金色。手には拳銃を持っていた。


『ッ!』


 突然、女性は前のめりに駆け、身を伏せる。

 それが回避行動だと分かったのは、重厚なBGMと共に、空気を裂くような破裂音が、連続的に響いたからだ。

 銃弾の雨が、付近にあった食器の棚を中身ごと粉砕し、破片をバラまきながら壁に突き刺さる。

 それらはスローモーションで映し出され、光を反射させながら、破壊の美しさと言う物をゆっくりと描いて行く。

 やがて、女性が起き上がりざまに手に持つ拳銃を構え、そして――


「満足か? 健太郎」


 ガオちゃんの声と、テレビのスピーカら響き渡る銃声。

 呆気に取られた僕は声が出ず、ガオちゃんは「で、わかったか?」と言った。


「これは映画のビデオだ。昨日、オレが母ちゃんに頼まれて録画した『金曜映画ショー』だ」


 金曜映画ショー。夜の9時から、映画を放送してるテレビ番組である。


「ったく、何のビデオだと思ったんだよ。って言うか、オレを疑うな、バカ」

「で、でも、『殺し』って」

「映画のタイトルが『殺し屋』ってタイトルなんだよ」


 殺し屋?

 何でタイトルを最後まで書かないのかとも思ったが、僕が口にするより先にガオちゃんは言う。


「タイトル書いてたら『屋』って漢字が分からなくなったんだよ。文句あるか?」


 僕は固まった。

 そうだ。

 ガオちゃんが犯人のはずがないじゃないか。

 最初の死体が見つかった時の狼狽ぶりを、僕は思い出す。

 それに、ガオちゃんが、何度も僕を救ってくれたのも思い出した。

 ついさっきも、母の異常さから連れ出してくれたのはガオちゃんだ。

 僕は、何をしているのだろうか。

 ガオちゃんは僕の一番の友達で、いつだって僕の味方をしてくれていたじゃないか。


「ガオちゃん、ごめん、俺、取り返しのつかないことを……」


 言った瞬間、ガオちゃんを疑った事への罪悪感が、急速に僕の全身から熱を奪おうとしていた。

 続いて、目の前が真っ暗になりそうな感覚が僕を襲う。

 しかし、僕は倒れはしなかった。

 ガオちゃんが膝をつき、両手で僕の頭を抱きしめたのだ。


「良い。気にすんな。あれ見て、オレを疑ったってのは仕方ねぇよ。大丈夫だぞ。オレは、こんなこと何でもない」

「で、でも、俺」

「良いって言ってんだろ。こんな普通じゃないことが続いて、余裕もなかったんだ。お前みたいな目に遭ったら、誰だってこうなる。それに、お前は良い奴だ。お前のことはオレが一番知ってんだ。だから、大丈夫だ。オレは味方だぞ、健太郎」


 その言葉で、何かが決壊した。

 気がつくと、僕はガオちゃんの胸に抱かれながら、声を上げて泣いていたのだ。

 もう、止める事は自分でもできなかった。

 声が自然に溢れて、僕は、縋りつくようにガオちゃんの背中に手をまわして、泣き続けた。

 ガオちゃんの優しさで、自分が思っている以上に追い込まれていたことを、改めて実感できたのだ。

 涙は止まることなく、ガオちゃんの服を濡らしていく。

 ガオちゃんの胸は、温かい。

 柔らかく、大きくもあったが、そこに性的ないやらしさなんて感じなかった。

 まるで幼い子供の様に、僕はガオちゃんの体に泣き声をぶつけ続けた。


「大丈夫だ。大丈夫だからな」


 僕の頭を優しく撫でるガオちゃんは、あくまで優しかった。

 次第に落ち着きを取り戻した僕は、しばらく経った後でガオちゃんから離れる。


「落ち着いたか?」

「うん」


 情けない声だったと思う。

 ガオちゃんは僕の返事を聞いた後、ククッと笑い始めた。


「見ろよ、オレの服。お前の鼻水でぐちゃぐちゃじゃねぇか」


 本当に、申し訳なく思う。


「まぁ、良いや。健太郎。飯、食っちまおうぜ。冷めちまったけど。ちょっとシャツだけ着替えるから、先食ってろ」


 ガオちゃんは部屋を出る。

 そしてテーブルの上には、肉の入った野菜炒めに、みそ汁。ご飯があった。

 僕は静かに頷くと、食卓に着く。

 箸をつけて、思わず声が出た。


「美味しい」

「そうか。そりゃ良かった。材料とかは大したもんじゃねぇけどな」


 廊下から、ガオちゃんの機嫌の良さそうな声が聞こえた。

 新しいシャツに着替えたガオちゃんはすぐに帰って来ると、僕の隣にズカッと座り、食べ始める。

 そして、へへっと笑いながら、少し恥ずかしそうな声で言うのだ。


「こんなので良ければ、いつだって作ってやるよ。後さ。結構前だけど、弁当を作ってやるって言ったことあるだろ?」

「あ、うん。そんな事もあったね」


 春の事だ。

 ずいぶん昔のことに思える。

 ガオちゃんと、田中々、そして何故か内野之と武雅まつりも一緒で、お昼ご飯を食べた時の事だ。


「全部、片付いてさ。また楽しくやれるようになったら、本当に作ってやるからな」


 言いながらガオちゃんの顔が少し曇ったが、きっと内野之と言い合った事を思い出したのだろう。

 そして、それが間違いでは無かったかのように、ガオちゃんは口を開く。


「そう言えば、内野之と電話で話したよ。お前が警察にまた連れていかれたって、電話がかかってきたんだ。そしたら、居ても立っても居られなくなって、それで会いに行ったんだよ。だから、あのタイミングでオレがお前を連れ出せたのは、内野之のおかげでもあるんだ」


 なるほど。

 ガオちゃんがどうして僕の家に来たのかは謎であったが、それはこれで解けた。


 とは言え、どうして内野之が僕の現状を知れたんだ?

 とも思ったが、これの理由はすぐに思い立った。

 新郷禄先輩の死体が見つかった後、治水緑地では野次馬が集まりだして大騒ぎになったのを思い出したからだ。

 あの時、振り返らずに坂を上って行った内野之だったが、きっと騒ぎに気づいて治水緑地まで戻って来たのだろう。

 そして、野次馬に紛れて、警察と話をしている僕を見たのだ。多分。


「内野之とは仲直りできたの?」

「一応な。何か、用があるって言ってたから長話は出来なかったけど、ちょっと面白い話を聞くぐらいは話せたぜ」

「面白い話?」

「ああ、とっておきだ。もしかすると」


 ガオちゃんはそこで言葉を切って数秒。笑顔を作って、それから言った。


「いや、お前は気にすんな。とりあえず、疲れてるだろ? 今日は何にも考えないで休め。後でゆっくり知れば良いよ。まぁ、弁当は楽しみにしとけ。パワーガンガン湧いてくるような、すげぇの作ってやるからさ」

「う、うん」

「とりあえず、食え食え。ご飯もおかわりしたかったら言えよ?」


 言われるまま、箸は進む。

 あっという間に料理は僕らの胃袋の中に消えて行った。


「さてと。風呂の支度でもしてくるか」


 ガオちゃんは立ち上がりながら、言った。


「健太郎。ビデオ見たかったら何でも見て良いぞ。あの辺、母ちゃんが録った映画いっぱいあるから。怖いのもあるから気をつけてな」

「ありがとう」

「あ、エロビデオは無いぞ。そう言うのはオレの部屋に隠してある。もし見たかったら出してやるけど」

「いや、いらないよ」


 ガオちゃんはニヤァといやらしく笑う。


「強がんなよ。本当は見たいくせに」

「いらないって」


 ガオちゃんなおもニヤニヤ笑った後、廊下の奥に消えて行った。


 〇


 お風呂は先にガオちゃんが入って、僕はその間、ぼんやりとテレビを見ていた。

 ビデオで映画を見るのも考えたけれど、一本で二時間近くある金曜映画ショーの録画は、どうせ最後まで見る事は出来ない。

 しかし、電話でガオちゃんが内野之に聞いた面白い話とはなんなのだろう。

 まさか、内野之が外貝にされている今の酷い状況だろうか。


つけてくれないの。私が用意しないと』


 思い出す度に、怒りと、それから自分が何も出来なかったことが悔しかった。

 内野之は今も外貝といるのだろうか。

 ふとテレビから、何やらクラシックな歌は聞こえて来た。

 画面の中には「海外の歴史深い観光地」と言う紹介で教会が写っており、修道服を着ている人たちが歌っている。

 聞いていると落ち着くようなメロディだった。

 どこかで聞いた気がしたが、何の曲だっただろう。


「健太郎、交代だぜ」


 声に驚いて顔を上げると、パジャマを着た湯上りのガオちゃんがいた。

 ガオちゃんは僕の顔を覗き込んでくる。


「おい、何難しい顔してんだよ。何かあったか?」

「あ、いや」


 腑に落ちない顔をするガオちゃんだったが「まぁ良いや」と僕に言った。


「風呂、良いぞ。で、着替えなんだけど、シャツとかは貸すからそれ着ろ、でも、男物のパンツとかは無ぇんだわ。オレのパンツでも良いってんなら貸してやるけど」

「それは、いらない」


 僕は立ち上がる。

 ガオちゃんと僕とじゃサイズが合わないだろう……って言うか、それ以前に、ガオちゃんはなんてことを言うのか。

 ゲタゲタ笑っているガオちゃんに「言って来る」と背中越しに言い残した僕は、脱衣所に向かった。

 廊下に出て数メートル。

 脱ぎ捨ててあったガオちゃんの下着が、普通に床に落ちて、僕はビビった。

 とっさに目を逸らしたが、どうしても目に入ってしまう。

 ふざけんなよ、ガオちゃん。デリカシーが無いのにも程があるよ、等と思いながら服を脱ぎ、風呂場のドアを開けた。

 他人の家のバスルームに少し戸惑ったが、体を洗い、熱い湯に浸かると、いつの間にか辛い気持ちが和らいでいるのに気づく。

 もしかすると、ああしたガオちゃんの、デリカシーが欠けていると感じる言動も、僕の気を紛らわせようとする優しさなのかもしれないと思った。

 いや、ガオちゃんがそこまで考えているかは分からないけれども。



 風呂から戻ると、ガオちゃんが僕の分の布団を敷いてくれたのだが、僕は少し驚いてしまった。


「一緒の部屋で悪いな。他に場所無くてよ」

「あ、うん」


 返事はしたものの、どう考えたら良いのか。

 ガオちゃんは、自分の部屋の、自分の寝る布団のすぐ横に、僕が寝るための布団を敷いていたのだ。


「本当に、ここで寝るの?」

「ん? まぁ、そうだよ。母ちゃんの部屋に泊らせるわけにはいかないからな。明日の朝、夜勤から帰って来て、お前が寝てたらびっくりするだろうし」

 

 それはもちろん、そうだろう。

 しかし、高校生の男女が、親もいない家に二人きり、同じ部屋で寝ていたら、それはそれで、びっくりすると思う。

 だが、ガオちゃんは全然気にもしていない様子で、言葉を続けるのだ。


「お前の布団、滅多に出さない来客用の奴だけど、ちゃっちいな。でも我慢してくれよ。それしか無ぇから」


 パジャマ姿のガオちゃんがぐへへっと、ちょっと下品に笑う。


「それともオレと一緒の布団で寝るか?」

「それは、ちょっと」

「そうだろ? だから我慢してあれで寝ろ」


 ガオちゃんがケケケと笑い、それから結論を出すようにして言った。


「じゃあ、とっとと布団に入れ。電気も消すからな」


 ガオちゃんが布団に入り、僕も布団に入る。

 天井から伸びた電気のひもがガオちゃんに引かれると、すぐに暗闇は訪れた。


「なぁ、健太郎」

「何?」


 ガオちゃんの、少しだけ緊張を感じさせるような声に、慎重に返事をする。

 すると、ガオちゃんの手が、僕の布団の中に入って来た。


「が、ガオちゃん?」


 いったい何をする気なのか。

 ガオちゃんは僕の布団の中をまさぐり、僕の腕を見つけて、そっと触れる。

 ガオちゃんの指は、そのまま腕の表面をなぞり、僕の手のひらを見つけると、優しく握って来た。

 そして、僕は暗闇の中でガオちゃんの静かな声を聞く。


「負けんなよ、健太郎。なんとかしてやる。守ってやるからな、オレが」


 僕は何も言えなかった。

 いまやガオちゃんは、僕にとっては家族のようなものだ。

 僕を守ってくれて、味方になってくれる。

 まるで姉の様に。母の様に。

 いつか、ガオちゃんに恩返しが出来るだろうか。

 こんなちっぽけな、弱っていたとはいえ、疑ってはいけない人も疑ってしまう僕でも。

 ただ、今はガオちゃんの大きな手から感じる柔らかな力が、とても心地よかった。

 やがて、ゆっくりとしたまどろみが僕らを包み、僕は知らずに顔を流れていた涙の雫の、その軌跡を感じながら眠りに落ちた。


 〇


 次の日。

 6月11日。

 この日は日曜日で、またもや雨が降っていた。

 よほど疲れていたのか、僕が目を覚ましたのは午後3時。夕方の手前で、この日は、本当の絶望の始まりでもあった。


 僕が目を覚ましてから少しして、僕の携帯電話に電話がかかって来たのだ。

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